9話 料理チートはストックがないんだって!
小麦麦芽と小麦粥を材料にした『小麦の蜜』の開発成功から早一か月。
出来上がった小麦の蜜は速攻でルクレティアお嬢様に献上され、お嬢様との合意により『初めからお嬢様は小麦の蜜を召し上がられていた』と関係者全員が捏造。
直接調理やお嬢様が召し上がる様子を見ていた奴隷(つまり侍女、フェリクスのおっちゃん、料理人)は鞭打ちリスクにより捏造をばらす理由はなく、それ以外の奴隷はそもそもお嬢様が初めに食されていたものが大麦由来の麦の蜜ということそのものを知らないため、完璧に隠ぺいが完了した。
これにより俺が熱を出し、回復して以来殺気立っていた屋敷は平穏を取り戻し、関係者一同の生活も同じく平穏を取り戻した。
俺と料理人奴隷以外は。
原因?それはね―――
「ルシウス、次のお茶会のお菓子はどうなっているの?」
「クレープとコンポートとジャムじゃダメです?コンポートとジャムは毎回ドラコさん(料理人奴隷のおっちゃん)が新作作ってるじゃないですか」
「それだけじゃつまらないじゃない!?麦の蜜を食べれるのは私の家だけだけど、それでももっと毎回新しい料理で皆をあっと言わせたいのよ!出来るでしょルシウス!?」
そう、お嬢様がこの小麦の麦の蜜を餌に上流階級令嬢の派閥形成を始めたからだよ!!
ルクレティアお嬢様はこの一か月、公衆浴場で一本釣り……もとい、『仲良く』なった上流階級の令嬢たちを集め、定期的にお茶会を主催している。
メンバーは、都市参事会員の娘や、豪商の娘など、将来のポンペイ女性社会を牛耳るであろうお嬢様グループだ。
つまり、ポンペイの将来を担う上流階級の女性社会が急速にまとまりつつあるという状況なのだ。
そしてその頂点 に君臨するのが我が主ルクレティアお嬢様であり、その権力の源泉となっているのが、麦の蜜と麦の蜜を使った新作スイーツなわけだ。
「お嬢様……そもそも俺は料理人じゃないのでそう言う新しいお菓子とかはその……ちょっと無茶ぶりと言いますか……」
なんとか無限新レシピ地獄を料理人であるドラコのおっちゃんに押し付けるべく抵抗をする俺。
「でもクレープはルシウスのレシピじゃない」
しかし無惨にもお嬢様は俺がうっかり出してしまったお菓子のレシピを例に一刀両断する。
「うっ」
そうなのだ、小麦の麦芽水あめが完成し、ルクレティアお嬢様がお茶会を始めたころ、料理に対する無茶ぶりはこの屋敷の料理人であるドラコのおっちゃんへだったのだが……。
小麦麦芽水あめだけであんまりにも有力者令嬢が釣れて『お茶会』の規模が急拡大したことにより、お嬢様からの圧が拡大し、焦燥するドラコのおっちゃんがあんまりにも哀れに思った俺はこっそりとクレープのレシピを「ミネルヴァ様から麦の蜜を聞きつけたヘスティア様が夢に立って……」と適当なことを言ってドラコのおっちゃんに渡して颯爽と去ろうとしたのだが、お嬢様にバレた。
結果、スイーツ開発の無茶ぶりの矛先が俺に向かってきてしまったというわけだ。
ちなみにドラコのおっちゃんはこれ幸いと俺にスイーツ開発の圧をすべて向けてこさせようとしたが、フェリクスのおっちゃんに「さすがにそれはお前……料理人としていいのか?」と突っ込まれ、今は毎回新作ジャムやコンポートを開発することで名誉挽回に走っている。
なのでそれで十分皆様ご満足なんじゃないですかね?ほら毎回新作のお菓子が出るだけでも相当じゃないです?
「ほら、そのクレープのレシピもヘスティア様の気まぐれな訳ですし……俺はただ夢に出たレシピをドラコさんに渡してみただけで……」
「じゃあもう一度夢でミネルヴァ様かヘスティア様に会ってきなさいよ」
「こちらから会いたいと言って会えるものじゃないですって」
無茶言わんでもろて。
仮に俺の虚言が本当だったとしてもそんなにポンポン神様に会えるわけないでしょ?
常識で考えて?
