40話 なにいってんのおまえ!?
私は今、人生で最大級の混乱の渦中にいた。
プリニウス閣下が我がルクレティウス家に来訪した瞬間。
その瞬間までは確かに私は栄光の頂にいたはずだった。
少し違和感を感じてはいたのだが、まあ良い。
ウンブリキウスの少し疲れたような顔で私はスカッとしていたのだ。
私を押しのけてルシウスを見つけ、そのままよくわからぬ賞賛のされ方をされ、宴が始まったのも、まあ良い。
宴中ウンブリキウスはともかくとして、私までも無視してルシウスと話し込んでいたのも、まあ、我が奴隷がプリニウス閣下の興味をひきつけてやまないという事実に栄光を感じることができてはいた。
まあ……まあ、良い。
しかし、話が進むにつれて、なぜか閣下がルシウスを友呼ばわりしてから、話の行方が怪しくなってきた。
特に、閣下がやたらと麦の蜜の整腸作用について聞いていたこと……下痢への効能を聞いていたことだ。
たしかウェスパシアヌス陛下は胃腸が弱いはず。
だが陛下の体調をただよくするための聞き取りにしては熱が入りすぎている、もしや……。
そこまで考えたところで、閣下が宴の切り上げを言い出したところで私の意識は目の前に引き戻された。
そう、ここからだ。
事態は良くない方向に暴走を始めたのだ。
我が家と退去しようと椅子から起き上がった閣下は、そのまま流れるようにルシウスの肩を抱いて食堂を出、ルシウスを連れ帰ろうとしたのだ。
「そ、その、閣下! お待ちください! ルシウスは当家の……!」
その行動に、私はとっさに声が出た。
私の声に顔を真っ赤にした閣下は振り向き、上機嫌なのか怒っているのか分からぬ声色で反応した。
「分かっている、ルクレティウス殿!しかし、しかしだな、ルクレティウス殿!!これほどの知性、これほどの真理への情熱を持つ我が友ルシウスを、奴隷という身分のままにしておくなど、私の、いや、ローマ人の矜持が耐えられぬのだ!」
我が家に訪れてきた時と同一人物とは思えぬほどの、まるで舞台の上の役者のように大きな身振り手振りをしながら叫ぶ閣下。
閣下の側に控えている、閣下に随行してきた書生たちも、初めて見る様子らしく、あたふたと動揺している。
その様子にどうした者かと困惑する私。
そんな私に、閣下はルシウスから手を離し、そのまま私の肩を強く掴み、その目を爛々と輝かせ言い募る。
「ルクレティウス殿よ、頼む!!!ルシウスを私に譲ってくれ!私が責任を持って、私の名において彼を解放し、自由民としよう!対価は望むままだ。金、ではないだろうな……中央政界でのポストか?陛下への謁見か!?私の持つあらゆる職権を使って、貴殿に便宜を図ることを約束しよう。どうだ!?これ以上にない条件だろう!」
……うっ。
その提案は、あまりにも魅力的だった。
閣下ほどの御方の推薦があれば、私が念願としていた中央政界への進出など、何の苦もなく達成できるだろう。
要職への道だって開けるかもしれない。
しかし……。後が続かぬ。
この宴ではっきりした。
閣下は徹底徹尾、ルシウスの知恵にしか興味がない。
ゆえに、ルシウスを完全に手放してしまえば、私と閣下の縁はそこでほぼ終わる。
もちろん、ルシウスを見出したという功績はなくならぬゆえ、一定の目は掛けてもらえるだろう。
しかし、後ろ盾に近いような立ち位置や、私がもくろんでいたようにピソ家との仲立ちなどはしてはくれないだろう。
それに、現在進行形で莫大な富を生み出しつつある、まさに金の卵を産み始めた麦の蜜工房や化粧品工房はどうなる?
デキムス……あやつに大商人の素養はない。
将来覚醒するかもしれぬが、それは今ではない。
あいつの、商会と工房が、新進気鋭に見えるのはすべてルシウスが後ろで手を回しているからだ。
そのルシウスがいなくなったら最後。
利権を食い荒らされる将来しか見えぬ。
そう考えると、ルシウスを手放すという選択肢はあり得ない。
だが、どう断ればいい?
「……」
「そうか!感謝するぞルクレティウス殿!!!望みは後日でもよい!それでは私はミセヌムに帰るぞ!おい書生、ルシウスの荷物をまとめるのだ!」
私の沈黙を閣下は了承と勝手に解釈したのか、傍らの書生に命じてルシウスの荷造りをさせようとしている。
「さあ、ルシウス!ミセヌムにつきしだい解放の儀を執り行おう!そして私にお前のすべての知識を教えてくれ!!」
閣下は、まるで自慢の息子を見つけたかのようにルシウスを促す。
どうにかできる者はいないかと見回すと、ウンブリキウスを目が合った。
ウンブリキウス! お前、一応相伴者だろうが! 何とかしろ!
そう思いウンブリキウスの方を睨む。
そうすると、奴は、先ほどからのあまりの急展開に口を挟む余裕もないのか目線をそらし、静観の構えだ。
役に立たん狸爺め!!
冷や汗が背中を伝う。
何とかしなければ。
何とかして、角を立てずにルシウスを連れ去られるのを阻止せねば!
何か……何か強力な理由が必要だ。
私はもう一度、何か材料がないかを見まわす。
そうして、次に視線が合ったのはデキムス。
そうだデキムス!
お前が一番ルシウスを連れていかれてはまずい人間だろうが!!
(おい、デキムス!貴様、ルシウスがいなくなれば事業が立ち行かなくなるだろうが!何か案を考えろ!)
私は、あたふたとあちこち視線を飛ばしているデキムスに、殺気を込めた無言の圧力を飛ばした。
デキムスは私の視線に気づくと、ヒッと短く悲鳴を上げたが、すぐに必死な形相で思考を巡らせ始めた。
……そして数秒後。
何かをひらめいた様子のデキムス。
一瞬迷ったような表情を見せた後、私の方を覚悟を持った目で見つめてきた。
何か思いついだのだな!
よし、行け! デキムス!
この場を凌げるなら何でもいいぞ、デキムス!
私が無言でGOサインを出すと、デキムスは震える膝を叩いて立ち上がり、叫んだ。
「か、閣下ッ! 恐れながら申し上げます!!」
その必死すぎる声に、プリニウス閣下が足を止めた。
「……何だ、工房主の商人よ」
その目は路傍の石を見るような視線だ。
「その……えっと……ル、ルシウスを今すぐここから連れて行かれるのは、あまりにも……あまりにも酷というものでございます!」
「酷だと?奴隷から自由民になることが、なぜ酷なのだ?」
閣下が不機嫌そうに眉を寄せた。
デキムスは一瞬、私の方をチラリと見、そしてとんでもない言葉を絞り出す。
「実は……ルシウスには、将来を誓い合った者がおります!私の愛娘、ルシアでございます!」
なにいってんのおまえ!?!?!?!?!




