53話 好きなことして生きてきたい
7月。
地中海の容赦ない日差しが降り注ぎ、帝都ローマは本格的な夏を迎えていた。
推定人口100万人を誇るこの巨大都市の夏は、控えめに言って地獄。
現在のように冷房稼働に伴う発熱がなくでも、100万人という人間の熱源、そして熱を吸収する石造りの都市構造によって、おそらくヒートアイランド現象が発生している。
そしてその熱気によって増幅される汗の臭い、排水溝から立ち上るアンモニア臭。
さらに追い打ちをかけるかのようにローマ近辺に広がる湿地帯からは様々な疫病がローマ人を屠ろうと虎視眈々と狙ってくる。
そんな季節が帝都ローマの夏。
当然ながら、財を持つローマの貴族・富裕層は夏の間はそんな地獄に留まり続けることはない。
この季節、上流階級の多くはローマから脱出し、バイアエやポンペイといった保養地に出かけ、そこで社交に興じるのが常だった。
つまり俺が脱出したポンペイは、今がまさにハイシーズンに当たる。
そのため、ここで打ち手を間違うと、せっかくポンペイを脱出したのに避暑の名目でポンペイに行く羽目になるのだが……。
そこは幸か不幸か、俺やルクレティアお嬢様はポンペイ戻りは回避することができていた。
回避理由は簡単。
プッさんである。
プッさんのご招待(強制)により、俺たちはリエーティというローマ郊外の冷泉保養地に向かうことになっているからだ。
ポンペイやバイアエが21世紀のラスベガスのような華やかな観光地だとすると、リエーティというのは草津とかの伝統的な保養地といった立ち位置なイメージ。
皇帝が毎年夏の間に静養に向かうのもこのリエーティらしく、それ故に皇帝の側近であるプッさんも今年はこのリエーティに向かうとのこと。
当然皇室とピソ家の関係改善を狙う我がルクレティウス家の令嬢であるルクレティアお嬢様も、俺とセットのプッさんによる招待という名目でリエーティに向かうことになっている。
そして俺は、今はまさにそんな麗しの保養地リエーティに向かうため、地獄の都ローマに残った仕事を片付けている所なのだが……。
「あーもう! ムシャクシャするわ!! なんなのよあの高慢ちきのギリシア人教師は!!」
同じく、今抱えている宿題をクリアすればリエーティに行けるルクレティアお嬢様が、その宿題を前に盛大に発狂していらっしゃった。
現在、ルクレティアお嬢様は母方の本家である名門貴族ピソ家の本邸にて、花嫁修業の真っ最中なのだが、ここ最近は修業から逃亡しては、こうして俺の邸宅に屯する日々が続いている。
まあ元々ルシアとのキャットファイトで高頻度で襲来していたのだが、ここ最近は昼食会などの社交がない日は、昼からずっと入り浸っている。
「まあまあ、お嬢様。冷たい果実水でも飲んで落ち着いてください」
お嬢様をなだめながら塩を入れた氷水の壺で冷やしておいたシトロン果汁を麦の蜜と微炭酸で割った簡易清涼飲料水を差し出す。
「あ~~~♪ひんやりぃ~~~~」
お嬢様はそれを一気に飲み干し、一転ご満悦。
流石にもうちょっと味わったほうがいいですよ?
水銀温度計の融点の印をつけるために確保してる氷なんで実質ただですけど、普通に作ったらそれ1杯で金貨1枚はいきますからね?
そんな俺の感想をよそに、クールダウンしたことにより不満の言語化が完了したのか、怒りが再燃したお嬢様はまたまくし立て始める。
「で!聞いてよルシウス!昨日の昼食会の後のことよ!あの教師、私が果物を食べた後の感想にネチネチネチネチと駄目だしするのよ!『ローマの上流と肩を並べるならギリシア語でホメロスの詩を引用するくらいでなければ』とか!知らないわよそんな昔のギリシア人の苦労話なんか!」
なるほど、ストレスの原因はそれか。
古代ローマにおける上流階級の花嫁修業というのは、料理や裁縫を学ぶことではない。
家政の管理能力、そして社交のための高度な教養を身につけることだ。
特にギリシアの哲学や文学、詩作の知識は、他に何か突出しているものがない限り、ローマの上流階級には必須の武器である。
ポンペイという地方の保養地で、ぬくぬくと箱入り娘として育ってきたルクレティアお嬢様にとって、帝都の洗練された教養バトルは、あまりにもハードルが高すぎたのだ。
「ギリシア学問はそんなに短期間で習得できるものじゃないですからね」
「リバーシの腕やこの美貌で一目置かれてはいるけれど、正直それ以外だと見くびられかけてる気がするわ!この!私が!!」
香油をメインにしたヘアケアから石鹸と香油をバランスよく合わせた美容戦略により、お嬢様はその容姿では一目置かれていた。
そしてリバーシによる地頭の競い合いではいまだに連戦連勝中。
そのため『田舎者にしてはなかなかやる』という評価は得ているようだが、お嬢様はそれでは不満らしい。
「では大人しくギリシア学問をゆっくり学べばよいのでは?」
リバーシの才能と美貌に物を言わせた求心力というものはあるのだ。
多少ローマ基準ではレベルが低くても、ある程度ギリシア学問を習得すれば、平均以上に一目置かれる存在にはなるだろう。
「嫌!私はすぐに見くびられない立ち位置が欲しいの!私がいる時は私の知識で独壇場になるようなのがいいの!」
「やー……さすがにそれは……難しいんじゃない?」
あんまりにもあんまりな物言いに、発狂するルクレティアお嬢様でマウントを取る準備をしていたルシアがドン引きしながらお嬢様に言う。
そんなルシアを見て、お嬢様は「ルシアあんたは分かってないわねー」といった表情を浮かべた。
「そこであんたの事業よ!ルシウス!」
そしてお嬢様は椅子からガタッと立ち上がり、俺をビシッと指さす。
「私も、ルシウスの事業に噛ませなさい!」
「……はい?」
「あんたとデキムスが今広めてる石鹸と化粧水!あれにはローマの淑女も夢中なの!そこで私があなたの庇護者として、あなたが作っている石鹸の新しい香りをデザインしてあげるわ!その話題を出せば私に来る質問はその香りに関するものだけ!なんならその場で香りを作ったりすれば、もう私の独壇場よ!ギリシア文学の引用なんでポイーよポイ!」
要するに、圧倒的な流行の創造者の地位を確立することで、ギリシア学問の知識不足を有耶無耶にしてしまおうという戦略か。
相変わらずマウントにかける執着が凄いな、ルクレティアお嬢様は。
まあ好きなことして生きていきたいという思いは分からないでもない。
何せ俺が前世含めてそうな訳で。
「うーん……」
「ルシウス君。さすがに断ったら?今のルシウス君なら無理にルクレティアお嬢様の言うことを聞く必要、ないでしょ?そもそもうちの庇護者はマルクス様であってお嬢様じゃないし」
はたから見ると流石に傲慢極まる無茶な要求に、眉間にしわを寄せながら俺にルシアが助言してくる。
うーん……いや。
お嬢様を流行の創造者としてプロデュース、か。
「行ける、と今の段階では言い切れませんが、案としてはありかもですね、お嬢様」
「でしょ!!!!」
お嬢様が勝利を確信したように顔を輝かせる一方で、ルシアが「え? ルシウス君!?」と素っ頓狂な声を上げる。
ルシアの言い分も一理ある。
しかし、試してみる価値は十分にある。
よし、ちょっと試してみますか。
お嬢様トレンドセッター化計画。