「なんとかしなさいよ。テルティアが『ルクレティアのおうちはいつも新しい驚きがあるから楽しみ』って言っていたのを聞いたでしょう? 期待を裏切るわけにはいかないの」
テルティアとはお嬢様の公衆浴場一本釣りで釣れた最大の大物、ウンブリキア・テルティア様のことだ。
そう、デキムスが当家に出入りする原因になった、マルクス様が嫌っているあのポンペイのガルム王、アウルス・ウンブリキウス・スカウルスの孫娘もすでにお嬢様の派閥に入っている。
正直それはマルクス様的に良いのか?と思ったのだがウンブリキウスの孫娘が自らの娘の風下に立っている分にはむしろ気分が良いらしく、お嬢様が自慢げにテルティアをこの邸宅に招いたことを伝えた時はなかなかに上機嫌なご様子だった。
「それにお母様も楽しみにしているのよ? 『次はどんな甘いものが食べられるのかしら』って。ほら」
お嬢様がチラリと視線を向けた先には、回廊の奥で優雅に小麦麦芽水あめ入りのハーブティを傾ける奥様の姿。
俺の姿を見ると上品にこちらに手をひらひらさせてくる。
そう、俺がお嬢様の無茶ぶりを一刀両断できない最大の理由はこれだ。
小麦麦芽水あめが完成し「大麦で作った」という奥様に食べさせられない理由が消滅した結果、ルクレティアお嬢様は堂々と奥様にも蜜を献上してしまったのだ。
お嬢様同様に未知の甘味に奥様が陥落した結果、小麦水あめの製造費やお嬢様のお茶会開催費用についての心配は一切なくなったのだが、お茶会に奥様自身も参加することになり、新作スイーツの無茶ぶりを断る=奥様の不興を買う=旦那様の以下略という最悪の折檻フラグピタゴラスイッチの完成。
少なくとも「まだあるだろ?」と認識されているうちはできるけどやらない扱いになり不興を買うことになってしまうわけだ。
流石に大麦水あめ騒動の時の様に鞭打ち前提とかではないが、何らかの折檻を受ける危険性はかなりあるのだ。
ゆえに俺の答えとしてはハイヨロコンデーしかない。
「で?あるの?あるわよね?」
お嬢様が俺に詰め寄る。
「まあ、あと一品だけならあるんですけど……」
「あるんじゃないの。なにもったいぶってるのよ」
「いや、ヘスティア様のレシピと違ってこういうの出来ないかなーという俺の想像の物なので……」
「うんうん。分かってる分かってる」
絶対わかってねぇ……。
そもそも俺の前世は科学系Youtuberなのでお手軽家庭の実験レベルの内容を古代ローマ技術で再現するアイデアならまだまだストックはあるのだが、お菓子とかそういうのは知識の在庫がマジでないのだ。
というか古代ローマ、何気に現代の西洋文明の根幹になっているだけあって、けっこう西洋菓子の原型になるものすでにあったりして余計料理チートが難しいのだ。
そもそも砂糖とベーキングパウダーがない時点でかなりレパートリーが絞られ、それを使わないお菓子は大体この時代に原型があるので目新しさはない。
俺の最初の暗躍のとっかかりになったこの麦芽水あめだって、もう少し後の時代、イタリア内でもゲルマン人によってビール醸造が本格化した時代であったならすでに存在していた可能性だってある。
ついでに言うと生菓子系という手段も一瞬考えたが、そちらはそちらで食中毒リスクが超高いのでボツ。
例えばホイップクリームなどは牛乳を遠心分離すれば生クリームは得られるが食中毒リスクが高すぎるのでとてもではないが貴族の宴席に出せるものではない。
なんか代用生クリーム的なものがあった気もするがレシピが思い出せないので使えない。
そんなわけで出し惜しみじゃなくてマジでネタがないのだ。
「で、どういうスイーツ?」
「本当にこれ以上は出ないんですよ?しかもできるかわからないですよ」
予防線を張った上で俺はシフォンケーキの概念をルクレティアお嬢様に伝える。
ちなみにこの時代にホイッパーはないのでホイッパーの発明も同時に行う必要がある。
「ふわふわなお菓子なんて素敵じゃない!採用!」
「本当にできるかどうかはドラコさん次第ですからね??次のお茶会に間に合わせるのは無理ですし、その次のお茶会でも確実に間に合うかはわからないですからね???」
「つまりドラコに頑張ってもらえばいいのね?わかったわ。次々回のお茶会が楽しみだわ!」
そう言って上機嫌で奥様の元に駆けていき、次のお茶会の招待客選びを始めるルクレティアお嬢様。
全然わかってねえ!!!
あ、でも今の反応だとシフォンケーキ開発で苦労するのはドラコのおっちゃんっぽいし……まあいいか。
しかしこれで本当にスイーツレシピストックが無くなってしまった。
マジでどうしよう……。
なんとか矛先をドラコのおっちゃんに向ける方法を考えねば。
お茶会:
そもそもこの時代はまだ茶が伝来してないので中世以降のお茶会のような概念はなかった。
ただし昼食を昼食会のような形で客を招いて行うことはあった。
分かりやすさ重視で作品内ではお茶会としています。
クレープ:
成立そのものは西暦17世紀だが原型となる薄焼きパンケーキのようなものは古代ローマにもあった。
ただしさかのぼれる主要な記録は西暦5世紀のローマ教皇ゲラシウス1世が巡礼者に振る舞った逸話などなので本作当時はさほど洗練されていなかったものと思われる。
分かりやすさ重視で作品内ではクレープのままで表記します。
ウンブリキア・テルティア:
史実人物の架空の孫娘。
ポンペイガルム製造業界のボス、アウルス・ウンブリキウス・スカウルスには史実で息子がいたが西暦70年代半ば頃に死亡している。
この死をアウルスはひどく悼み、息子のために豪華な墓を建て、参事会(市議会)が葬儀費用として2000セステルティウスを支出したという記録がある。
アウルスの年齢は記録から逆算すると西暦77年時点では60代くらい。とすると息子は30代くらいと推測できる。
息子の年齢から逆算すると娘がいてもおかしくはないため本作ではルクティアと同年代の娘がいた設定を創作しました。
ローマの甘味:
西暦1世紀時点でも結構今日の主要な料理の原型となるものはあったりするので余計料理チートは難易度が高かったりする。
例えば古代ローマの料理書『アピキウス』にはもう一つの甘い料理というフレンチトーストの原型みたいなものもある。




