28話 美少女だろうが臭いものは臭い [1/2]
年が、明けた。
新年の雰囲気もようやく薄れてきた1月の中旬。
ポンペイの街は、冬の澄んだ空気に包まれていた。
今年は果たして西暦79年なのだろうか。
西暦基準でしか噴火の年を覚えていないので、今年がそうなのかは前世の記憶と取り戻して数か月たった今でもわからない。
西暦を把握できる可能性がある唯一の手段はキリスト教徒を探すことなのだが、ぜんっぜん見つからない。
あれかな?迫害とかそういうの以前に空気。
というかまだ全然普及してないキリスト教ってちゃんと末端の教会?までイエスの生没年伝えてるんだろうか?という問題もある。
そんなわけで西暦が分からない以上、今年が噴火の年でも大丈夫なように動くしかない。
……間に合うか? いや、間に合わせるしかない。
俺はスタビア通りの石畳を踏みしめながら、焦燥感を噛み殺した。
焦っても何かが進むわけではない。
とりあえずは目の前の成果を整理しよう。
……リバーシの受注は安定している。高級品なので利益率も高い。
だが夏までに爆発的に増えるかというと難しい。
そしてなにより真似をするのが簡単な商品だ。
マルクス様の一時的な気を引くことはできたが、庇護者をしたくなるような『固い』事業にはならない。
『固い』事業は主に麦の蜜事業だ。
こっちは単純に需要過多の甘味需要を満たしていけばよい上、甘味の需要はそうそう減ることはない。
つまり庇護者となり世代を超えて庇護するに値する事業の一つではある。
しかし水あめ一本は駆け出しの商人を庇護する理由としては少し弱い。
もう一声、もうひと商品欲しいんだけど……。
何個か作ってみたけどどうも『事業』として見た時の『上振れ』幅は少ないんだよなぁ……。
なお、一番の有力候補は蒸留酒なのだが、これはフェリクスのおっちゃんがルクレティウス家の蒸留酒を時期を見てお披露目したいということで止められている。
ガリレオ温度計欲しさとは言え、ワイン農場でフェリクスのおっちゃんに丸投げしたのは失敗だったかもしれない。
もう一つの品は……ちょっと今までの品物に比べて製造工程に問題があるんだよなぁ……。
最終的には絶対売れる商品なのは変わらないけど、それが春先までに劇的な変化をもたらすかというと……自信がない。
うーん……どうしたものか。
「ルシウス君!待ってよぉ!」
思考の沼に落ちそうになる俺を背後から甘えたような声。
その声で俺の思考は現実に引き戻された。
振り返ると、そこには淡いローズ色のパッラを身にまとい、小走りで追いかけてくるルシアの姿。
最近のルシアは、髪も綺麗に結い上げられ肌艶もいい。
初めて会った時に比べると、いい意味で肉付きも良くなっている。
食生活の改善がダイレクトに成長期の身体に反映されていた。
一言で言うと、誰もが振り返るような美少女になりつつある。
……のだが。
「はぁ、はぁ……もう、歩くの早いよぅ」
「ごめんごめん。ちょっと考え事をしてて」
そう言いながら、さりげなく追いついてきたルシアに警戒姿勢。
最近、彼女のアプローチは露骨なのだ。
デートのたびに距離が近くなっている。
まあそうなるように色々と焚き付けてはいるのだが、それはそれとしてルシアに抱き着かれると少し困ったことが発生する。
帰ったときにルシアの匂いがついているらしく、ルクレティアお嬢様の機嫌が悪くなるのだ。
俺は別に鈍感系ではないのでだいたい理由はわかっている。
おそらくルクレティアお嬢様も俺を『結婚相手が決まるまでの疑似恋愛相手』のように見ているのだろう。
それは微笑ましくはある。
が、それはそうとして機嫌が悪くなると無茶ぶりのフラグが立つ。
時間がない現状、ちょっと今は忙しいのでそれは勘弁してほしい。
なのでルシア? デートで距離を詰めるのは結構だがハグはやめてもろて。
「……?」
そう警戒していたのだが、今日は一向にルシアはこちら抱き着いたり腕を絡めてくる気配がない。
不思議に思ってルシアの様子を観察すると、ルシアは俺の腕に触れる寸前でなぜか躊躇するように身を引いたり手を出したりを繰り返している。
「?何やってるのルシア?」
「う、ううん! なんでもない! なんでもないけど……その……」
彼女がモジモジと体を揺らし、ふわりと風が吹く。
その瞬間、俺の鼻腔をくすぐる香りがあった。
大量のバラの香油の匂い。
「あ、なんか今日、香油つけすぎた?」
「あ、う、うん!実はそうなの!!」
「……ん?」
不自然に同意の言葉を口にするルシアの声と同時に香油の匂いの奥から変なにおいが姿を現す。
良い匂いとはお世辞にも言えないその匂いに、俺は眉をひそめた。
この匂い、知っている。
公衆トイレの匂いだ。
アンモニア臭である。
「んー?」
「えっ、きゃっ!?ルシウス君?や、やだっ」
俺は遠慮なくルシアとの距離を詰め、彼女のパッラの袖口あたりに鼻を近づけてクンクンと嗅いだ。
間違いない。
強烈なバラの香りで誤魔化そうとしているが、繊維の奥から染み出してくるような、鼻の粘膜を刺激するアンモニアの臭気。
「……ルシア。もしかして洗濯屋選び、失敗した?」
「……っ!」
図星だったらしく、ルシアの顔がカァッと赤くなり、次いでみるみるうちに涙目になっていく。
「お母ちゃんが、『お金もできたし、店構えが立派な洗濯屋を見つけたからそこで洗ってもらう』って……いつもの倍の値段がする洗濯屋に頼んだっていってたのに……!なのに!!」
そこまで言うとぴえーんと泣き出してしまうルシア。
なるほど、そういうことか。
この時代、あまり自宅では洗濯せずに業者に頼んでいたのだが、業者が洗濯に用いる洗剤……なんと尿が用いられていた。
街中から収集した尿を発酵させ、アンモニアを生成する。
そのアルカリ性尿洗剤で油汚れを分解し、洗浄する。
そしてすすいで干す。
それが洗濯屋の基本仕事だ。
当然尿を発酵させるので洗濯屋の近辺はウルトラスーパー臭い。
治安の悪い公衆便所がフローラルな香りに思えるくらいには臭い。
じゃあ古代ローマ人は全員しょんべん臭いかというとそうではなく、普通はちゃんとしっかり水ですすぎ洗いをするはずなのだが、ここは復興需要が続く街、ポンペイ。
おそらく口が上手く腕の悪い洗濯屋に引っかかってしまったのだろう。
「それで、受け取った服がなんか臭くて……でも、せっかくのデートだし、香油をいっぱいかければそのうち何とかなるかなって……グスッ」
半ベソをかきながら俺に香油の匂いがきつい理由を説明するルシア。
……アンモニア臭は乾けば飛んでいくとかそういうものではないので、これは洗いなおさないと消えない。
しかしそんなことを知らないルシアとその母はお金の力に物を言わせて香油でこの匂いに蓋をすればそのうちよくなると思ったのだろう。
結果、今のルシアは『歩くバラの香りのトイレ』状態になってしまっていた。




