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プロローグ

 群青の海原で、白い波がうねりをあげる。強い風に煽られて勢いを増した波は、岸壁に激しく打ち付けられる。


 岸壁は高くそびえ、優に五十メートルを超える。白い岩肌が、海岸線に沿ってどこまでも続いている。


 崖の上は、一面草原だった。背の高い草が、吹き付ける潮風を受けて生き物のように激しく揺れ動いている。遥か遠方の山々以外に目につくものは何もなく、果てしなく続く緑の絨毯は、水平線から届く夕日を受け赤々と燃え上がっていた。


 その只中を、一人の少女が駆けている。丈のある草に足を取られながらも、力強く前に進んでいる。


 激しい風が吹くたび鈍色の長髪がうねり、華奢な体は空に浮き上がってしまいそうだ。息を切らし、芯の強さを感じさせる瞳には明らかに焦りの色が浮かんでいた。


 何かを確かめるように何度も振り返り、その度に倒れそうになる。両手をバタバタと振ってバランスを取り、なんとか持ち堪える。


 突然、少女が立ち止まった。振り返ると、鋭い視線を揺れる草むらに向けた。


 海を渡ってきた風の音に紛れ、微かに足音が聞こえる。土を踏み締め、草をかき分ける音。確実にこちらに近づいている。


 少女は目を閉じ、耳を澄ます。音が頭の中で立体的なイメージになり、人間の足を形作る。十九人、思っていたより少ない追っ手の数に、少女は少し安堵した。


 また走り出そうと目を開けた、その時、草むらの奥が光り、短く大きな音が響いた。


 銃声だ。気づいた瞬間、身を捩って飛び退いた。放たれた銃弾は少女の右の頬をわずかに擦り、夕空に消える。頬から一筋の血が流れる。彼女は一瞬たじろいだが、すぐに頬を拭うと、背を向けて全速力で走り出す。


 それを合図にしたかのように、背後から一斉に銃声がとどろいた。振り返っても発砲者の姿は依然見えないが、一つや二つではない、おびただしい銃口に狙われていることは少女にもわかっていた。


 すぐに逃げ切れないと悟り、草原に飛び込む。頭を上げぬよう中腰で先を急ぐが、時折つまずく。そのたびに、地面の小石や枯れ枝が膝に食い込む。痛みに顔が歪むが、構ってはいられない。気がつくと銃声は止んでいた。狙撃手たちは少女の姿を見失ったのだろう。少女も一旦座り込み、息を整える。恐る恐る顔を上げ、生い茂る草の間から様子をうかがう。誰の姿も見えない。


 数秒ののち、背の高い草の上に、一つ頭がのぞいた。光沢のある紫の兜で覆われ、顔はわからない。無表情な口元だけがのぞいている。


 兜の上部、頭の部分は金で装飾されており気品すら感じさせるが、鼻のあたりが鳥のくちばしのように鋭くとがり、言い知れぬ不気味さを醸し出していた。


 兜の人物が手を上げ何かを合図すると、同じ兜をした頭がいくつも草の中から現れた。次々と現れる頭を、少女は急いで数える。十九、やはり正しかった。まもなく、十九の頭が草原から出てきた。


 首から下は、漆黒の鎧に包まれていた。頑丈そうだが、肩から先や膝から下は比較的軽装で、身軽そうでもある。鎧の上には同じく黒のローブをまとっている。そして全員が、長い銃身が冷たく光る鉄砲を背負っている。


 本物の鳥のように首だけを小刻みに動かし、周囲を見回しはじめた。少女を探しているのだろう。


 見つかる前に逃げねば。少女が腰を上げた瞬間、十九人の狙撃手たちが一斉に姿勢を正した。何事かと、少女も動きを止める。


 狙撃手たちが立つすぐ近くの茂みが音を立てて揺れ、長身の男が姿を現した。背丈は百九十センチほどだろうか。細身だが筋肉質で、全身漆黒の装いは他の者たちと似ていたが、より簡素で金の装飾などもなく、実戦的な印象だ。あの特徴的な兜は被っておらず、装いと同じ漆黒の長髪の奥に、不気味なほど青白い肌が見える。眉は細く、鼻筋は高く、中性的な顔立ちだが、藤色の瞳は暗く淀み、見ているだけで不安な印象を与える。


 男が瞳だけを動かし狙撃手たちを見回すと、その中の一人が男に近づき耳打ちした。男はわずかに頷き、何か呟いている。


 逃げるなら今だ、好機を逃すまいと少女は再び動き始める。男たちから視線を逸らさず、ゆっくりと後退りする。男は何か指示を出しているようで、狙撃手たちはそれを取り囲んでいる。一定の距離を取ったら走り出そう、そんな考えを脳裏に浮かべながら、一歩ずつ後退る。一歩、また一歩。


