38話 プリニウスとクピードー
輿の中で揺れる私の身体は、まるで私の常識と同じようにグラグラと揺らいでいた。
輿の外で私に歩いているウンブリキウス・スカウルスの存在など、もはや意識の外。
私の視線は、ただ前方――ポンペイの騎士階級、ルクレティウス・フロント家の門へと向けられていた。
手に握りしめているのは、先ほどこの家の使いから届けられた『土産』、月桂樹の鋭い香りを放つ、薄黄緑の塊。
使いの男の口上を思い出す。
『この月桂樹の石鹸で身体を洗うと頭がさえわたりますよ、と、生み出したものが申しております。プリニウス・セクンドゥス様におかれましては、まずこれで旅の疲れを癒していただきたく―――』
使いの男は、これを『石鹸』と呼んだ。
石鹸。
石鹸は私の博物誌にも記述している。
しかしそれはゲルマン人やガリア人が髪を赤く染める髪染め薬や、炎症への治療薬としてだ。
普通は身体を洗うなどという用途のものではない。
だがこの『石鹸』が肌擦り器などとは比較にならぬほど身体を清潔にし、潤いを与え、あまつさえ勝利の香りを与えるものというのは、入浴時に使って証明されている。
今、私は人生で最も清潔な状態になっている実感がある。
そしてさらに、不思議な高揚感の中でも気分は落ち着き、頭も冴えてわたっているように感じる。
これは確かに身体を洗うのに最適な『モノ』だ。
これは一体どういうことだ。
私の石鹸の記述が間違っていたのか? それとも、この石鹸に似た何かは本当に『石鹸』なのだろうか?
「麦の蜜の未知を解明する前に、追加でこのようなものまで渡してくるとは、マルクス・ルクレティウス・フロント……侮れぬ人物と見える」
思索に耽っているうちに門の前についたようで、輿が止まる。
輿を降り、そのままルクレティウス邸の門をくぐる際には、すでに私の期待は頂点に達していた。
ここには、私が生涯をかけて追い求めている『世界の真理』の一端が転がっている。
そのような確信じみたものを感じていたのだ。
門の先、邸宅の広間では、家主であるマルクス・ルクレティウス・フロントが、工房主と思わしき商人と家宰奴隷を引き連れて恭しく私を待ち構えていた。
「プリニウス閣下、ようこそ我が邸宅へ。ミセヌム艦隊提督へのご就任、心よりお祝い――」
「挨拶は良い、ルクレティウス殿」
私は彼の儀礼的な言葉を遮り、懐からあの『麦の蜜』の壺を取り出した。
「早速だが、この蜜についてだ。この蜜は麦からとっていると言っていたがどのようにして取る?麦は花のようにその中に蜜を蓄えることはない。そしてウンブリキウスによるとこれは工房で作っているという。つまりミツバチに集めさせているわけでも無い。かと言ってサパのように煮詰めるだけでは麦は粥になりこそすれ甘味にはならん。どのような方法で麦から蜜がとれるのだ?さあ、余さず教えてくれ」
私はまくしたてるように問うた。
私にとって、前置きなどは時間の浪費に過ぎない。
「え……あ、いや、それは……その、ミネルヴァ様の……」
しかし、私の熱量とは裏腹に、ルクレティウス殿の口からは要領を得ない言葉しか出てこない。
「知恵の女神ミネルヴァ?つまりこれは神への祈りなどで作っているというのか?神殿でも無い工房で神の力を借りれるというのか?」
私の問いに、彼は視線を泳がせ、傍らの工房主と思われる商人の方に視線を移す。
なるほど、この者があの麦の蜜工房の主か。
では、答えを聞かせてもらおうか。
「えぇと……この製法はですね、その、麦に芽を出させ、特別な製法で茹で、その後冷ましてですね……」
「芽が出た麦……麦芽か。ガリア人やエジプト人が飲む麦の酒に近い製法だな。しかしあれは野蛮な飲み物だ。このような洗練された味にはならん。何が違うのだ?」
「いや、その……えっと……」
答えられず黙り込んでしまう工房主。
その様子に、私の機嫌は急速に垂直落下していった。
なんだ、この体たらくは。
邸宅のしつらえを見れば、なるほどルクレティウス殿は確かに美術への造詣が深いことは見て取れる。
平面的で細密な装飾、黒い火山岩の床に白い大理石の破片を散りばめた床の独特な装飾は見事と言ってよい。
だが、肝心の『知恵』に関しては、何も出てこないではないか。
失望が胸に広がる。
「これ以上ここにいても無駄だな」
そう呟き、踵を返そうとした。
――その時だった。
一人の少年が、大きな水瓶を抱え、私のすぐ目の前をまるでそよ風のように横切った。
歳は十かそこら。ルクレティウス家の奴隷か……?
