52話 わ、わー光栄だなー(震え声)[2/2]
「お、おい……嘘だろ?」
隣を歩いていた親方が、引きつった声を上げた。
俺の顔も多分ひきつっている。
デキムスとルシウスに先導され、スブッラ通りの端を抜け、大工たちの声が響く円形闘技場建設現場を横目にフォルム・ロマヌムを横切り、丘を上り――
30分ほど歩いたころ、見えてきたのは荘厳な雰囲気と威圧感を放つ、カピトリウム神殿。
見上げるような急な階段。
その頂にそびえ立つ、巨大な大理石の円柱群。
ローマ帝国の信仰の中心であり、国家の最高神を祀る絶対の聖域。
「な、なんであそこに向かってるんだ!?」
「待て待て待て、俺たちみたいなパン屋が、あんな神聖な場所にぞろぞろと立ち入っていいわけがないだろう!」
迫る神殿の階段を前に、俺たちの間に、急速にパニックが伝染し始めた。
儀式を行う神殿といえば、せいぜい街角の小さな祠か、スブッラ地区のミネルヴァ・カプタ神殿だろうと思っていたのだ。
まさか、国家守護の中心であるカピトリウム神殿に連れてこられるとは、誰一人として想像していなかった。
そもそもなぜあそこが利用できるんだ!? 地方都市の一介の商人と奴隷だぞ!?
そんな混乱をまるで意に介さず、ルシウスとデキムスは神殿の階段を登って行ってしまう。
そしてそれを、周りにいる衛兵は止める様子もない。
「おい、お前が代表してデキムス、いやあの奴隷……ルシウスに聞いてこい!」
「馬鹿野郎、なんで俺が行かなきゃならないんだ! お前が行け!」
「俺は今日、ちょっと腹の調子が悪くて……!」
屈強なパン屋の親方衆が、まるで怒られる前の子供のようにお互いを盾にし合い、後ずさりを始めた。
そして、俺が一番前を歩いていたという不運のせいで、背中をドンッと押され、無情にも階段の前へと押し出されてしまった。
「くっ……!」
逃げ出したい衝動を必死に堪えながら、俺は階段の途中で立ち止まっていたルシウスとデキムスを見上げた。
ルシウスが、早く来いと言いたげに手招きをしている。
衛兵の方を見る。
早く行け、とでも言うかのように顎をしゃくる。
どうやらここで待つという選択肢はないようだった。
俺は、意を決して親方衆の先頭を切って階段を上ることにした。
そんな俺に続くように階段を上り始める親方衆。
あいつら、俺にこんな役割を押し付けやがって、あとで覚悟しておけよ!!
そう思いながら階段の途中で待っているデキムスの方を見ると、なぜかとても穏やかな顔でしきりに頷いている。
まるで『うんうん、俺にもこんな時期があったなあ』とでも言いたげな顔だ。
怪訝に思いながらも、そのまま二人に続いて階段を上る。
そして階段を登り切りるあと一歩のところで、神殿そのものは序章という事に気付いた。
「ふむ。この者たちが、新たにミネルヴァ様の英知を授かるという職人どもか」
思わず後ずさりそうになるが、時すでに遅し。
目の前には、建国祭などで見たことのある顔の男が立っていた。
細身で神経質そうな顔立ちの青年。
一瞬見間違いかと思ったが、その身に纏う純白のトガに施されている鮮やかな紫の縁取りが俺の考えを否定する。
「ど……ドミティアヌス殿下……っ!?」
俺がつぶやいた言葉で俺の後ろからは動揺が極限になる気配を感じる。
ドミティアヌス殿下。
ウェスパシアヌス皇帝の次男。
帝国の頂点に君臨する皇族の一人。
それがなぜ、こんなところに? しかも、俺たちのようなパン屋を見下ろしているのだ?
