55話 くんかー襲来
「はい、ルクレティアお嬢様。冷たいカモミールのインフュージョンでございます」
「うんうん。シュワシュワもいいけど、やっぱりこれよねー♪」
避暑への出立を明日に控えたある日の朝。
出来立てのお嬢様プロデュースの石鹸を、アグリッパ浴場で見せびらかしてきたルクレティアお嬢様が、上機嫌で俺が差し出したアイスカモミールティを飲む。
「アウ爺とテルティアちゃんもいかがですか?」
「ぜひ頂こう」
「ありがとうございます、ルシウスさん」
そしてお嬢様が来訪する前から、今後の方策に対して話していたアウ爺と、ルクレティアお嬢様と一緒にアグリッパ浴場に行っていたアウ爺の孫娘であるテルティアちゃん(アウ爺に合わせて呼び方を改めることになった)にもアイスカモミールティを振る舞う。
避暑への出立へ向け、奴隷がせわしなく荷造りやら何やらの作業に追われる邸宅内の中庭で、俺は二人の良家のお嬢様を見比べる。
穏やかなニコニコ顔で小動物のように冷茶を飲むテルティアちゃんと、有頂天のご満悦顔で勢いよく冷茶を飲むルクレティアお嬢様。
やっぱり同じお嬢様でもテルティアちゃんとルクレティアお嬢様では毛色が違うなあ。
家柄的には逆じゃね? と思うんだよなあ気質。
口に出したら(ルクレティアお嬢様に)ぶちギレられるであろう感想を抱きながら、俺は聞くまでもない確認を一応行う。
「それで、ルクレティアお嬢様。その顔を見る限り、結果は上々だったようですね」
「上々どころの騒ぎじゃないわ!石鹸を使った途端、もう浴場の淑女の視線は私に釘付け!!」
俺の問いに答えるルクレティアお嬢様は、満面のドヤ顔で、最近急に成長が始まった胸を張った。
「微温室で体を温めてから高温浴室に入って石鹸を使った途端ね、同じ浴室にいた昼食会とかでよく見る令嬢たちの目が―――」
「あのぅ、ルシウス君……」
そしてルクレティアお嬢様がアグリッパ浴場で行ったであろうマウンティングを意気揚々と語り始めた時、ルシアが困惑気味でそれを遮り俺に声をかけてきた。
「ちょっと!?」
「どうかした? ルシア」
「ええと……邸宅の正面に、多分……来客っぽいおじさんが来てるんだけど……」
プンスコ顔のルクレティアお嬢様を抑えつつ、とりあえずルシアの方の話を聞いてみると、どうやら来客らしい。
「けど?」
「なんかすっごいなんか変なおじさんなの」
「変なおじさん?」
「身なりは良いんだけど、何というか、その……目が血走っていて、鼻を大きく膨らませて……あっちこっちを嗅ぎまわってる。比喩じゃなくて」
ルシアの断片的な情報だけ聞くと変態にしか聞こえないんだが……。
「あと、ラエリウス・コスムスって名乗ってた」
「ラエリウス・コスムス?それは多分、貿易商のマルクス・ラエリウス・コスムス殿かもしれないな」
ついでのようにルシアが後出しした本来必要な情報に、アウ爺が反応する。
「知ってるんです?」
「名前だけはな。もし本人だとしたら、紅海貿易を牛耳る大商人だが……」
アウ爺の補足情報で、判断が門前払いから、どうすっかな……といった困惑に変わる。
俺は嫌な予感を覚えつつも、さすがにそんな大商人を門前払いにはできないという結論に至り、とりあえずうちへの訪問理由を聞くために、正面玄関へと向かうことにした。
門の前に出ると、そこには上等なトガを着崩した、初老の男が立っていた。
歳は大体プッさんと同じくらいだろうか。
身なりは明らかに富裕層のそれなのだが、髪を振り乱し、鼻の穴を大きくしてぶつぶつと呟きながら玄関近辺の匂いを嗅いでいる。
控えめに言って、かなり不審者だ。
「あの、ムニウス・ザギッタの邸宅に何か御用で?」
とりあえず、表向きここはデキムスさんの邸宅なので、デキムスさんの名義で名乗りを行う。
