35話 フェリクス、進退窮まる[2/2]
じゃらじゃらと出てくるのは大ぶりな真鍮貨……ではなくたくさんの小ぶりな銀貨。
「……銀貨なんだが!?」
「いやだからそこに95デナリウスって書いてあるでしょ?」
何言ってんのといった態度のルシウス。
「ひゃ、190デナリウス……! それに、俺のペクリウムへの分配金が95デナリウスだと……!?」
「うん、まあまあ順調だね」
ルシウスがうんうんと頷いている。
俺はその小さな頭を思い切り引っぱたきたい衝動に駆られるのを必死に我慢する。
「順調だね、じゃないだろうが!!なんだこの異常な額は!?なんでこんなに売れてるんだ!?」
「いやパン屋需要だけでそれくらい行くでしょ?そら月産1~3000セクスタリウス程度なら即完売だよ」
「だとしてもこの売上に何の疑問も出てこないのかお前は!?いいかルシウス?マルクス様……つまり我らがルクレティウス家の農園や不動産から上がる平均的な月の利益は、おおよそ1250デナリウス前後だ」
「それに比べたらまだ少ないじゃん?」
「名門貴族の!家長が!代々受け継いだ広大な農地と多数の奴隷を使ってようやく稼ぎ出す利益で1250デナリウスだっつってんだろうが!!」
俺は脂汗を滲ませながら、ルシウスの両肩を掴んで揺さぶった。
「一方でこの工房は先月稼働を開始したばかりだぞ!?ただの奴隷であるお前の思いつきと、ただの薪売りだった商人の事業の納入金で毎月190デナリウスだぞ!?家の月の利益の一割以上に匹敵する金が、ぽっと出の謎の事業から湧いてくるんだぞ!?異常だと思わないのか!!」
ローマ社会において奴隷が主人を越えるほどの富を蓄えること、あるいは主人の意図しないところで莫大な金脈を動かすことは非常に危険だ。
もし俺が裏でデキムスを操り、ルクレティウス家の信用を使って巨利を得ているなどと判断されれば、それは事実上横領となる。
そうなれば俺は鞭打ちで済めばいい方、磔にされた上で殺されても文句は言えない。
マルクス様は寛容な方だが、それはあくまで「自分の手のひらの上」にいると信じているからだ。
この数字は、明らかに「手のひら」のサイズを超えている。
状況証拠だけで言えば勝手に家の月利益の1割以上に達する大事業を急に動かし、あまつさえその事業で私腹を肥やしていたという構図になるのだ。
いや、落ち着け、これは初動だからかもしれない。
「こ、これは一過性の売上だよな?そうだろう?ルシウス?」
頼む、そうと言ってくれ!
「うーん、でもさ。来月以降も、売上が増えることはあっても減ることはそうそうないと思うよ?」
「……なんでだ?」
「言ったでしょう?今月の売上は、高級品を除けばほとんどパン屋需要だけだよ?タベルナは?一般の自由民向けは?そのあたりはまだ一切手を付けてないよ?その上、魚醤みたいにポンペイの外に売りだしたらどうなる?たしかウンブリキウス様が動いているってデキムスさんは言ってたよ?」
ルシウスの追い打ちに一瞬意識が遠くなりそうになった。
ちょっとまて、ウンブリキウス様だと? 初耳なんだが????
