37話 マルクス様の皮算用
「ここの所、私への妨害がまったく無くなっていたのは、最後の化粧品が原因か……」
3人を絞り上げた結果、私はここ数週間の疑問が氷解するとともに、自らの足元で起こっていた巨大な地殻変動に全く気付けていなかったことに一瞬言い知れない恐怖を覚えた。
麦の蜜。
リバーシ。
温度を正確に測る機械。
ネクタルと見紛うような酒。
花の女神が口づけしたとしか思えない香りと潤い持つ石鹸や化粧水、そして洗剤。
一個や二個ではない。この場で内容を詮議するには到底時間が足りないものをポンポンとこの子供、ルシウスは生み出していた。
しかも、あまつさえ一度限りの奇跡として生み出すのではなく、工房という人の手に収まる形に落とし込み、動かせるまでにしている。
そしてその中の一つ、麦の蜜だけでプリニウス閣下が目の色を変えて飛んできたわけだ。
それがウンブリキウスめの手柄になりかけているのは業腹どころの話ではないが、まだ手元に打てる駒があるという状況が私を冷静にさせる。
そう、こちらの駒はまだ6個もある、まあリバーシを除けば5個か。
そのリバーシを除く残りの5個をすべて使えばどうなる?
3人から全ての話を聞き終え、その考えに至った時、私の脳内では勝利の笛の音が鳴り響いていた。
「これは……我が家にとってまたとない好機だな……」
声は威厳を保った落ち着いた物言いを何とか発せたが、私は、手で隠している口元の筋肉がだらしなく緩み、頬の肉が歪みそうになるのを必死に抑え込んでいた。
ウンブリキウスがデキムスに語ったプリニウス閣下の本質。
私も多少は知っていたが、ウンブリキウスの言葉で認識を改める。
閣下の奥底にあるのは未知の知識に対する異常なまでの渇望だ。
閣下が昨年、陛下にとてつもない事典を献上したという噂は、私の耳にも届いていた。
あの御方にとって、これまでにない製法で作られた甘味や、神の酒蔵から拝領したとしか思えない酒、そして汚れを消し去る芳香の塊は、黄金や宝石以上に価値のある『宝物』に違いない。
そして、その宝の源泉であるルシウスは、誰の所有物か?
他でもない、この私、マルクス・ルクレティウス・フロントの奴隷だ。
これを利用すれば、ウンブリキウスのような魚醤売りの成金を出し抜いて、プリニウス閣下の知己を確実に得ることができる。
閣下は皇帝ウェスパシアヌス陛下の側近にして、ミセヌム艦隊の司令官。
あのお方との強いパイプができれば、ポンペイでの私の地位は確固たるものとなるばかりか、私の代のうちにローマ中央政界――つまりは元老院への足掛かりすら得られるかもしれないのだ!
脳内でプリニウス閣下を足掛かりにした栄達計画の計算が完了した私は、早速まずは種を抑えることにする。
「――デキムスよ」
私は威厳を保つためにわざと低く、重々しい声を出した。
「は、ははっ!」
「私は、ルクレティウス氏族、マルクスの息子、メニニア選挙区所属、マルクス・ルクレティウス・フロント。この名と、わが家門の家祖の霊にかけて、汝をわが信義の中に受け入れる。今この時より汝はルクレティウス家が守護し、ローマの光が照らすであろう」
「マルクス様!?」
私の突然の宣言にフェリクスが目を見開く。
「は……?えっと……?」
しかしデキムスの方は内容を理解できてないようでキョトンとした表情。
「馬鹿!マルクス様がお前を庇護すると、ルクレティウス家がお前の庇護者になる、そう言っているんだ!」
「あ、ありがたき幸せに存じますぅぅ!」
見かねたフェリクスがこちらにも聞こえる声で耳打ちをする。
その瞬間、デキムスは涙目で平伏した。
……儀礼に則った返答すら出来ぬか。
まあいい。
所詮は数か月前までは薪売りをしていた男、教養などはなから期待などせぬ。
とにかく、ルシウスが私の手のひらから漏らしかけた英知の果実はこれで完全に我が家の管理下だ。
次は芽だな。
私はすぐに妻を執務室へと呼び出した。
「妻よ。いまルシウスの英知を使ってフェリクスに出資させていたデキムスの事業だがな、我がルクレティウス家は『その始まりから』庇護している。そして、お前の実家と縁の深いピソ家もローマ進出の際は『庇護を検討している』。そういうことにしたい。できるな?」
「……つまり本家の方々を動かせと?」
「ああ、そうだ。……元々お前はそのための種だったろう?」
「ふふっ……楽しくなってきましたわね」
妻は嬉々として頷き、奥へと戻っていった。
妻は傍流とはいえ名門ピソの出身だ。
先帝ネロへの陰謀、ウェスパシアヌス陛下との内戦時における対立などで今は勢力が著しく減衰してこそいるが、だからこそ今回の件では対等に行ける算段が付く。
元々、ピソ家の勢力復興のための数多の『種』。それが妻だったのだ。
まさしく正しい使い方となる。
私の中ではプリニウス閣下が執着するであろうデキムスの工房を庇護している我が家が、同じくデキムスの工房の庇護の準備を進めているピソ家とともに閣下と仲を深める事で、最終的にはピソ家と皇室の仲を取り持ち、その功績をもってローマ政界へ進出するという道すじがすでに立っていた。
「よし、次だ。フェリクス!」
「はっ!」
「お前を今すぐウンブリキウス邸にいる閣下への使いとする!そしてこう伝えるのだ。『当家が庇護する商人が作る麦の蜜に興味を持っていただき光栄の極み。閣下とは麦の蜜以外の当家が持つ英知に関する話にも花を咲かせたく。ついては今宵、我が邸宅にて閣下を歓迎する宴を催したく存じます。余興として、その源泉たる英知の数々を、特別にご披露いたしましょう』とな!」
「なっ……マルクス様、本気でございますか!? 今宵の宴など、何の準備も……!」
「黙れ! 準備は今からさせる! ウンブリキウス邸に閣下を留まらせておくなど、ルクレティウス家の恥だと思え!」
そう私が激を飛ばすと、フェリクスの隣で眠そうにしていたルシウスが口をはさんできた。
「マルクス様。プッさ――プリニウス閣下に確実に興味を持っていただくため、ちょっとした『土産』を用意しますか?」
「土産だと?」
「はい。麦の蜜を探しにポンペイに急行された閣下へのささやかなお土産です。おそらく、気に入っていただけると思います」
おそらく、とは言っているがその目には『確実に来ると思いますよ』と書いてあった。
こいつは自らの所業がバレた後も私へ全然怯えの表情を見せないな。
こいつ、知恵の女神ミネルヴァではなく、運命の女神フォルトゥーナに何かされたのではないか……?
