31話 水あめ、あるローマ高官の手に渡る
――西暦78年2月の初旬。
ルシウスを始めとするポンペイの一部界隈の男性陣が化粧品事業立ち上げのためのデスマで死にかけているまさにその時。
ローマ帝国の誇り、世界最強の海軍の中でも最有力の艦隊であるミセヌム艦隊。
その艦隊司令として皇帝の側近でもあるとある男が司令長官に就任することとなった。
……そしてこの男がルシウスの運命を大きく動かすことになる。
カンパニア地方の海風はまだ冷たさを孕んでいるが、ミセヌムの岬に建つこの司令官官舎の浴室は床下に備え付けられた暖房設備のおかげで春の陽だまりのような暖かさに包まれていた。
そんな浴室で、私は浴室奴隷に肌擦り器で身体を洗われながら目を閉じていた。
だが、それは休息のためではない。
人が神より与えられた時間はあまりにも短く、この世界の森羅万象――自然界の驚異や人間の技術の全てを記録し探求するには到底足りない。
故に、読書や書き取り……あるいは思索以外のことに費やされる時間は「全て」浪費であると考えている。
それは入浴の時間でさえ例外ではない。
「――次。ネアポリスの市参事会員、カッシウス・ケレアル様より、ファレルヌム・ワインが3アンフォラ。ならびに、来月同氏の別荘で開かれる宴へのご招待状が添えられております」
浴室の入り口に控えている朗読係がパピルスの巻物を繰りながら抑揚のない声で報告を読み上げていく。
内容は就任祝いの贈り物の目録報告と、どうでもよい宴の招待。
私は目を閉じたまま短く鼻を鳴らした。
「ワインは倉に収めておけ。宴の誘いは丁重に断れ。そんなものに浪費する時間は私はない。どうせ私にとりいり艦隊の利権にでもありつこうという魂胆だろう。……次」
「はっ。次もネアポリスの……」
先月の下旬、私は皇帝陛下より直接の命を受けてこのミセヌムに駐留するローマ海軍最強の艦隊であるミセヌム艦隊の司令長官に就任した。
このミセヌムの海軍基地は帝国の心臓部たるイタリア半島西岸の防衛と、地中海全域の制海権を握る重要な拠点である。
その長官に就任した私に赴任の挨拶という名目で、ネアポリス、バイアエ、プテオリ、ポンペイといった近隣の政財界の要人たちがこぞって私に贈り物を山のように送りつけてきていた。
事前に多少は私のことを調べたのであろう。
ルビーなどの貴石、異国の香辛料、珍しい野獣、珍しい肌の高級な奴隷。
そこそこ珍しい品々。
しかしそのほとんどは私が編纂と執筆をした博物誌にすでに記載しているものばかり。
とてもではないが興味を引くものは含まれていない。
そして、それらに必ずと言っていいほど添えられているのが豪華絢爛な宴への招待状だ。
だが、私にはそのような下らない付き合いに割く時間はないのだ。
公務の合間を縫って、私は常に本を読み、書記に口述筆記をさせている。
夜の睡眠も無駄だ。なるべく眠る時間を少なくし、深夜から未明にかけてランプの灯りで執筆を続ける。
移動用の輿に乗っている時でさえ、揺れの中で書記にメモを取らせている。
世の有象無象が日があるうちから宴会で泥酔し、夜に惰眠を貪っている間にも私はローマの……いや世界の知識を蒐集し、記録しなければならない。
去年ようやくその集大成を一旦完成とし、博物誌として戦友であり敬愛するティトゥス殿下に献上を行ったが、知識とは一度記録すればそれで終わりという物ではない。
それでは寝ていることと同じである。
人生とは、目覚めていることなのだから。
知識もまた、目覚めていなければならない。
「……次。ポンペイの商人、ウンブリキウス・スカウルス様より」
朗読係の声に私はわずかに眉を動かした。
ウンブリキウス・スカウルス。
その名前は知っている。
ポンペイにおいて魚醤の製造と販売で巨万の富を築いた男だ。
彼の作る魚醤やリクアメン(半濁のガルム)は品質が高く、ローマの貴族たちの食卓にも上るほどである。
我が書の魚醤の項を作る時に大いに協力してくれたのもこの男だった。
「ポンペイの魚醤売りか。彼には多少世話にはなったが……どうせ最高級のガルムでも送ってきたのだろう。厨房に回しておけ」
「いえ、確かに魚醤もあるのですが……それとは別に厳重に封をされた小さな素焼きの壺が一つ……中身は、えぇと……」
朗読係の声に、わずかな戸惑いが混じった。
「なんだ? 真珠でも入っているのか」
「いえ、その……添え状によりますと……『麦から抽出した蜜』である、と」
その言葉に、私はゆっくりと目を開けた。
「……なんだと?」
「『麦の蜜』でございます。添え状には、今年に入ってからポンペイの工房で製造が開始されたばかりの、全く新しい甘味であると記されております」
私の脳内で、これまで蓄積してきた膨大な知識が高速で回転し始めた。
甘味。
この世界において人が手に入れられる甘味は限られている。
最も一般的なものは言うまでもなくミツバチが集めるハチミツだ。
ヒメットゥス山で採れるタイムのハチミツなどは、極上の品は黄金に匹敵する価値を持つ。
次に、果実。
特に葡萄の果汁を煮詰めたデフルトゥムやサパ。
これらはワインの甘み付けや料理の味付けに重宝される。
また、インドやアラビアの地には葦の茎から採れる「サッカルム」という白い結晶の蜜があることも、書物や商人からの伝聞で知っている。
あれは医薬としても用いられる希少なものだ。