「む、少年よ。後ろの方がこの家長殿かな!?さっきアグリッパ浴場から出てきたお嬢さんがここに入るのを見たのだが、ここの令嬢ですかな!?む!?この匂いは!!!最近出回っている月桂樹の石鹸だな!?」
おそらく、俺の後ろで様子を見ているアウ爺のことを邸宅の主と勘違いした様子の裕福な変態が、俺と後ろのアウ爺を見つめながらまくし立てる。
そして石鹸を常用している俺の匂いにも気が付いたようで、俺のこともクンクンと嗅いでくる。
とてもキモイ。
そんなことを思っていると、背後からお嬢様の気配。
「ちょっとルシウス?私を放って来客と話し込むなんて言い度胸――」
「この香りだあああああああ!!!!!!!!」
「きゃあああああ!?」
お嬢様が登場するなり、裕福そうな変態は目にも止まらぬ速さで俺の横をすり抜けてルクレティアお嬢様に迫る。
「ちょっと!?なんなのよこの人!?!?!?!?」
お嬢様が露骨に嫌そうな顔をして一歩下がる。
しかし、おっさんはお嬢様に近づくなり、さらに興奮したように鼻を膨らませた。
「この香り!その残り香!間違いない!アグリッパ浴場の前で感じた香りはこれだ!!!」
そう言いながら完全に理性をかなぐり捨ててお嬢様に迫るその姿は、完全に変質者である。
「ひっ!?」
お嬢様が本気で怯えた表情を見せる。
「門番さーん!!!ちょっとこの変態取り押さえて!?」
流石にそんな変態を放っておくことはできず、慌てて俺は、表に控えている屈強な門番奴隷を呼び出した。
……。
――数分後。
流石に変態とはいえ、推定『紅海の有力貿易商』を路上で跪かせて尋問するわけにもいかず、一旦お嬢様たち女性陣を中庭の方に避難させ、アウ爺と共に事情を聴取することにした。
なお、こういう場合、丸投げできる便利なデキムスさんに聴取を丸投げしたいところだが、今日は避暑前に麦の蜜フランチャイジーとの会合でローマ市内を巡回しているんで不在。
面倒だが直接俺が聴取する必要がある。
「つまり、調香師であるあなたは、アグリッパ浴場でお嬢様の香りをかいで、その香りをたどってここまで来た、と」
犬かな?
「そうだ! 私は香りの専門家だ! だからこそ、あのアグリッパ浴場の外まで漂ってきた香りに度肝を抜かれたのだ!」
そんな俺の内心の感想をよそに、コスムスと名乗るおっさんは、身振り手振りを交えながら熱弁し始める。
「普通は香油というものはオリーブ油などの基材に香りを溶け込ませるものだ!それ故にどうしてもこう……『のぺっ』とした重たさや、『どしっ』とした重厚な香りになる。もちろん我々調香師は、そんな香料の特性を組み合わせることにより、深みのある香りを作っているのだが、どうしてもこの香りの重みからは逃れられぬのだ!しかし最近、純粋な花の中から『ふわり』とした瑞々しさを吸い出したり、月桂樹の『キリリッ』とした端正な香りを持つ、油に頼らぬ香りがあるという噂を聞いてアグリッパ浴場の前で調べていた所……あのご令嬢が纏っていた香りにあったのだ!あの香りはまさに私が理想とする貞淑な女性の香りそのものだ!油の重たさが微塵もなく、空間に『ふわりふわふわ』と舞い上がり、風が吹けば『さらしゃらん』と透き通るように鼻腔を撫でる!そしてそこには『のぺっ』っとした不貞さの気配が一切ない!!それでいてにおいをつつみこむ甘みを含んだ『ピリリっ』という香りには一つの芯が垣間見え、強い女性の一面を感じる!あんな軽やかで純粋な中に深みを感じる香り、私は知らない!」
息継ぎもほとんどせずにねっとりとした、香りに関する熱い思いを大声でぶつけてくる変態。
……最近ひと息で一気にまくしたてるおっさん多くない?
ローマ上流階級のブームかなんかなの?