 ばき、と木の枝が折れる音。足裏から伝う堅い木片の感触。しまった、少女がそう思うより速く、男たちが一斉に振り向く。


 少女は中腰のまま男たちに背を向けた。走って逃げたいが焦って立ち上がれない。四つん這いでもがき、とにかく男たちから離れなければ。背後からは、けたたましい足音。もうそこまで来ている。


 少女のすぐ後ろで草むらを漁る音がしたかと思うと、腕が伸びてきて彼女の後頭部を掴んだ。少女は小さな悲鳴をあげて腕を振り払う。


 恐怖で両腕をばたつかせながら振り返る。茂みの向こうから、先ほどの男が少女を睨みつけていた。その瞳にはわずかな光もなく、そこのない穴倉をのぞいているようだった。


 男の口元に視線を移し、少女は震え上がった。男は笑っていた。ご馳走を目の前にした子どものように無邪気に、親が子に説いて聞かせる悪魔のように、邪悪に。


 少女は思わず怯み、バランスを崩した。こわばった顔のまま尻餅をつく。それと同時に、少女は地面が沈むのを感じた。理解するのに数秒かかったが、少女の体は後ろ向きに倒れていた。鬱蒼とした茂みを進む内、少女は草原の端の、切り立った崖の寸前まで来ていたのだ。


 次の瞬間、少女の体は宙に浮いていた。崖から滑り落ちた少女は手足をばたつかせたが、虚しい足掻きにしかならない。


 目を見開くと、重力に従って荒れ狂う海面がぐんぐんと近づいてくるのが見えた。崖上には、男と部下の狙撃手たち。目的は果たしたということだろうか、冷ややかな目でこちらを見下ろしている。少女は海面を見つめ、そして目を閉じる。覚悟して、ただその時を待った。


 次の瞬間、感じたのは痛みではなく浮遊感だった。波の音が少しずつ遠くなる。男たちの怒号が聞こえた気がした。


 風が頬に当たるのを感じながら、少女は恐る恐る目を開けた。眼下には海、そして草原が広がっている。それがどんどん遠ざかっていくことで、少女は自分が逆さ吊りのまま空高く昇っていることに気づく。


 状況が飲み込めないまま、空を見上げる。そして息を呑む。ドラゴン。そう呼ばれている生き物が、そこにいた。大きな翼をゆっくりと羽ばたかせ、後ろ足で少女の両足を掴んでいる。朱色の鱗に全身を覆われているその姿は、勇壮であり、同時に恐ろしい。生き物の荒々しさと、現実味のない神々しさを併せ持っていて、そして何より、美しい。少女は自分の置かれた状況も忘れ、ドラゴンに見入っていた。


 視線を感じたのだろうか、ドラゴンの紺碧の瞳がぎろりと動き、瞳孔が少女を捉えた。彼女はその吸い込まれるような美しい瞳に、また見入ってしまった。今は不思議と恐怖は感じない。それは美しさだけが理由ではなかった。旧知の友に再会したような、懐かしさすら覚える感覚が彼女の心を優しく浸していた。


 やがてドラゴンは旋回を始め、夕日に背を向けた。


 どのくらい飛んだだろうか、果てなく続いているように思えた草原も姿を消し、あたりは荒涼とした岩場に変わっていた。地上に一際目を引く巨岩があった。黒々としていて、天に向かって地面から突き出している。


 ドラゴンは緩やかに降下すると少女をその岩の上に降ろした。そして自らはその眼前に、地響きを立てながら着陸した。舞い上がる粉塵が煩わしいのか、顔を左右に振って、鼻から短く息を吐く。


 少女は吹き出して笑う。目の前の怪物が、彼女には愛おしく思えた。ドラゴンは不服そうに少女を睨む。だが少女の心に、やはり恐怖はない。


「ありがとう、助けてくれて」


少女が言った。空気を震わせるような、静かだがよく通る澄んだ声だ。


 ドラゴンは少女を見つめる。少女もまた、真っ直ぐ見つめ返す。


 やがてドラゴンは、短く唸ると、彼女に背を向けた。


「また会える?」


少女が訊く。


 彼は、ドラゴンは、少女の存在など意に介さないとばかりに歩みを進め、翼を広げると力強く飛び上がった。強風があたりに吹き荒れる。


 少女は髪を揺らしながら彼を見つめ続けた。空高く舞い上がり、やがて見えなくなるまで、いつまでも見つめていた。

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