……だが。
「麦から蜜を取るだと?」
麦は挽いて粉にし粥にしたりパンを焼いたりするためのものだ。
あるいは、エジプトやガリアの蛮族のように酸っぱい酒を作ることはある。
……しかし、麦から「蜜」を抽出する方法は、私の知る限り……古代ギリシャの哲人の書物にも、カルタゴの農学書にも、一切記されていない。
確かに麦は噛み続けていると甘くはなる。
しかしその甘さは到底甘味には届かない。
世界の理としてありえない。
「……朗読係!今すぐその壺をここへ持ってこい!」
先ほどまでの退屈しきった気分は飛んで行った。
心に何かが灯るのを感じる。
朗読係は慌てて一礼すると、浴室の扉の向こうに控えていた奴隷に指示を出した。
間もなく美しい装飾が施された盆に乗せられ、手のひらに収まるほどの小さな素焼きの壺が運ばれてきた。
壺は蜜蝋で固く封がされていた。
「開けろ。匙を持て」
奴隷が小刀で蜜蝋を削り落とし、木の栓を抜く。
私は奴隷から奪い取るようにその壺をつかんで中の匂いを嗅いだ。
瞬間、浴室の湯気に混じって……ふわりと微かに柔らかな香りが漂った。
ハチミツが持つような、花特有の強烈な芳香ではない。
もっと穏やかでどこか穀物を思わせるような、深く静かな香りだ。
銀の匙を壺の中に差し込み、中の液体を引き上げてみる。
とろりとした、透明感のある液体が匙の先から垂れた。
まるで溶けた琥珀か、純度の高い水晶のように美しい。
しかしハチミツと似た色にも見える。
口にするまではこれがハチミツか、本当に麦の蜜とやらなのかは分からないな。
そう思い私は匙ですくったそれを、そのまま口に含んだ。
「…………ッ!!」
舌の上に広がったのは――未体験の味覚。
蜂蜜のような舌に張り付くような甘さではない。
果汁を煮詰めたサパのような酸味やエグ味も一切ない。
ただひたすらに……優しく、上品で、それでいて芯のある優しい甘味。
そしてその奥に、確かに感じる麦の香り。
「なんだ、これは」
ただ単に麦を煮詰めただけでは決して……決してこのような純粋な甘味にはならないはずだ。
なんだ?
何をしたらこうなる?
「……工房で作られていると言ったな」
私は匙を舐め取りながら、朗読係に向かって低い声で尋ねた。
「は、はい。添え状によれば、ポンペイに最近設立されたばかりの『麦の蜜』専用の工房で、ごく限られた量だけが生産されているとのことでございます。ウンブリキウス氏は、この新しい甘味の流通に関わっているらしく……」
なるほど。
ウンブリキウスめ、私の性格を正しく把握しているな。
確かにこれは私にとって未知だ。
今すぐこの麦の蜜について詳しく知りたい。
私は久々に全身の血が沸騰するような興奮を覚えていた。
これは新たな理、それも一度だけの奇跡ではない。
工房で量産されているということは理屈が分かっているということだ。
つまりこれは技術だ。
麦を蜜に変える技術。
もしそれが真実ならば、私は今すぐその製法をこの目で確かめ、原理を解明し、私の編纂する博物誌の補遺、いや新版の新たな一章として書き加えなければならない。
誰が考案した?
どのような原理で?
工程は?
温度は関係あるのか?
知的好奇心が、軍務や政務といった一切のしがらみを薙ぎ払って暴走を始める。
「書記!!」
私が奴隷に身体を拭かせながら浴室からでると、叫びながら書記を呼び出す。
それに反応した書記と奴隷たちが私の元に集まってきた。
「私の服を持て!入浴は終わりだ!すぐに支度をしろ!私の馬車を用意させろ!行先はポンペイだ!!」
「はっ!?しかし提督、もう日も落ちております……それに明日はネアポリスの二人官との宴が予定されており……今からポンペイに行ってしまってはどう考えても間に合わ――」
「そんなものは来週にでも延期しろ!いや、適当な者を代理に立てておけ!馬車は隊列を組み松明を焚いて夜通し行軍すればよいであろうが!!」
私は奴隷に体を拭かせながら書記に指示を出す。
自然と大声になってしまうがかまうものか。
「か、かしこまりましたっ!」
「それからウンブリキウスにも直ちに早馬で使いを出せ!私が直々にその工房を視察に行くとな!案内させろ!明日の朝一でだ!一刻の猶予も許さん!」
「か、かしこまりました!!」
書記が転がるようにして浴室から飛び出していく。
私は手元に残った銀の匙についた微かな蜜の残りをもう一度舐め取った。
やはり、美味い。
それ以上に、不思議だ。
「……麦から蜜、か。まだまだ世には未知が満ちているな」
口元が緩むのを感じる。
待っていろ、ポンペイの未知なる工房よ。
この私の探求心から逃れられる事柄など、このローマはおろか、世界の果てに至るまで存在せぬと思え。
謎のローマ高官:
皇帝の腹心、ミセヌム艦隊司令、博物誌……この人物はいったい誰なんだ……
Q:なんでこの人海路使わないの?海軍提督でしょ?
A:冬季の地中海は危なかったので原則として封鎖されていたから。
もちろん古代ローマにも安全に航行するための観測機器はあった。
しかし冬季の地中海は海は荒れるわ雲は多いわで当時の観測機器が役に立たない条件ばかり。
そのため古代ローマでは11月~3月は原則として海は封鎖されていた。
海軍も例外ではなく、冬季の海軍は緊急時を除き艦艇の修理や精々が湾内の習熟訓練程度しかできなかった。