「控えおろう!殿下の御前であるぞ!!」
ドミティアヌス殿下の背後に控えていた神官がとても通る声で俺たちに命じる。
「あわわわわっ!!」
俺たちは全員、まるで叱責された子供が顔を隠すかのように、トガの端で頭を覆い、卑屈にならないぎりぎりのラインで視線と頭を下に向ける。
ガタガタと全身の震えが止まらない。
心臓が口から飛び出しそうだ。
そしてどうにもできない緊張が、あたりを支配する。
どれくらい時間が経ったか。1分だったかもしれないし、1時間だったかもしれない。
あまりの緊張に、時間の感覚がおかしくなっていた。
「顔を上げよ」
前方から、冷たく、そして熱狂を帯びた声が降ってきた。
俺は恐る恐る、ほんの少しだけ視線を上げた。
ドミティアヌス殿下は、まるで神の御使いのような威厳を放っていた。
そしてルシウスとデキムスは、俺たちが恐慌状態に陥っている間に受け取ったであろう、山盛りの麻の布を持って殿下の傍らに立っている。
「職人どもよ。この布は、知恵の女神ミネルヴァ様が、このルシウスを通じてお前たちに下賜する神聖なるものである。そしてこの私、ドミティアヌスが、自らの手でミネルヴァ様への祈祷を捧げ、清めたものだ」
殿下の目が、俺たち一人一人を射抜くように見下ろした。
「つまりは間接的に、女神ミネルヴァ様からの恩恵は私を、このティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌスを通じてもたらされるものと心得よ」
「は、ははぁっ!!」
俺たちはガクガクと震えながらまた首が折れそうな勢いで頭のみを下に向ける。
礼を失すれば死ぬ!
しかしローマ人としての矜持を疑われるような、卑屈な態度を見せても死ぬのだ!
田舎者の浅知恵?
馬鹿野郎! 浅はかだったのは俺たちの方だ!
デキムスとかいう商人、とんでもない楔を契約の中に仕込んでいやがった!!
ここに至って、デキムスを裏切って不義理を働くということは、デキムスを通じてこの神事を行った殿下を欺くということであり、ひいてはローマにおける宗教の頂点であるカピトリウム神殿、さらには女神ミネルヴァ様に直接歯向かうということを意味する。
それは、手間のかかった自殺と同じだ。
「では、受け取るがよい」
殿下がそう言い、それに反応したルシウスが、山盛りの布をもって俺たちに目線を合わせる。
「さあ、皆さま、ミネルヴァ様、そして殿下からの下賜品となる布です。お受け取りを」
ルシウスに促され、俺は震える両手で、その布を受け取った。
ずしりと、重く感じたのは、おそらく布の重さじゃない。
「……何か殿下に申し上げることは?」
追い打ちをかけるかのように、俺の耳元でささやくルシウス。
「わ、わー……光栄だなー……」
俺の口から、引きつったような、ひ弱な声が漏れた。
その声に応じるように、ルシウスが俺に向かって、人好きのする無邪気な微笑みを浮かべていた。
しかし俺にはその笑みの背景に潜む言い知れない深淵を感じざるを得なかった。
「みんなで儲けて、このミネルヴァ様の英知をローマの隅々まで広げましょう?」
誠実に、ね。と付け加えるルシウス。
神殿に向かうまでのどうやって出し抜いてやろうかなどという浅はかな考えは俺にはもうない。
いかに誠実に、この恐ろしい怪物の逆鱗に触れないように誠実に向き合うか。
それだけしか考えられなくなっていた。
そして同時に確信する。
……こいつだ、すべてこいつの絵図だ。
あの人のよさそうな商人、デキムスにこんな絵図が書けるはずがない。
「……みんなで幸せになりましょう?」
ルシウスが言う、その『みんな』は誠実に向き合う友人、ということを指しているのは明らかだった。
こいつは間違いなく、100万セステルティウスの奴隷だ。
あの流布されてる物語は嘘ではない、そして無理でもない。
そして100万セステルティウスという価値を一人で、難なく背負ってしまうこいつに恐怖した。
俺の感じている恐怖も、こいつにとっては100万セステルティウスにつなげるための梃子の一つでしかないのだろう。
恐ろしい。
この少年は、恐ろしい。
何て奴と契約をしてしまったのだ、俺は。
ローマ人と土下座:
いわゆる、跪いて頭を下げる等の行為は東方の野蛮な文化または王政時代のトラウマを思い起こさせるため、奴隷などではないと行わない屈辱的な行為とみなされていた。
なんならそんな行動を貴人にしようものなら「ローマ人としての誇りはないのか!」と叱責されるまであり得る。
デキムス? むしろあの人なんでアレで怒られないの?




