32話 新進気鋭の商人、デキムス[1/2]
「……終わった。ようやく、今週分の帳簿付けと3か月先までの受注整理が終わった……」
ポンペイの表通りに面した集合住宅の2階。
その一室に設けた仮の執務室で、俺、デキムス・ムニウス・サギッタは、山のように積まれた安いパピルスと最高級なパピルス、そして蝋版の山を前に机へ力なく突っ伏した。
「しかしルシウスの申し出は渡りに船だった」
そう言って少し前に娘ルシアと一緒に出て行った少年のことを思い浮かべる。
先ほど、パピルスと蝋版の山に埋もれて白目を剥きかけていた俺を見かねて、ルシウスが「報告書と代金は俺とルシアで持っていくから、少し寝てなよ」と銀貨の入った皮袋と書類を奪い取ってくれたのだ。
本来ならルクレティウス・フロント家の管理奴隷であり出資者でもあるフェリクス様に直接報告へ行かないなど、それも工房を稼働させた初月の重要な報告を代理に任せるなどは、恐ろしくてできないのだが……今日ばかりは抵抗する気力すら湧かなかった。
そんなわけでルシアと一緒に屋敷へ向かう少年を見送り、フェリクス様に本来報告に向かう時間を使ってあと一歩だった受注整理を続けた結果、何とか終わったのが今さっき。
「あぁ……今夜はようやく熟睡できるかも。いや、ルシウスの言う通り、今、少し仮眠でもするか……」
突っ伏しながら誰に言うでも無くつぶやく。
木製の机のひんやりとした感触が茹った頭に心地よい。
「しかしここ数か月は本当に、本当に、激動だった……今までの人生を全部圧縮しても足りない、そんな怒涛の展開だった」
目を閉じると、ここ数ヶ月の怒涛のような日々が走馬灯のように脳裏を駆け巡っていく。
全てはルシアがルシウスから水あめを貰ってから。
しかし今思えばあれはまだ小商いだった。
本格的な『波』が来たのはその後の工房化と、リバーシ。
そう、あの『リバーシ』というボードゲームが上流階級の皆様に大流行し、第二波。
……最初の話では、ルクレティアお嬢様向けの1~2セットという話だった。
それがいつの間にかルクレティアお嬢様の『お友達』の令嬢たちにという話になり、あれよあれよという間に百に迫る勢いの受注。
今もそれは積み上がることはあっても減ることはない。
というか受注いつ減るんだこれ。
こんな、すぐに真似できるものなのに(事実、庶民向けの品物は俺の知らないところで流通し始めている)何故という疑問は、目の前に積みあがる受注に比べると些事なので追及すらしていない。
重要なのはポンペイ中の上流階級から注文が殺到した結果、俺は町中の石工やガラス職人に注文をねじ込んで回る羽目になったということ。
そのせいでパン屋から借りた資金に手を付ける羽目になり、死にかけた。
ルシウスがフェリクス様を連れてきてくれなかったら、今俺はポンペイの海で魚のエサになっていたかもしれない。
そして、そんなすったもんだの末にようやく開始できた麦の蜜工房。
パン屋の親方衆から資金を集めたという経緯から、当初は今まで通りの製造法で今まで同様パン屋向けの麦の蜜を中心に製造していく予定だった。
だが、リバーシの流行で気を良くしたルクレティアお嬢様が、ついに「シリゴを使った麦の蜜」の流通を許可……というか、半ば強制的に製造開始を命じてきた。
結果として、俺の商会にはリバーシの注文書と並んで、貴族や富裕層の家々からルクレティアお嬢様の紹介状を抱えた使者が直接『麦の蜜』の注文をしてくるようになった。
贈答用、あるいは自家の宴会用として、小さな壺に入った高級水あめが飛ぶように売れていく。
むしろ全然製造量が足りなく圧をかけられ始めている現状だ。
このままではいずれ……
あ、やめてっ!
お、お貴族様に売り渋ってるワケじゃじゃないんです!!
あ、あ、あ、肩はそっちに曲がらないです!?
テルマエは癒しの場所であって尋問の場所じゃないって!?
ユルシテ!?
