33話 新進気鋭の商人、デキムス[2/2]
まず、人員だ。
危険な薬品の扱いに慣れた奴隷などそうそう見つからないと頭を抱えていた時、最近ポンペイででかい洗濯屋を開設した解放奴隷のステファヌスという男が、「うちの奴隷ならそういうのには詳しいから何人か貸すか?」と協力申し出てくれたのだ。
ステファヌスとは、先日ルシアのパッラを尿臭く仕上げられた時にクレームを入れに行ったが、その後なんやかんやで俺と仲良くなっていたのだ。
次に、工房の物件。
これは、あのパン業界のドン、テレンティウスさんが「ちょうど私の所有する中規模の食堂の空き物件がある。これを化粧品工房用に改装して貸してやろう。家賃も安くしておくぞ」と、信じられないような好条件で斡旋してくれたのだ。
もちろん二人とも販売に少し噛ませてくれとか優先納入権の話は出てきたが、協力条件からすれば本当にささやかな範囲内だ。
そして最後に金。
二人に会うすこし前、まずは資金確保だと金貸しのルキウス・カエキリウス・セクンドゥス様の所に訪問するや否や、その工房は金を積めば開設が早くなるのかという話ばかりを聞かれ、返済できることの根拠として持ってきた注文書を一回も見ることなく、こちらの希望額満額をその場で即決してきた。しかも信じられない低利でだ。
本当に、今回はみんなやたらと協力的だ。
不思議だなぁ……なんでだろうなぁ。
大体原因は分かっているが、突っ込んでも絶対にろくなことにならないので突っ込まない。
ステファヌスの時はクレームを入れに行ったときにルシアを見るステファヌスの娘さんの目が怖かったのは絶対に関係ない。
テレンティウスさんの時も彼が奥さんと一緒にいる時にテルマエの前で声をかけられたが、後ろの奥さんが俺と一緒にいた風呂上がりの俺の妻を凝視しながらテレンティウスさんをペンで突っついていた気がするけど絶対に俺の見間違いだ。
カエキリウス様のところでは彼の真横で奥様とご令嬢が目が笑ってない笑顔で扇子をパシパシ叩いていたが、まあ機嫌は悪くなさそうだったし関係ないだろう。
ないったらない。はいこの話終了!
「しかし、麦の蜜、リバーシ、化粧品、か……」
俺は今抱えている事業を口に出して改めて感慨深い気分になる。
苦労はある。
本当に、吐き気がするほどすっごい苦労の連続だ。
だが、それを乗り越えた先には、とてつもない栄光と富が待っていることは、馬鹿な俺にでもはっきりとわかる。
しかし同時に、俺は冷静に理解してもいるのだ。
この成功は、決して俺自身の商才や力によるものではないと。
全ては、ルシウス。
あの幼くも恐ろしさを感じる少年の脳内に詰まっている『ミネルヴァ様から授かった英知』と、彼が属する有力貴族の奴隷という立場が、この莫大な富の源泉なのだ。
俺は……ただ、彼らの描いた図面の上で、必死に手足を動かしているだけの現場監督に過ぎない。
「……なんとかして、あの子を我が家の婿に迎えられないだろうか」
俺は机に顔を押し付けたまま、本気でそんなことを考えた。
ルシウスは今は奴隷だが、あれほどの才覚があれば、近い将来に解放奴隷として自由の身になることも不可能ではないはずだ。
それに、うちのルシアは間違いなく彼に好意を持っている。
彼の方も、ルシアを邪険にはしていないし、むしろ綺麗な装飾品を買い与えたりして、満更でもないように見える。
もし彼が娘の婿になってくれれば、デキムス商会の未来は盤石だ。
「……ふふっ」
俺は顔を上げ、部屋の隅に置かれた重厚な金庫に目を向けた。
あの中には、フェリクス様に上納した後の、俺自身の取り分として積み上がった銀貨が眠っている。
もう少し金が貯まれば集合住宅ではなく立派な広間のある中古の邸宅に移り住むこともできるかもしれない。
わずか数ヶ月前には、裏通りのインスラの一階の端っこで、家族三人、肩を寄せ合うようにして貧しい生活を送っていたこの俺がだ。
まるで、魔法のような数ヶ月。
これが夢なら、永遠に覚めてほしくない。
そんな幸福な余韻に浸りながら、最近ルシアがはまっている麦の蜜入りのカモミールティーでも淹れようかと腰を浮かせた、その時だった。
