7話 行商人デキムス
俺はデキムス。
数年前に薪行商として独り立ちしたばかりの行商人だ。
今の俺は興奮と後悔と希望が順繰りに襲ってくるような状態だった。
「……はぁ……はぁ。俺はとんでもねえ博打を打っちまったかもしれない」
ポンペイの石畳を歩く俺が背負うカゴには10セクスタリウス分の麦の蜜が入った重たい壺。
これはルクレティウス・フロント家の管理奴隷のフェリクス様と交わした商談で仕入れた品だ。
先ほど、ようやくありつけた大口取引先のルクレティウス・フロント様の裏門で娘のルシアが屋敷の子供奴隷からもらった不思議な蜜。
ハチミツよりは少し甘みが弱いが、混ぜ物でもなさそうな、それでいて芳醇な麦の風味のする不思議な蜜。
それで焼いたというフェリクス様の秘蔵のパンを食べた時、気が付いたら俺は手持ちのカゴで背負える最大限の重さの蜜を買ってしまっていた。
提示された卸値は2セクスタリウスあたり11アス。
仕入れた量は10セクスタリウス。つまり55アス。
日雇い労働者が1日汗水垂らして働いて得る賃金が大体1デナリウス(16アス)と考えると、数日分の利益をほぼ全てつぎ込んでしまったことになる。
俺のような零細商人にとっては運転資金のかなりの割合になる。
「ルシアこれ本当に大丈夫だよな?俺、フェリクス様に騙されてないよな?」
「フェリクス様がお父ちゃんみたいな零細商人騙すわけないじゃん」
不安のあまり娘に問うと、娘は残酷な、それでいて安心できる言葉を返してくる。
そう、そうだな。
俺はウンブリキウス様の騒動でルクレティウス様の家に出入りしたばかり。
そんな俺をだます理由なんてないし、それで俺がつぶれて薪の供給が途絶えたらそれこそ責任問題だ。
奴隷とはいえこの町の有力貴族の管理奴隷と言えば下手な自由民よりも収入は良いはずだ。
そんな人がこんな数十アス程度の小銭稼ぎでだましたりするはずなんかない。
つまりルシアの目利きはあってるってことだ。
「よ、よし。これは本物の新しい蜜なんだ。これで作る白パンは間違いなく美味ぇんだ!」
「そうだよ父ちゃん!頑張って一儲けしようね!」
横を歩く娘のルシアは自分の見つけた「掘り出し物の商品」が俺に認められたことが嬉しいのか足取りも軽く跳ねている。
俺は娘の直感と自分の舌に残るあの不思議な甘み、そしてフェリクス様に分けてもらった白パンを信じる。
「よし……。やるしかねえ」
気合を入れなおし、俺はさっそく『売り先』に訪問することにした。
向かったのは、普段から薪を卸している馴染みのパン屋。
店先では、石造りの円形オーブンから香ばしい匂いが漂っている。
「よう、デキムスどうかしたか?支払いは週末だって言ったろ?」
支払いの前倒しを求めに来たと思ったのか怪訝な顔で顔なじみの親方が俺の方を見る。
「いや、今日は薪じゃねえんだ、親方。……これを見てくれ」
俺はカウンターの端に壺を置き、蓋を開けた。
琥珀色に輝くトロリとした液体が姿を現す。
「なんだ、ハチミツか?うちは安いハチミツしか使わねえぞ。上等なもんは採算が合わんからな」
「ハチミツじゃねえ。『麦の蜜』だ」
「麦の蜜だぁ?お前ぇ、また田舎の詐欺師に騙されて混ぜモノつかまされたんじゃねえだろうな?いくら安かろうが混ぜモン入りは買わねえぞ?」
壺を怪しげに眺めながら痛いところを突く親方。
たしかにハチミツの仕入れ先を新規に開拓するのは至難の業だ。
新しく開拓できたとしても混ぜ物まみれだったりでまともな商品にならないことがほとんど。
しかしこれは身元がはっきり(貴族の家にあった品)している上に実際になめて確信を持っている。
これは混ぜ物がされたハチミツやサパみたいな果汁の煮詰め液なんかじゃねえ。
「とにかく食って見ろって。ほら」
俺は半ば強引に、持っていたスプーンで麦の蜜をひと掬いすると親方の口の前に差し出す。
「……」
「スプーン一杯で金なんてとらねぇよ」
「仕方ねぇなあ……食うだけだぞ?」
親方はこれで金をとらねえだろうな?と警戒していたが観念して口に含む。
そしてその直後に目を見開く。
「なんだこれ!?確かにこれはハチミツじゃねえな……かと言ってサパでもねえ。甘味はハチミツに劣るがくどくない上に深みのある味……」
「だろ?」
「……値段は?」
親方が俺に聞いてくる。
ヨシ!食いついてきた!!
「そうだな……1セクスタリウス10アス」
「並みのハチミツの仕入れ値と同じじゃねえか!7アス」
「それじゃ儲け出ねえよ。9アス」
「だいたいこれ材料はなんだよ?7アスと薪の代金の支払いを前倒しにしてやる」
「っぐ……支払いは魅力的だが……材料は秘密に決まってんだろ?」
「大麦だって麦だろうがよ。7アスと薪代の前払いでいいな?」
「ちょっと待て!じゃあ一回分の麦の蜜をタダで渡すからこれでパンを焼いてみてくれ!いいのが焼けたら9アス!どうだ!」
こっちはこれで作った白パンの実物を食ってるんだ。
焼かせたら絶対9アスでも買う!
そう確信している俺は親方に詰め寄る。
俺の勢いに根負けした親方は「ったく、しょうがねえな」と肩をすくめた。
そして親方はしぶしぶ俺から試作用の麦の蜜を受け取りパンを捏ねる作業に入った。
「なんだ……? いつもより生地が手に吸い付くような、妙な粘りがあるな」
なんか不思議そうにつぶやいている。
ハチミツとねっとり感は変わらないと思うんだが、そんなに違うのだろうか?
そして数十分後。
オーブンから取り出されたパン。
それを見た瞬間、親方の後ろ姿が固まった。




