45話 100万セステルティウスの奴隷
すべての道はローマに通じる。
その言葉が示す通り、帝国の首都であるこの巨大な都市ローマには世界中のヒト・モノ・カネが集まってくる。
エジプトの小麦、ガリアの塩漬け豚、ゲルマニアやブリタンニアの奴隷、ギリシアの彫刻、そして東の絹。
だが、荷車や貿易船によってローマに集まるそれらの品々よりもはるかに早く、目にもとまらぬ速さでこの都市を駆け巡るものがある。
それは『噂』だ。
ブリタンニア北部での戦勝の報がもたらされれば、奴隷商人が色めき立ち、エジプトの作付けについての情報がもたらされれば、穀物商人たちが蠢きだす。
あるいはどこぞの貴族が誰彼と不倫しただの、新しくオープンしたあそこの食堂は安くてうまいだの。
身分を問わず、ローマの市民は新しい情報に目がない。
公共浴場の湯煙の中で、公共広場や闘技場の喧騒の中で、あるいは公衆便所での語らいの中で、誰かが囁いた言葉はまたたく間に隣人の耳へと飛び火し、翌日には街の反対側にまで到達する。
そして春の陽気が訪れる4月初旬の今日も、ローマに一つのうわさの煙がゆっくりと立ち上がりつつあった。
場所は、ローマの中心部、パラーティーヌスの丘に位置する、とある元老院階級の豪奢な邸宅。
その食堂では、日も明るいうちから華やかな宴が開かれていた。
大理石の柱に囲まれ、精緻なモザイク画が敷き詰められた床の上には寝椅子が並べられ、美しく着飾った貴族たちが身を横たえながら歓談を楽しんでいる。
次々と運ばれてくるのは、新鮮な生牡蠣や卵料理など、贅を尽くした前菜の数々。
だが、今宵の参加者たちの目を最も引いたのは、見たこともない奇妙な酒だった。
「おお、これは……!」
「なんという強烈で純粋な酒の香りだ。それにこの、喉を突き抜けるような爽快感はどうだ!それでいて、割る前のワインのような野蛮さが微塵もない!」
透明な液体が少しだけ注がれた杯を傾けた貴族たちが、次々と驚きの声を上げる。
「皆様、お気に召していただけたかな」
宴の主である元老院議員が、満足げに笑みを浮かべた。
「これは先月まで休暇で訪れていたポンペイで、出入りの商人から特別に手に入れたものでな。ワインの最も純粋な部分だけを抽出したという珍しい酒だ。これに、しぼりたてのシトロン果汁と、エゲリアの泉から湧き出る聖なる水で割り、同じくポンペイで最近出回り始めた『麦の蜜』を少し加えると、この上なく絶品の酒になるのだ」
そう言って、宴の主は奴隷に聖なる水と、麦の蜜を溶いたシトロン果汁を注がせ、さあさあ、と進める。
そのシュワシュワの酒を煽った貴族たちは、更に目を見開く。
「なるほど、素晴らしい。喉をなでていく爽快感、上品な甘さ、それをブドウの純粋な風味とシトロン果汁が際立たせている」
そう言って杯の中の酒を一気に煽る貴族。その頬は、早くも赤みがさしている。
そしてその貴族は杯をテーブルに置くと、ふと思いついたように口を開いた。
「ポンペイと言えば……どうも最近、すごい値のついた奴隷がいるらしいな……何か知っているか?」
その言葉に、周囲の貴族たちが興味深そうに耳を傾ける。
「ああ、私もその話は聞いた」
宴の主催者である議員が頷いた。
「実は、この酒と蜜を売ってきた商人から直接聞いたのだ。だが、市場で競り落とされてその値がついたわけではないらしいぞ。なんでも、騎士階級の主を持つ会計奴隷が、自らの愛を押し通すために主人に自らの値付けを100万セステルティウスとする代わりに、恋人の父親に主人の庇護を与えてもらったとか」
「100万セステルティウスだと!?」
「っは!」
一人の貴族が呆れたように鼻で笑った。
「いくらなんでもそれは吹かし過ぎだろう。ただの奴隷が、元老院議員の資産要件と同じ額を自らにつけるなど。どうせ、保養地の田舎貴族が自らの家に箔をつけるために流した大ぼらだろうよ」
「私も初めはそう思った」