「っは!?と、トラウマが……」
パン屋の親方衆事件の時から推測できる『シリゴを使った麦の蜜』の製造量を増やさなかった未来が頭の中に流れてきて嫌な汗が出てくる。
幸いなことにまだ工房の製造能力上限には余裕がある、今月は『シリゴを使った麦の蜜』の製造比率を少し増やすか……。
何せポンペイの外にも出ていく気配があるのだ。
あのガルム王、ウンブリキウス・スカウルス様が、ルクレティアお嬢様の紹介で将来的な大口契約を打診してきている。
俺がルクレティウス家に出入りできるようになった経緯からしても両家は裏では犬猿の仲のはず……と不思議に思っていたのだが、商談のために屋敷に招かれた時、近くにいた彼の孫娘のテルティア様が、俺がルクレティウス家に納入した最初の高級版リバーシで侍女と遊んでいるのを見て疑問は氷解した。
きっとリバーシや麦の蜜を通じて関係が改善したのだろう。
そんなわけで、ウンブリキウス様は何とか割り当てた、彼にとってはごく少量のシリゴを使った麦の蜜を、ポンペイを越えて帝都ローマにまで輸出しているらしい。
評判は上々と聞いている。
あの魚醤の販売網に乗せて、ローマの元老院議員や大貴族の食卓に、今後俺の『麦の蜜』が並ぶことになるかもしれないのだ。
ちなみに納入先が具体的に何処の誰なのか、恐ろしすぎて俺はあえて聞かないことにしている。
だって怖いもん。
ウンブリキウス様からは「ポンペイ外の独占販売権を我が家に任せないか」と熱烈な打診を受けているが、フェリクス様の許可なしに頷けるわけもなく、ひたすらのらりくらりと躱し続けている。
そんなわけで、稼働を開始したばかりの『麦の蜜工房』は昼夜を問わずフル回転だ。
新たに借金をして買い増しをした奴隷たちを三交代制で働かせ、窯の火を絶やすことなく蜜を作り、できた糖液を煮詰めている。
工房の改修完了も、奴隷の買い増しも先月末なので先月の収支にほぼ影響は及ぼしていないが、今月からは最大製造能力の上限を目指すことになってくるだろう。
そうして乗り切った先に見えたのは、莫大な銀貨の山。
帳簿をつけていたので中旬には大体の全容が見えていたし、毎日増えていくセステルティウス硬貨やデナリウス銀貨に物質的な実感もあった。
しかしそれでも、帳簿をつけて合計額を確定したとき、俺は3回は見直すことになった。
あまりに非現実的な額だったのだ。
莫大な利益を前に、俺は歓喜よりも先に、得体の知れない恐怖で震えるしかなかった。
だが、俺の試練はそれだけではない。
机の端に積まれた、もう一つの巨大なパピルスの山。
こちらの山のパピルスはどれも白いパピルス。
恐ろしい額の注文書が積み上がっている、『石鹸』と『化粧水』を取り扱う化粧品工房の件だ。
こちらに至ってはお嬢様の意向どころか関係者の妻や娘、つまり俺の妻やルシアも含んで圧をかけてくる特大重要案件。
それを今月からついに本格稼働を開始しなければならない。
しかも恐ろしいのは白いパピルスの様式。
封蝋による家名入り封印までされているのだ。
これは貴族や上流階級が儀礼に則った正式な書類で用いる形式らしい。
ふつうは物を買うのにこんなものを寄こしてきたりはしない。
隠す気もない「頼んだぞ。なっ?(血走った目)」といった圧付きの注文書なのだ。
「麦の蜜工房の立ち上がりが速攻安定したとはいえ……もう一つの工房立ち上げとか、マジで死ぬかと思った……」
何回か冥界の神プルートーにあいさつしかけた気がしないでもない。
麦の蜜の作り方が、ルシウスが持ってきた温度を測るガラスの器を使えば思いのほか簡単な手順で作れたから良いものの、そうでなければ確実に不良品を出しまくって詰んでいたぞ。
そしてそもそも化粧品工房、麦の蜜工房に比べてはるかに立ち上げ難易度が高かった。
なんでも途中に作られる液体がものすごく危険らしく、完成品に麦の蜜工房で使っている材料が混ざっても危険という厄介工房。
そのため麦の蜜工房とは別に新たな場所と設備を用意しなければならなかったのだ。
だが、不思議なことに、今回は致命的な行き詰まりにはならなかった。
というのも、今回の件に関わってくる人々は、皆やたらと協力的だったからだ。




