56話 法人税と有限責任会社
そんなこんなでようやく地獄のような環境のローマを脱出し、やってきましたリエーティ郊外の冷泉保養地。
リエーティの町から南東に進んだ谷に、その保養地は広がっている。
現皇帝ウェスパシアヌス陛下も毎年のように静養に訪れるというこの保養地の中心には、皇帝の別荘に併設されたアクアエ・クティリアエと呼ばれる巨大複合公共浴場が鎮座している。
ローマにある巨大浴場にも引けを取らないこの巨大公共浴場は、もちろん皇帝専用エリアとはきっちり分かれはいるものの、大部分は一般にも開放されており、避暑に訪れた富裕層や近隣の一般自由民の利用もされている。
そしてその周りに点在する別荘は、質実剛健なウェスパニアヌスの好みに倣ってか、ローマの高級住宅街やバイアエ・ポンペイの別荘に比べると落ち着いた雰囲気を放っている。
そんな中でもアクアエ・クティリアエにほど近い、大きめの別荘に俺はプッさんの招待(強制)により滞在している。
当然、俺の貸与先であるデキムスさん一家、花嫁修業中で俺の主家筋にあたるルクレティアお嬢様も一緒だ。
そして、時期を合わせてアウ爺も近くに中規模の別荘を購入したらしく、ルティちゃんもここにきている。
そうすると、ローマ同様俺の周りは騒がしくなりそうなものだが、今日はそんなことはなかった。
というのも、ルシアが「アクア・クティリアエの野外プールめっちゃデカいんだって!行ってみようよ!!」という発案に、教養バトルから解放されて上機嫌なルクレティアお嬢様が「いいわね!」と珍しくルシアに同調し、ルティちゃんが「いいですね、遊びに行きましょう」と相乗りしたことにより、仲良く3人で浴場に凸っているためだ。
ちなみに女性陣がいてもいなくても四六時中俺から真絹を絞るかのように知識を絞ってくるプッさんも、今日はプッさんが持ってきたマグネシアの石――磁石を小さな木板の上に載せ、「マグネシアの石は北極星に恋してるので常に北を向くって知ってました?」と方位磁針の概念を披露した結果、すごい顔をした後に喜び勇んでリエーティの町をあちこちに移動して実験に繰り出しており、不在となっている。
その顔は完全に、夏休みでお爺ちゃんにラジコンおもちゃみたいなのを買ってもらって公園に凸する小学生のそれだった。
逆じゃね? 立場。
「……まぁ、これで数日は静かになるかな」
さて、気を取り直して冷たい果実水でも飲もうか。
そう思って椅子に深く腰掛け、テーブルにある冷えた水瓶に手を伸ばした、その時だった。
「――ルシウス。少しよいか」
背後から、静かで、しかし妙に威圧感のある声。
振り返ると、紫の縁取りのあるトガを纏った神経質そうな顔立ちの青年が立っていた。
「ド、ドミティアヌス殿下……!?」
俺は慌てて立ち上がり、一礼した。
ちょっと門番さんに給仕さんどうなってるの!? 不審者だよ!?
取次もなしに急に殿下が現れたことに抗議しようと入口の方を見ると、涙目の屈強な門番奴隷さんと若い女性の給仕さんが柱に隠れながら跪いて胸をたたく動作をしていた。
一応すまないとは思ったものの、皇族を前に止めることができなかったらしい。
まあ、俺に対しては推し活仲間として認識してるためか、当たりが柔らかいが、パン屋組合の親方衆とかへの当たりを見てる限り、元来は結構高慢な人っぽいしな。
まあしゃーなし、次から気を付けてねーという思いを込めてあきれ顔で、殿下に見えないように手をひらひらさせると、そのまま門番さんと給仕さんはそそくさと立ち去っていく。
しかし殿下は何の用だろう?