ちらりと中庭にいる女子3人を見ると、すんごいドン引きしている様子が見て取れる。
なにせいつもはほわほわ顔のテルティア様さえ『えぇ……』という表情だ。
ルクレティアお嬢様に至っては、急に知らない人に尻尾をつかまれた猫のような警戒態勢。
「頼む!私は香りに人生をかけているのだ!教えてくれるまでここから動かんぞ!さっきちらりと奥の部屋に調香室らしきものも見えた!ここで香りを開発しているのだろう!?父の代から紅海貿易で得た金ならいくらでもあるんだ!!!何なら船を何隻か譲ってもいい!!どうか、どうか『さらしゃらん』の秘密を私に教えてくれぇぇぇ!!!」
そして目の前の机ではいい歳したおっさん(変態)が勝手にヒートアップして、ジタバタと駄々をこね始める。
そしてすぐさま俺の脇に控えさせていた門番奴隷に取り押さえられる変態。
なんか暴れそうだなと思ったので門番奴隷さんを脇に控えさせておいてよかった。
「どうすっかなこれ……アウ爺、どうおもう?」
「彼の父君とはだいぶ昔に何回かあったことはある……父君の若いころと瓜二つであるし、マルクス・ラエリウス・コスムス殿本人ではあるだろうな」
「と、するとこの人、紅海貿易の中心人物なの?」
「うむ。ラエリウス・コスムスと言えば、エジプトから先、紅海貿易を取り仕切る超大物だ。香料ならアラビアの乳香や没薬、調味料ならインディアの胡椒や香辛料……ローマに入ってくる東方産の高級品のかなりの部分を奴が関係する商会が牛耳っている。総資産で言えば、儂など足元にも及ばん桁外れの大富豪だぞ」
「まじかー……」
この時代、貿易は製造業よりも圧倒的に儲かるとは聞いたことがあるが、ガルム王のアウ爺よりも金持ちなのかこの変態。
「……当代は調香師としても名を馳せていると儂も耳にはしているが、ここまで香りに傾倒しているとはなあ」
振る舞いからそんな大富豪とは思えないが、アウ爺の情報ならば確かだろう。
正直、プッさんやドミティアヌス殿下に近い、なんというか……スゴイねちっこさを感じるので、できればお近づきにはなりたくないのだが……。
だが、一方で東方の香料などは今後の化粧品展開を考えると必須材料だ。
特に乳香などの樹脂系や木材系の香料はインドやアラビア半島原産の物がかなり多い。
売れる恩があるなら売っておくべきだ。
どうすっかなあーーーーーー。
……。
もうすでにプッさんというガンギマリがいるんだし、多少増えても誤差か。
「とりあえず、コスムスさんが衝撃を受けた香料を使った石鹸なんですが、市場への供給拡大を考えていまして、フランチャイズという契約を結んだら作り方を教えているんですが……」
「結ぶ!!!」
二つ返事で即答するコスムスさん。
「じゃあ、とりあえず、僕は明日から避暑に行くんで、秋口くらいまでに『これぞ!』という香料の原材料集めてもらえます?それまでにこの屋敷内で使える機材を増やしておきますので、秋にローマに戻ってきたら当商会の香料製造方法をお教えしますし、なんならその香料の数々を至高の香りにするための作業を、当商会と一緒に行いませんか?」
プッさんの件も踏まえ、0.1秒ほど熟考した末に俺が出した結論は『とりあえず後で考えることにする』だ。
秋口にはアウ爺やポンペイオールスターズとかが発掘してくる人材も増えるだろうし、この変態を押し付ける先もできるだろう。
とりあえず化粧品のフランチャイズに加盟させ、避暑の間に香料を集めさせてから、秋にどうしようかを考えよう。
「任せたまえ!秋まで待たなければいけないのは大変、非常に……ものすごくつらいが、至高の香りを作るための試練と考えよう!それでは東方中の最高の香料を秋口までにそろえてみせるぞ!!!!」
そう言うとコスムスさんはガタッと立ち上がると、そのまま走って立ち去っていく。
その様子を中庭から汚物を見るような目で見つめる女子たち。
なんかこう、何とも言えない空気だけを残して変態は去っていった。
「よし、これで心置きなく避暑に行けるな」
秋口にとんでもない爆弾を抱えた気がしないでもないが、まあいい。
化粧品事業的にはメリットがあるし、ヨシ!
明日からのリエーティでの冷泉保養。
羽は伸ばせないだろうけど、楽しめる部分は楽しもう。
マルクス・ラエリウス・コスムス:
碑文などの記録に残っているのは、1世紀前半、ティベリウス帝の治世中にベレニケで活躍した商人。
港の中央にあるイシス神殿の再建を担ったとされる。
また、1世紀後半には調香師として彼と同名の『コスムス』という人物がいる。
氏族名(ローマ貴族系)と家族名(ギリシア系)の組み合わせから解放奴隷の出と思われる。
本作では解放奴隷の貿易商コスムスの息子または孫が調香師コスムスだったという説を採用しています。