主催の議員はそう言うと、少し声を潜めて続ける。
「だが、それがあのプリニウスがご執心の奴隷だとしてもか?」
「あの偏屈者がか!?」
その名が出た瞬間、宴の空気が一変した。
皇帝の側近にして、ミセヌム艦隊の司令官。
そして何より、常軌を逸した知識欲を持つあの男が執着する奴隷。
「プリニウスが、ギリシア出身の高名な学者奴隷にご執心だという噂は耳にしていたが……もしかしてそいつのことか?学者ではなく会計奴隷だったのか」
「かもしれぬ。会計奴隷ということは、数学者やもしれぬな」
「だとすると、奴隷とはいえ途方もなく高尚な知識を持つ者に違いないな」
「なるほど。そういう知の探求者は、奴隷であっても自らの筋を通すことを知っているのだな」
貴族たちは、遠く離れた地で生まれた『100万セステルティウスの奴隷の愛と忠義の物語』に、勝手な解釈と浪漫を付け加えながら、上機嫌に笑い合った。
「しかしこの酒は食が進むな、おい奴隷。もう前菜の皿は下げていいぞ。主菜の定番の雌豚の乳房や孔雀のローストを早く持ってきてくれ」
主人の言葉に、そばに控えていた奴隷たちが、さっと空になった皿を片付けていく。
「ふぅ……貴族様たちは気楽なもんだ」
その中の一人、若い、20代前半と思われる青年奴隷が、厨房の洗い場に皿を積み上げながら、小さく息を吐いた。
暖かくなってからというものの、連日の宴の準備と片付けで、体はすっかり重い。
早く奴隷用の粗末な寝床で横になりたかったが、そう上手くはいかなかった。
「おい、お前」
背後から、恰幅の良い家宰奴隷の野太い声が飛んできた。
「主人様とそのご家族の洗濯物が洗い終えているはずだから、今から取ってこい」
「えっ、今からですか……?」
「口答えするな。それと、業者を新しいところに変えたから道を間違うなよ。アルギレトゥム通りの奥に新しくできた、ステファヌスという奴がやっている店だ」
しぶしぶと頷き、青年奴隷は厨房を後にした。
足取りは重く、やる気は微塵もない。
「なんで俺が……」とブツブツ文句を言いながら、ローマの石畳をゆっくりと歩いていく。
暖かくなってからというものの1日は長くなり、ローマの街は活気に満ちている。
と、歩いている途中で、ある店の前に長い行列ができているのを見つけた。
「なんだ、あの行列?」
看板を見ると、そこはパン屋だった。
近くを歩いていた人に聞いてみると、なんでもテレンティウスという職人が作る、ポンペイのパン工房がローマに進出してきたらしい。
新作のパニス・ドゥルキスを宣伝がてら格安で売っているという。
「格安、ねぇ」
値段を聞いてみると、確かに奴隷のささやかな小遣いである特有財産でも十分に手が届く金額だった。
お使いを急ぐ義理もない青年奴隷は、ふらふらと行列の最後尾に並んだ。
しばらくして手に入れた、まだ温かい白パン。
一口頬張ると、その瞬間、青年奴隷の目が驚きに見開かれた。
「美味い……!」
なんだこれは。
宴の片付けの際、こっそりと口に放り込んだ残飯のはちみつパンにも匹敵する、いや、それ以上のしっとりとした柔らかさ。
そして噛むほどに広がる、ハチミツとは違う優しく上品な甘み。
「こんな腕の良いパン屋なら、わざわざポンペイとやらからローマに進出してきたのも納得だ」
パンをあっという間に平らげ、指についた甘みまで舐め取りながら、彼はひどく感心した。
そして彼は再び歩き出す。
次に彼が足を止めたのは、公共浴場の横を通りかかった時。
「あら、奇遇ね」
声をかけられ振り向くと、知り合いの女奴隷が立っていた。
彼女は別の貴族の家で侍女をしているのだが、すれ違った瞬間、信じられないほど良い香りがした。
「お前、なんかすごい良い匂いがするな?香油か?どうしたんだ?」
「ふふっ、わかる?実はね、奥様が新しい化粧品を手に入れられてね。奥様が使う前の実験台になっているのよ」
彼女は誇らしげに自らの髪を揺らした。