いや、今はそこを詮索する必要はないな。
普段なら奴隷の分際でと叱り飛ばすところだが、今の私には千載一遇のチャンスをつかむためならばいつも以上に鷹揚に接することに抵抗がなかった。
「よし、許す。やれ!」
私が許可を出すと、ルシウスは懐から皮袋に入った小さな塊を取り出した。
そして、それをフェリクスに握らせ、何事かを小声で耳打ちし始めた。
「じゃあフェリクスのおっちゃん。まずは閣下に、この『月桂樹の香りの石鹸』を渡してね。で、口上は――」
ルシウスの耳打ちを聞くたびに、フェリクスの顔色がどんどん土気色になっていく。
だが、私の手前、逆らうことはできない。
「い、行ってまいります……!」
フェリクスは決死の覚悟を決めた剣闘士のような悲壮な顔で、執務室を飛び出していった。
私は落ち着かない気分のまま吉報を待った。
そして、それからおよそ三十分後。
ドタドタという激しい足音と共に、フェリクスが息を切らして帰還した。
「マ、マルクス様ぁぁっ!」
「どうした! 閣下の返答は!」
「そ、それが……! 私があの石鹸をお見せして、ルシウスの言った通りの口上を述べたところ……プリニウス様は目を血走らせて石鹸を奪い取り、そのままウンブリキウス邸の浴室へと……」
「それで返答はどうなのだ!?」
「『入浴が終わり身を整え次第、ウンブリキウスと共に向かう』とっ!」
「おおおっ!!」
私は思わず拳を握り締め、天を仰いだ。
ウンブリキウス付きというのは気に食わんが、それでもウンブリキウスも用意していたであろう宴の方はつぶれ、我が家でプリニウス閣下という極上の賓客をお迎えするという成果を得た。
これほどトントン拍子に事が進むとは!
私は上機嫌で振り返り、諸手を挙げてルシウスに次の命令をする。
「よし! ではルシウスよ!今宵の宴の準備、その一切をお前に命ずる!金はいくら使っても構わん!プリニウス閣下の度肝を抜き、心底満足させるような宴を考え、取り仕切れ!」
私の大盤振る舞いな命令に、ルシウスの目が一瞬怪しく光ったような錯覚を受けた。
「……いいんですか?自重しなくても?」
「良い!許可する!お前が授かったというミネルヴァ様からの英知、出し惜しみは許さんぞ。全て出し切るつもりで行え!事が成った暁には褒美は思いのまま出してやろう」
「……では今、持ちうるものはすべて出し尽くします。……時間もないのでこれでこの場はお開きでいいですか?」
「……あぁ」
私の返答にルシウスはフェリクスとデキムスを連れて倉庫の方に下がっていった。
連れていかれる二人は、まるでプルートーにでも捕まったかのような、この世の終わりのような顔をしていた。
「ふん、情けない奴らめ」
私は2人を一瞥し、鼻で笑った。
これだから、奴隷や平民上がりの商人というものは度胸がないのだ。
今宵の宴は、ルクレティウス家の未来を決める大一番。
多少の無茶を押し通さずにどうする。
「ローマ人たるもの、攻め時は一気呵成に攻めるのだ。お前たちも、我が家の栄光の礎となるために死に物狂いで働け!」
私は自身の見事な決断に酔いしれながら、持っている中でも最上級のトガに着替えるべく意気揚々と寝室へと足を進めた。
陛下にとてつもない事典を献上した:
こういう系の情報は様々なノイズが混ざるのでマルクス様は陛下に献上したと思っているが実際には皇太子への献上。
汝をわが信義の中に受け入れる:
ローマ仕草。一言で言うと「おまえのケツ持ちになってやるよ」ということで庇護を与える時の儀礼的な言い回しとなる。
マルクスの息子、マルクス:
古代ローマの特に貴族社会は長男は父の名前をそのまま継ぐことが多かった。
歌舞伎の〇代目市川團十郎を本名でやってるようなもの。
そのためマルクスの息子マルクスみたいなすごいややこしい名前になることも多い。
その上ローマ貴族が好んで使う個人名はレパートリーが少ないので、同じ一族でヘビロテするわ、史料では個人名しか記載しない場合もありややこしいわで、史料を読み解くのがクッソめんどいのがローマ史だったりする。
例えばネロ帝を暗殺しようとした「ピソの陰謀」で有名なピソ家。
その一族に「ルキウス・カルプルニウス・ピソ」という人物がいるのだが……彼らは紀元前1世紀から紀元1世紀までの間に5人くらい存在する。
紛らわしいんじゃ!!




