第二章 それぞれの過去 ②
王宮の長い廊下を歩きながら、ボルドーの表情はみるみる強張り、その顔に憤怒の色が現れた。それでも一定の歩調で歩みを進め角を曲がる。自分の執務室の前まで来ると、後ろを振り返り誰もいないことをよく確かめてから中に入り、素早く扉を閉めた。
執務室は薄暗かった。カーテンは閉め切られており、上質な煉瓦で組まれた暖炉の火だけが唯一の明かりだった。
ボルドーが扉に内側から鍵をかけると、見計らっていたかのように、暗闇からぬっと人影が現れた。全身黒い装束に、漆黒の長髪。闇の中に青白い肌だけが浮かび上がっている。あの草原で少女を追い詰めていた男だ。
「で、子どもはどうなった?」
ボルドーが視線も向けずに言った。声には焦りと苛立ちが滲んでいる。
「西の海岸線まで追い詰めましたが、取り逃しました」
長髪の男が淡々とした口調で答える。低く、耳に絡みつくような嫌な響きの声だ。
「なんだと!アーズ、何があった?」
ボルドーは闇の中に立つアーズに振り向き、声を荒げた。
「ドラゴンが現れ、子どもを連れ去りました」
「ドラゴン!」
ボルドーが力無くよろよろと後ずさる。机に肘をついた拍子に机上の書類がパラパラと床に落ちた。
「奴はもうドラゴンと繋がれるということか?」
「それはないでしょう。驚いていたように見えました。むしろ、ドラゴンを初めて見たといった様子でした」
「何!それはいい知らせだ、うむ、いいぞ」
ボルドーは身を起こすと、ふらつきながらも室内を歩き回り始めた。
「それで、子どもの行方は?」
「それが、さらにいい知らせがございます」
アーズの口元が歪み、邪悪な笑みを湛えた。その瞳が暖炉の火を受け妖しく光る。
「子どもは、この王都に潜伏しているようです」
「なんと!それは、それは確かか?」
ボルドーがすがるようにアーズに駆け寄る。
「はい。子どもを王都まで運んでやったという行商に話を聞きました。容姿からして、我々が探す子どもで間違いないかと」
「素晴らしい・・・・・・して、その行商は?」
アーズがまた笑みを浮かべる。
「もちろん、余計な詮索をされては困りますから、迅速に始末いたしました。死体は見つからない方法で処理いたしましたのでご安心を」
ボルドーも邪悪な、抑制の効かないといった笑みを浮かべる。
「さすがだぞアーズ。王都に子どもがいるとなれば好都合だ。全てがいっぺんに片付く」
アーズが黙したまま頷く。
「では早速取り掛かろう。部下に命じろ、国王の暗殺は明日実行するとな」
「かしこまりました、ボルドー様。我が精鋭を送り込みます」
「それでいい。これで計画は大きく前進する。笛さえ手に入れれば、我々の勝ちだ」
ボルドーは高笑いが止まらなくなりそうで、必死に声を抑えた。アーズは、いつのまにか闇に溶けて姿を消していた。
水音がして、少女は目を開けた。真っ暗な中、自分の周りだけがほのかに明るいのがわかる。
体を起こす。円形の岩の上に横たわっていたようだ。体に痛みや疲れはない。立ち上がり、岩の表面に、溝があることに気づく。どうやら何かの模様が描かれているようだ。二重の円、外側の円と内側の円の間に、二つの円を繋ぐ短い直線が一本だけ引かれている。至ってシンプルな模様だが、少女には見覚えがあった。どこで見たかは思い出せない。
明かりが、岩の周囲にも広がっていく。それに気づき、少女は顔を上げだ。見える限り、岩の周りは水面に囲まれていた。水の深さはわからない。
ふいに、風もないのに水面に波紋が広がる。岩を中心に、音もなく素早く広がった。
『フウ』
少女は自分の名前を呼ばれ、声の主を探す。
周囲を見回してすぐに、赤いドレスが目に入った。女性のようだが、首から上は光が当たっておらず、顔は見えない。女性は波紋が消えたばかりの水面に立っていたが、フウは不思議と驚きはしなかった。
『フウ』
女性がまた名前を呼んだ。懐かしい、女性の声にそんな感情を抱きながらも、声の主に心当たりはない。
返事をしようとして、フウは声が出ないことに気づく。喉に手を当て、眉根を寄せる。
『フウ』
少女はまた顔を上げる。そして、目を見開く。女性は消えており、同じ場所にドラゴンが佇んでいた。フウをあの断崖絶壁で助けた、朱色の鱗に覆われたドラゴンだ。紺碧の瞳を、まっすぐフウに向けている。
少女がなんとか声を絞り出そうと口を開いた、その時。音を立てて足元の岩が揺れ始めた。それに呼応するように水面が波立ち渦を巻き始めた。
水位はみるみる上がり、水が生き物のようにうねって岩の上にまで流れ込んだ。
足を取られ、背中から倒れ込む。すぐに顔まで水に飲み込まれ、フウは必死に息を継ぐ。ドラゴンは静かにフウを見つめ続けている。
フウは水面の上に手を伸ばし、懸命にもがく。だがすぐに目の前が泡まみれになり、息が詰まり、意識が遠のいて暗闇に沈んでいった。
ハッと息を吐き、フウは目を覚ました。体をガバッと起こし、荒い息を整える。
時間が経つにつれ、背筋にひんやりとしたものを感じた。そこで、自分が汗だくであることに気づく。
またあの夢。枕元の布切れで汗を拭いながら、フウは岩の上からの光景を思い出していた。溺れそうになりながら波間に捉えた、あのドラゴンの姿を思い出していた。
鳥のくちばしを思わせる兜を被った、不気味な追っ手に殺されかけ、すんでのところでドラゴンに助けられた、あの日から半月は経っただろうか。ドラゴンに岩だらけの荒野に置き去りにされたフウは、なんとか大きな街道まで歩き、そこで出会った行商に助けられた。行商はとても親切で、見返りを求めることも、フウの事情を詮索することもなく、この王都まで送ってくれた。
フウは辺りを見回した。王都に着いてなんとか見つけた、身を隠せる場所。小さな土壁の倉庫であるここは、幸い鍵がかかっておらず、忍び込むことができた。倉庫内には箒やモップなどの掃除用具から、フライパンや鍋などの調理器具の予備がたくさん置かれているが、その全てに厚い埃が被っており、なんらかの事情でもう長い間使われていないことが見て取れた。小さなすりガラスの窓から差し込む朝日に、埃がきらきらと光っている。
ここで迎える二回目の朝。その間、何も食べていない。最後の食事は、行商が別れる直前にくれたパン一つだった。ぐうぅ、と腹が鳴る。誰に見られているわけでもないのに、フウは耳が熱くなるのを感じた。
どうしてこんなことになってしまったのか。フウは全ての始まりである、あの夜を思い出していた。