「だ、旦那様!旦那様ぁぁぁ!!」
玄関の方から、バタバタと騒がしい足音が聞こえてきた。
新しく買い入れた、雑用係の女奴隷だ。
ドタドタといった足音とともに、勢いよく執務室の扉を開け放つ。
「なんだい、騒々しい。俺のように、もっと落ち着いて対応をしなさい。急な商談か?」
俺は新進気鋭の大商人としての威厳を保ちつつ、ゆっくりと立ち上がった。
すると、女奴隷の後ろから、息を切らして転がり込んでくる恰幅の良い男の姿があった。
「デ、デキムスゥ!いるか!!」
「え?」
上質なトガを乱し、顔を真っ赤にして肩で息をしている老人。
ポンペイ随一の富豪であり、ガルム王、ウンブリキウス・スカウルス様、その人だった。
「……あ、あぁ!?ウ、ウンブリキウス様!?自らこんなむさ苦しい場所にいらっしゃるなんて、一体どうされたのですか!?まさか、走ってこられたのですか!?」
俺は慌てて机を回り込み、彼に椅子を勧めた。
彼ほどの人物なら俺程度、奴隷を使いに出して呼びつければよいだけのこと。
ポンペイ財界の顔役ともあろうお方が自らの足で全速力で走ってくるなど前代未聞の異常事態だ。
「もういいお年なんですから、そんな無理はいけませんよ!?」
「はぁ、はぁ……それどころではない!大変なことになったぞ、デキムス!」
ウンブリキウス様は椅子にドスンと腰を下ろし、額の汗を拭いながら叫んだ。
「使者だ!早馬の使者が、お前を探している!!正確にはお前の工房をだが……」
「はあ?使者?私にですか?」
誰かの使いが来たくらいで、なぜこの大富豪がここまで狼狽えているのか。
「プリニウス様からの使者だ!!」
「……えっと、それは。どなたで?」
プリニウス。
どこかで聞いたことがあるような、ないような。
ポンペイのパン屋や石工の親方衆の中に、そんな名前の人物がいただろうか。
「馬鹿!!ガイウス・プリニウス・セクンドゥス様だ!!」
ウンブリキウス様が、信じられないほどの声量で怒鳴った。
「ナルボネンシス、アフリカ、タラコネンシス、ベルギカの属州総督を歴任され、今年ミセヌム艦隊の司令官に就任されたウェスパシアヌス陛下の側近、プリニウス様だ!お前ももうすぐこの街の上流階級の仲間入りをするのだ!ローマ本国の要人の名前くらい知っておけ!!」
「えっ」
「私が就任祝いに贈ったお前の『麦の蜜』を口にされ、甚く興味を持たれたらしい! 『今すぐその工房を視察する、案内させろ』と、直々に早馬を飛ばしてこられたのだ!!」
「……は?」
俺の思考は、そこで完全に停止した。
ミセヌム艦隊の提督?
ローマ海軍の、トップ?
……皇帝陛下の、側近!?
それが、俺の、工房に?
「……ごめん。ちょっと待ってください」
俺はふらりとよろめき、壁に手をついた。
視界がぐらぐらと揺れている。
胃の奥から、先ほどまでの『デスマの疲労』とは全く異質の、冷たくて重い恐怖がせり上がってくる。
「気絶して、いいですか?」
「寝言は寝て言え!いや、寝るな馬鹿!使者がもうそこまで来ているのだ!すぐに支度をしろデキムス!!」
夢なら覚めて。
さっきまで「夢なら永遠に覚めないで」と願っていた数分前の自分を、俺は全力で殴り飛ばしたかった。
ローマの高官。軍の最高司令官。
そんな雲の上の存在が、なぜ一介の元薪売りのところへやって来るのだ。
「と、いうか……俺の工房に視察って……何しにくるんです?その方」
「……プリニウス様の本質は学者だ。おそらく、麦の蜜の原理の解明に来るのだろう。以前、私に魚醤について聞き取りに来た時も、根掘り葉堀り聞かれて秘伝について守るのに苦労した。……おまえ、麦の蜜の各工程とそこでなぜそうなるのか、説明はできるか?」
「無理っす、あれを見つけたのは俺じゃないので」
「じゃあその見つけた奴を今すぐ呼び出してこい!!私はその間に自宅に戻ってプリニウス様の出迎えの準備をする!」
「は、はいぃぃぃぃい!!!」
ウンブリキウス様に怒鳴りつけられた俺は、そのままインスラの階段を転がり落ちるように下り、ルクレティウス邸に駆けることになった。




