51話 わ、わー光栄だなー(震え声)[1/2]
6月。帝都ローマはどんどん上がる気温により、夏の到来を感じる季節。
そして、俺たちパン屋の業界も、夏のような熱い焦燥感に焼かれていた。
フォルム・ロマヌムにほど近い小通りでパン屋を営む俺もその一人だ。
自慢じゃないが、この小通りを抜けた中通り一帯のパン屋の顔役でもある。
顔役である俺にはさまざまな情報が入ってくる。
その中でも最近同業のパン屋から入ってくる情報はある名前一色。
テレンティウス。
春以降、帝都ローマのパン業界にはこいつの名前と共に、激震が走っていた。
テレンティウスは、南の保養地ポンペイから突如として進出してきたパン屋だ。
奴が売り出した『パニス・ドゥルキス』は、常識を覆す代物だった。
ハチミツよりも甘味に癖がなく、生地はしっとりとしており、色はまるで刈りたての麦のような色。それでいてはちみつパンよりも1割から2割安い。
最初は『甘いパン?田舎者がホラで客を集めてるだけだ、すぐに悪評でつぶれる』と高を括っていた俺たち。
このローマは帝国内でも競争の激しい、一流しか生き残れない都市だ。
いくら大口をたたいても、舌の肥えたローマ市民は騙せない。
しかし奴の作るパンは口だけのものではなかった。
奴が店を開けて半月も経つ頃には、奴の店の周りのパン屋はごっそりと常連客を取られてしまっていた。
結果、俺たちの考えは『奴の店がつぶれた後にどう奴の店を活用するか?』から『どうにかして奴と仲良くして業界の均衡を保つにはどうすればよいか?』に考えが移っていった。
ちなみに抑え込むのは難しい、奴の背後は魚醤で莫大な富を築いているウンブリキウスがいる。
なので取り込んで製法を聞き出し、材料の仲介に関する謝礼などをしばらく渡すなどして均衡を保つのが現実的な手段。
だが、覚悟を持ってローマに殴りこんできたであろうテレンティウスがやすやすと秘密の材料の情報を渡すだろうか?
時折通りですれ違うテレンティウスを凝視しつつ、俺は顔役としてどのようなアクションをすればよいのか、まだ考えあぐねていた。
そんな、様々な思惑が渦巻く中、戦々恐々としながら迎えたテレンティウスが参加する、地区のパン屋組合の初会合。
しかしそんな心配はあっさりと解消されることになる。
当たり障りのない情報共有の後にテレンティウスに殺到する俺を含めたパン屋の親方衆を前に、奴はあっさりと、自らの『パニス・ドゥルキス』で使っている秘密の材料をばらしたのだ。
なんでも、『パニス・ドゥルキス』はハチミツではなく、麦から作られるという麦の蜜を使っているとのこと。
「麦の蜜……?そう言えば知り合いの食堂でワインの割材をハチミツやサパからそれに替えたと聞いたな……」
「俺は貴族の宴席で使われていると聞いたことがあるぞ……同じものなのか?」
「実はだね、ハチミツと同じく、麦の蜜は高級品から庶民に手の届く廉価品まであるのだよ。私のパン工房では廉価品を使っているが、それでもあの味だ」
他の通りの顔役の言葉を受け、テレンティウスは爬虫類を思わせる冷ややかな瞳で、余裕たっぷりに情報を開示してくる。
「廉価品であの味!?それはどこの商会で仕入れられるんだ?俺もそのタベルナに仕入れ先を聞こうとしたが、まだあまり出回ってないらしくて渋られてたんだ。紹介してくれるのか?」
「えぇ――そして、新参者である私はローマの食を預かる皆様とは喧嘩せず、仲良くしたい。なので、麦の蜜を売っている商会への口利きをしても良い。何なら授業料はいただきますが、パニス・ドゥルキスを改良した、私が開発している新しい『果物をふんだんに使ったパン』の製法を差し上げても構わない」
「おぉ、さすがはポンペイでパン屋組合を率いていた方ですな。『やり方』という物をご存じのようだ」
テレンティウスが既存のパン屋と対決姿勢にはないということを知った会合は和やかな空気が流れ始める。
しかし、それがテレンティウスの狙いだったようで、奴はそこに本命だったのであろう提案を流し込んできた。
「ですが、それよりも皆さんにとって非常に魅力的になるであろう提案があるのですが――」
そうしてテレンティウスが語りだす『魅力的な提案』。
なんでも、麦の蜜を生み出したデキムス商会というところと、金を払ってフランチャイズという契約を行えば、『毎月の麦の蜜製造の売上げの一部を上納する』『麦の蜜の肝となる材料はデキムス商会から購入する』という条件で、『麦の蜜を生み出した工房の名前の使用許可』『製造方法』『製造の肝となる機材』が提供されるらしい。
「ふん、馬鹿な奴らだ」
テレンティウスの話を聞いて、俺は内心でほくそ笑んだ。
フランチャイズだぁ?