失望が広がる中のあまりの無礼に声を上げようとした、その瞬間。
ふわり、と。
鼻腔をくすぐるものがあった。
――月桂樹の香り。
先ほど使いの者が届けた『石鹸』と同じ、しかしより研ぎ澄まされ、鮮烈で、精神を覚醒させるような清涼感。
「……待て」
私ははっとして振り向いたが、そこにはもう少年の姿はなかった。
奥の食堂の方へ消えていったような気がする。
「閣下!!こ、これは大変な失礼を―――!」
「私はあちらへ行く」
「え?あ、ちょ――閣下!?」
困惑する家主に一言断りを入れ、そのまま私は少年の消えた食堂へと踏み込んだ。
そこは、まだ外に明るさが残る時間帯であるにもかかわらず、なぜかカーテンが厚く引かれ、薄暗がりに包まれていた。
部屋の中央、贅を尽くした食卓の横、主賓たる私の為の席であろう場所に、先ほどの少年が腰かけていた。
彼はアンフォラから一つの銀の杯に、透明な液体を注いでいた。
「水、か?」
見つめる私に気づいていないのか、少年は一人で宴のために用意された席で遊ぶ。
手元に灯した一本のろうそくをゆっくりと回し、見つめ……――
先ほど水を注いだ杯に近づけた。
「っ!?」
シュッ、という微かな音と共に、杯の中から青い炎が立ち上がった。
赤でも黄色でもない。
真昼の空の色を凝縮したような、幻惑的な、青。
暗い室内で、少年の横顔が青く照らし出される。
再び、あの月桂樹の香りが強く漂った。
ふと見ると、少年の足元には、二本の矢が転がっている。
「愛の神、クピードー!?」
思わず大声を出してしまい、私はハッと口に手を当てる。
愛の神クピードー。
ギリシャ神話のエロースと同一の存在とも言われ、黄金の矢で恋を射抜き、鉛の矢で嫌悪を射る、悪戯好きの神。
哲学者プラトン曰く、愛とは知恵を求める心そのものであるとも。
知恵を求めた果てに、私は神に相対したのか?
私は、喉を鳴らした。
これは演出か? それとも、現実を超えた何かか?
声をかけようとした私の唇が動くより早く、少年がこちらを向いた。
その瞳に、夜の湖のような、吸い込まれそうな恐ろしさを一瞬感じた。
しかしその思いは、少年の声によってかき消される。
「僕の『今』の名はルシウス。いたずら好きですが、客人に矢を射かけることはないのでご安心ください……ね?」
ルシウスと名乗った少年は、悪戯っぽく、しかし極めて優雅に微笑んだ。
彼は杯の炎を指先でなぞるような仕草をしながら、私を見据えた。
「本日はどんな知識をご所望で? ――フィロソフィアのお客人」
その言葉で、私は気づいた。
この少年だ。
ルクレティウス殿でも、工房主でもない。この『ルシウス』という少年こそが、今日、私が求めていた知識そのものなのだと。
ルクレティウス殿と工房主は、それを言いたくてわざと道化を演じたのだ。
私が合点がいったのと同時に、背後からルクレティウス殿が食堂に滑り込んできた。
私は彼の方に首だけ振り返り、そのままこの演出の感想を口にする。
「……なかなか面白い演出じゃないか。ルクレティウス殿」
私の機嫌は、最悪の状態から一転して最高潮に達していた。
なるほど……すべてが合点がいった。
芸術に造詣が深いとこのような演出が可能となるのか。
たしかにそのまま少年を出し、この少年が知識の源泉だと言われても私は納得しなかっただろう。
侮辱と受け取り、そのまま怒って帰ってしまった可能性もある。
しかしここまでされれば一度聞いてみてやろうという気にはなる。
なかなかの演出家だな?ルクレティウス殿。
だが、私の言葉を受けたルクレティウス殿の反応は、期待していたものとは違った。
「あ……あ、あは……あはは……。閣下、お気に召しましたなら、幸い、で……」
彼は顔面を石膏像のように真っ白にし、目があちこちに泳いでいた。
ん? ルクレティウス殿?
これほど見事な『余興の演出』をしてみせたというのに、なぜ貴殿は、今にも心臓が止まりそうな顔をしているのだ?
いや、目の前の青い炎と、謎めいた少年への興味の前にはどうでもよい事。
「さあ、ルシウスと言ったか。その青い炎の正体から聞かせてもらおう。水に火がつくはずがない。それは油か?それとも――」
私の問いかけに、ルシウスは再び不敵な笑みを浮かべた。
「いえ、酒ですよ閣下。宴なのです。アンフォラに入っているものは、ワインに決まっているじゃないですか」
「ほぅ。この透明な水が、ワインだというのか?」
空はまだ明るい。
宴は、まだ始まったばかりだ。
古代ローマにおける宴の開始時刻:
だいたい3時くらいから半日くらい行われることが多かった模様。
そりゃプリニウスキレるわ。
ちなみに古代ローマの宴会でもう一つ有名な逸話に「吐いて胃を開けてまた食べた」という物があるが、これは誤訳か神話からの引用という説もある。