その髪は、奴隷とは思えないほど艶やかで、日に照らされて絹のように滑らかに輝いていた。
肌も信じられないほど潤いに満ちており、風に乗って鼻をなでる香りは、まるで春の訪れを告げる花の女神が舞い降りたかのようだった。
「奥様が首を長くしてお待ちなの!もう行くわね!」
ルンルン顔で軽やかに去っていく彼女の後ろ姿に、青年奴隷はしばらくポカンと見惚れてしまった。
「……はっ!いけねえ、洗濯屋に行くんだった」
我に返り、慌てて足を速める。
しかし、急いだせいか急に腹の底から尿意が込み上げてきた。
「えーと、便所便所……」
そこら辺にある小便壺 (業者が尿収集のために置いている)にしても良いのだが、時間をつぶしたかった青年奴隷は、道端にある公衆便所へと駆け込んだ。
石のベンチに丸い穴が等間隔で空いている、壁も仕切りもない開放的な公衆便所。
彼が用を足すために腰を下ろすと、すぐ隣で用を足している二人の商人が何やら熱心に話し込んでいた。
「おい聞いたか?例の100万セステルティウスの奴隷の話」
「100万!?さすがに奴隷の値段にそれはあり得んだろう」
今日はよくその話題を聞くな、と思いながらも気になった奴隷は聞き耳を立てる。
「ところがどっこい、その奴隷を見にポンペイに行った大貴族がその価値を認めたらしいぞ。そのお貴族様は、その奴隷にそれくらいの価値はあるって言い切ったそうだ」
「マジか……。ん?ポンペイ……?もしかして、最近うわさに聞くポンペイの今まで聞いたこともない商品って……」
「ああ。俺の信頼できる取引先が、そいつが作り出したものだって断言してたぜ」
それを聞いた商人は、大便を出す音を響かせながら反応する。
「と、すると、自分で値付けしたってのは眉唾だな……。大方、そのあまりの才覚に目をつけた他の貴族に無理やり売るように迫られた時の牽制だろうよ。『うちの奴隷は100万セステルティウスの価値があるから、それ以下では売らん』ってな。あ、でかいの出た」
ブッチッパッ
「相変わらずおめえの音はでけえなぁ……しかし、それなら辻褄が合う」
商人のもっともらしい推測を聞きながら、青年奴隷は小便を終わらせ、便所を後にした。
目的地はすぐそこだ。
そうして洗濯屋の近くまで来ると、洗濯屋特有の、尿が発酵した強烈な匂いが漂ってくる。
「うっ、やっぱりこの匂いは慣れないな……」
鼻をつまみながら店内に入り、主人の名前を告げる。
すぐに籠に入った洗濯物が出てきた。
しかし、念のために汚れが落ちているか、そして変な匂いが残っていないかチェックしなければいけない。
もし尿臭い洗濯物を持ち帰った日には、折檻が待っている。
そうして洗濯物に鼻を近づけた瞬間、彼はピタリと動きを止めた。
「……あれ?」
ほのかに香るのは、上品なバラの香り。
「驚いたろ?」
顔を上げると、ステファヌスと名乗った洗濯屋の親方が自慢げに胸を張っていた。
「うちの仕上げ材はポンペイの特製品だ!尿の残り香なんて絶対しないぜ。なんせ、あの『100万セステルティウスの奴隷』が作った洗剤だからな!」
なるほど、洗濯屋を態々なじみの店から変えたのはそういう理由か。
(しかし、また100万セステルティウスの奴隷か)
理由に合点がいきつつ、青年奴隷は洗濯屋の親方に雑談を振る。
「その奴隷、自分で100万セステルティウスって値段をつけたんだって?」
「ああ、巷の噂じゃそうらしいな」
親方の言葉に、青年奴隷は篭の中のバラの香りがする衣服を見つめながら、小さくつぶやいた。
「馬鹿な奴だ。俺が自分に値段をつけられるなら、1アスにするのに」
そうすれば、すぐにでも自分を買い取って、自由の身になれる。
なぜ、わざわざ誰も買えないような途方もない値段を自らにつける必要があるのだろうか。
「そいつは一体、何を考えてるんだろうな」
傾きつつある日差しを見上げながら、青年奴隷はただ純粋な疑問とともに、同じ立場であるはずのその奴隷に思いを巡らせた。