所詮は保養地の田舎者が考えた手法。穴だらけではないか。
製造方法さえ手に入ればこっちのものだ。
最初の数ヶ月は大人しく契約に従ってやるが、適当なところで自分の奴隷に作り方を覚えさせ、契約外の別の工房を立ち上げてこっそり量産すればよい。
大人しくしている間も、馬鹿正直にデキムス商会から材料を仕入れる必要もない。
適当な商人から、ばれない程度に仕入れてしまえばよい。
田舎商人の小賢しい囲い込みなど、このローマでは通用しないことを教えてやる。
デキムス商会と言えば、最近うわさになっている『100万セステルティウスの奴隷』の恋人の父だったと思うが、存外甘いやつだな。
この分だと、あの恋と忠義の物語は近いうちに悲劇になるだろうよ。
そして、会合から数日後、俺と同じような腹黒い野心を持ったパン屋の親方たちが、数十人ほど集まった。
いずれも中規模以上のパン屋を経営する各通りの顔役クラスがほとんどだ。
ちらほらと他の地区の奴らの顔も見える。
俺たちは連れ立って、エスクイリーヌスの丘にあるという、デキムス商会の拠点へと向かった。
驚いたことに、案内されたのは目も眩むような巨大な邸宅だった。
予想外の拠点の規模にすこし、ほんのすこしだけ気圧されながら、邸宅に入る。
広間には、商会の代表であるデキムスという男と、そして……噂に名高い『100万セステルティウスの奴隷』と呼ばれる少年、ルシウス。
二人の歓迎もそこそこに、俺たちは黙々と、順番に蝋版に契約の署名を行う。
「これにて契約は成りました。皆様、これから共にローマの食卓を豊かにしていきましょう」
署名がなされた蝋版の束と加盟金の金貨の小山を前に、純朴な笑みを俺たちに向けるデキムス。
いかにも隙の多い、人のよさそうな顔をしている。
こいつは御しやすそうだ。
そして、さて、じゃあどれくらいでこの契約から離脱してやろうかと俺たちの頭が損得を計算し始めたその時。
「では、契約は完了しましたので、皆様にはこれから麦の蜜の中でも最重要な工程のために神殿に向かいます」
ルシウスがパンッと手をたたき、俺たちに向かって言った。
神殿? どういうことだ?
「この麦の蜜、皆さんの主力商品となる廉価品の主原料は大麦です」
ルシウスの言葉に俺たちにざわめきが広がる。
大麦!? 家畜のえさじゃないか!?
「しかし、大麦はそのままでは家畜や僕のような奴隷の食物。しかしそんな野蛮な食べ物を、女神ミネルヴァ様はその英知によって極上の甘味として我々に授けてくださいました。その英知を纏うための布。それを受け取るために、これより皆さんと神殿に向かいます」
そう言うと、ルシウスとデキムスはそのまま俺たちを神殿へ案内するために邸宅から出る準備を始めてしまう。
俺たちはあれよあれよという間に、それに従い、神殿に向かうことになった。