「それに……」
まだあるのか。
「……それに?」
ルシウスに聞きなおす俺の声は裏返っている。
「……今月から化粧品工房も本格的に稼働するでしょ?俺、あれを遅らせる気はないよ?怖いもん」
そうだった。目の前で気だるげに目をこすりながら隈を作っているこいつが、お嬢様や奥様方、いやポンペイ上流階級女性の総意という絶対的な圧のもと、デキムスに準備をさせている新しい品物。
肌をすべすべにする石鹸と、とんでもない保湿力をもった化粧水。そして洗濯剤。
それらはすべて花の女神が口づけしたのかと錯覚するような優しい香りを纏うことのできるという恐ろしい効能付き。
既にルクレティアお嬢様はもちろん、奥様にとっても必需品になっているそれ。
始末が悪いことにお二人はその化粧品で底上げした美貌で毎日ポンペイ社交界でマウントを取り続けている。
結果、デキムスが受注残が恐ろしいことになっていると恐れおののいていた。
その恐ろしい受注残が、今月からついに現金化されるというのか。
つまりアレの分配金が俺にも入ってくるのか。
「それに、水あめ工房だって先月はまだ最大稼働じゃなかったしね。設備も中途半端だったし、人も慣れてなかったし」
「ま、待て。……最大製造能力は、いくらなんだ?」
俺は震える声で尋ねた。
「んー……ざっと月に3000セクスタリウスってとこかな。無理をすればもう1000は積めるかも?」
「さんぜっ……!それ……利益はどうなる?」
「納入金281デナリウス、フェリクスのおっちゃんへの分配金190デナリウスかな。今は1割程度しか作ってないシリゴを使った麦の蜜の製造量を増やせばさらにドンッかな」
人間計算機でもあるルシウスが即答する。
「う、売り上げは?」
「ん-……1800デナリウスくらいかな」
……やばい。
やばいやばい――不味い!!!
消費財取引でそんな規模の金が動けば必ず市内の大商会や他の貴族たちの耳に入る。
その時「あれはフェリクスという奴隷が勝手にやっていることだ」などという言い訳が通じるはずがない。
リバーシはまだいい。
あれはマルクス様も把握しておられる。
それにあれはいわゆる美術品に近いし、一時的に跳ねても所詮は一発屋の商品だという認識もある。
しかし麦の蜜は消費財、しかも一過性のものではないと来た。
「ちなみに化粧品が稼働したらさらに倍だよ?いや、数倍かも?」
「ルシウス、お前……自分がどれだけ恐ろしいことをやらかしたのか分かっているのか……?」
「え? でもマルクス様、この間の報告の時に『一々報告しなくて良い』って言ってたんでしょ?」
「そら精々が数十デナリウス程度の取引だと思ってたからだ!」
化粧品の方についてはやばい認識はあったが、それでも数十デナリウス程度の小商いと化粧品工房だけなら、化粧品工房開設と同時の報告で十分だったんだ。
両方一気に来るんじゃない!!
どうする?どうする?
……マルクス様は昼前には農場の視察からお戻りになるはずだ。
ここは下手に隠す方が悪手だ。
販売先はポンペイ全域のパン屋。隠ぺいなどは無理だ。
誤魔化しは無理、か。
なら……。
……正直に、誠実に報告する。
それが正解だ。
戻られ次第、すぐにこの数字を報告し、身の潔白を主張する。
元々少しづつ育て、時期を見てマルクス様に共有する予定だった事業が意味不明なレベルで跳ねたのだ、と。
実際問題こんな初月で利益が爆発するなんて誰も予想はできないだろう。
よし、それでいこう。
「よし、ルシウス。お前、絶対にここから動くなよ」
「眠いし今日はずっと家にいるよ~~」
俺の焦燥感とは対照的に気の抜けた返事をするルシウス。
お前本当に頼むぞ!?
ちゃんと俺の身の潔白を証明してくれよ!?
さて、あとはルシウスを縛り付けてマルクス様が返ってくる前に打ち合わせを……。
そう考えながら縄を用意しようと部屋を出ようとしたとき――
「ル、ルシウスぅぅぅぅl!!フェリクス様ぁぁぁ!!」
――裏口の方から、悲鳴に近い、大声が響き渡った。
デキムスの声だ。
工房で唸っているはずの男が、なぜわざわざこの屋敷まで絶叫しながら走ってきたのか。
「お、お父ちゃん!?」
「デキムスさん?どうしたんだろ?」
ルシウスが首を傾げる。
俺はその声の切羽詰まった響きに……嫌な汗がさらにどっと吹き出すのを感じた。
この、規格外の利益の報告。
そして、タイミングよく(悪く?)飛び込んできた悲鳴。
強烈な厄介ごとの気配がする……!!
確信めいたその気配に、胃がきゅっとなる感覚が俺を襲ってきた。