「プリニウスは今日は不在なのか?」
「なんか新たな知識の見分で今日は町を練り歩いておられるようですね」
「あやつらしいな。ならばルシウスよ、お前は今日は時間があるのだな?」
ゆっくりしたいのでないです。
「えぇ、まあ」
とも言えないので、あやふやな笑みを浮かべ、精一杯の疲れてるんだけどなあー帰ってくんないかなーオーラを出すにとどめる。
「そうか。ならばちょうどよい。実は、ミネルヴァ様の英知に触れたお前に、一つ相談したいことがあってな」
しかしそんなオーラは殿下は関知してくれず、俺の向かいの椅子に腰を下ろした。
その目には少しの野心を含んでいるように見えた。
「相談、ですか?」
「うむ。……単刀直入に言おう。国家の財源についてだ」
財源。
予想外の単語に、俺は首を傾げた。
「我が父ウェスパシアヌスは、ネロが空にした国庫を立て直すべく、公衆便所の尿にまで税をかけるなどして死に物狂いで財政再建を進めている。その甲斐もあって現在のローマ財政は一息ついているところだが……私も皇族の一員として、何かしら国家の財を潤す新たな仕組みを提案したいと思ってな」
「しかし、所詮僕はミネルヴァ様の英知によって一発あてただけのしがない奴隷でして……」
「……しがない奴隷は愛と忠義の両方を押し通すために100万セステルティウスを背負ったりはしないと思うぞ」
そういやその話殿下に知られてたんだったわ。
「それに麦の蜜以外にもずいぶんと儲けていると私の耳にまで届いているぞ?それだけの商才があるのだ。税の財源くらい、思いつくであろう?」
うーん……これは『僕ただの一発屋なのでわかんないっすねー』とは言いにくい感じだ。
……しかし、財源か。
あるかないかで言えば、ある。
この時代は、高度な徴税ができないことから単純課税が基本的な財源となる。
人一人当たりで課税する人頭税、土地に対して課税する土地税、商品の取引に課税する物品税、あとは関所の関税などだ。
これらの一律課税は、『財政の予測が容易になる』『高度な制度が存在しなくても徴税が可能』というメリットがあるが、経済全体から見た場合、徴税効率が極めて悪いので経済的には悪影響の多い税となる。
「商人の『利益』から税を取るという案などはどうでしょう?」
俺は近代以降主流となっている所得税、その中でも事業所得への課税を殿下に提示してみる。
「確かに儲かっている商人どもに課税できれば莫大な税収になるであろうが、そもそもどうやって計算する?大人しく商人どもが帳簿を渡すとでも?」
俺の提案に殿下は素直な質問をぶつけてくる。
まあ当然の感想だ。
「まあ普通に考えると商人にとってはデメリットだけなので、元老院に働きかけて全力で抵抗するでしょうし、進んで帳簿を渡したりもしないでしょうね」
「現状で元老院との対立は父上も望んでいない。無理に通すのは難しいぞ」
「ではメリットをバーターにするというのは?」
「メリット?どのような提示できるメリットがあるというのだ?」
殿下の質問に、俺は所得税の案を説明しながら別に考えた案を提示することにする。
所得税はいわゆる近代国家の税収の基礎となる個人所得税と、広義の所得税である法人を対象とした法人税に分かれる。
そして現状のローマにおいては個々人の所得を把握するのは実質的に不可能だ。
なので税を作る場合は法人税となるのだが……。
この時代、法人という概念はほぼない。
ソキエタスがその概念に近いが、あくまで個人商店の域を出ない。
他には特定国家事業を行う際の組合もあるが、これもいわゆる少数例に過ぎない。
じゃあどうすればよいか?
「有限責任を認める特別な組合、有限責任組合という制度と抱き合わせで有限責任組合への利益税を導入すればよろしいかと」
そうだね、法人って概念と一緒に、有限責任って概念を再定義して、法人税とセット販売しちゃいえばいいんだね。




