19話 テルマエに行こうか、なっ?
「デキムス工房、デキムス商会……ふふ、デキムス商会、か」
12月のポンペイの骨身に染みる寒さとは真逆に、この俺、絶賛売り出し中の商人であるデキムス・ムニウス・サギッタの前途はまるで真夏のように熱く燃え上がっていた。
にやけそうになる頬を必死にきりっと引き締めながら、俺はノーラ通りを早足で歩く。
今、俺の商会――元々は薪の行商だった俺の『デキムス商会』は異常なほどの活況を呈している。
きっかけは、俺の可愛い可愛い娘、ルシアがルクレティウス家の奴隷であるルシウスから麦の蜜というハチミツと遜色無い甘味を貰ってから。
その甘味の流通を一手に請け負い、ひと月もしないうちに俺の知らないところで俺による『デキムスの麦の蜜工房』設立が決まった。
かと思えば、工房の設立準備中に今度はお貴族様直々の発注でルシアとルシウスが考えたという謎の遊技盤を作ることに。
リバーシと名付けられたこのゲームは白と黒の石をひっくり返すだけの単純な遊びだが、ラトルンクリに引けを取らない戦略性があり、しかも血なまぐささが一切ない。
そのせいか上流階級の奥様方や令嬢たちの間で爆発的に流行した。
そして、いつの間にか俺の商会がこのリバーシの『発明元』『本流』ということになり、上流階級の奥様やご令嬢からの注文が殺到。
蝋板に書き連ねられた受注リストから逆算すると、半年後には俺は大金持ちになることが約束されていた。
しかし問題もある。
「リバーシの仕入れ代金の先払いで手元はすっからかん……工房賃貸の手付金(家賃の前金)も払えねえ……やっぱ工房設立はもっと遅らせるしかねぇな」
そう、貴族向けの高級品、それも今が旬の製品を作るには前金で工房に注文をねじ込む必要がある。
結果として、俺は手元の現金をすべてリバーシの製造費用に突っ込んでしまっていた。
そのあおりを食らったのが、麦の蜜工房の設立計画だ。
本来であれば今月頭には物件を契約し麦の蜜専用のかまどを据え付け、奴隷を買ってルシウスにレシピの共有をしてもらい、月末には本稼働稼働を迎えるはずだった。
そもそも俺の手元資金のほとんどは市内のパン屋の親方たちから麦の蜜工房設立のために借り入れた金だ。
その金の大半をリバーシの製造のために使ったと知られたら……。やばいな。
……でもなぁ。
「……仕方ねえだろ。リバーシの方が利益がいいんだから」
俺は誰にともなく言い訳を呟く。
そう。リバーシの利益はやばいのだ。
確かに出ていく金はでかいが、工数はそんなでもない。
麦の蜜工房はどう考えても奴隷を雇わないと開始ができないが、リバーシは注文を右から左に流すだけ。
その上でリバーシ事業は俺一人だけで月に数百デナリウスの利益が見込めるのだ。
それにフェリクス様に言われて工房設立前に身代を整えるための出費もしてしまっている。
どちらにしてもリバーシで稼がないと工房設立資金が足りないのだ。
リバーシの利益がひと月分あれば、今の生活水準を落とさずに工房設立資金を充当できる。
だから1か月くらい工房の設立を遅らせるのは仕方ないのだ。
今月分のリバーシの納品を完了させて代金を回収すれば、その金で今候補に挙げてる工房の中でも最もいい物件で工房を作れる。
そうすればパン屋の親方たちだって文句はないはずだ。
そう、これはあくまで一時的な高度な計画による微修正なのだ。
……まあ、親方たちには「物件選びにこだわっていて、少し難航している」としか伝えていないが。
嘘は言っていないから俺は悪くない。
「1月末……いや、奴隷の確保と教育も含めると2月稼働開始が現実的か。それまでは何とかのらりくらりと躱して……」
そんな皮算用をしながら、次の目的地である石工の工房へ向かおうと通りの角を曲がろうとした、その時。
「――おう、デキムスじゃねえか」
不意にかけられた声に心臓が跳ね上がる。
目の前に立っていたのは粉で白く汚れたトゥニカを着た恰幅の良い男。
スプリウス親方だ。
俺が最初に麦の蜜を持ち込んだパン屋であり、今回の工房設立にあたっても優先納入権を設定する前に真っ先に金を貸してくれた恩人でもある。
「あ、あぁ! これはスプリウス親方! 奇遇ですなぁ!」
俺は顔に愛想笑いを張り付けた。
額に冷や汗が滲む。
さっきの独り言聞かれてないよね?
「……奇遇、か。まあ、そうかもしれねえな」
一方スプリウス親方の反応はどこか歯切れが悪かった。
「親方ちょうどよかった。実は例の工房の件なんだがな。……いやぁ、いい物件が見つかりそうだったんだが、ちょっとかまどが小さくてなぁ。皆さんの要望をかなえるにはやっぱり大きなかまどで作らないと初月からの製造能力を上げるのが難しくて。まあそんな感じでもう少し……あと少しだけ時間がかかりそうかなー、なんて……ハハハ」
そんな親方に俺は先手必勝とばかりに用意していた言い訳を並べ立てる。
「……そうか」
「ええ、そうですとも!あ、俺はこれから石工のところへ行かねばならんので、これで……」
俺は早口でまくし立てその場を去ろうとした。
「まあ待てよデキムス」
スプリウス親方の太い腕が俺の進路を塞ぐように伸びた。
それと同時に周囲の路地や建物の陰からぬっと人影が現れる。
「え……?」
4人、いや5人。
全員が見覚えがある顔。
俺が工房設立資金として金を借りた、パン屋の親方たちだった。
「あ、あれ? 皆さん、お揃いで……今日はパン屋組合の集まりか何かで?」
俺の声が裏返る。
彼らの目は笑っていなかった。
俺は無意識に後ずさったが背後にも気配。
完全に包囲されている。
「ス、スプリウス親方……これは一体……?」
助けを求めるように視線を送ると、スプリウス親方の目も座っている。
そして包囲網がゆっくりと割れる。
その奥から、一人の男が姿を現した。
上質なトガを隙なく着こなし指にはいくつもの金の指輪。
整えられた髭と、神経質で爬虫類を思わせる冷ややかな瞳。
市内のパン工房の中でもひときわ大きい工房を擁するポンペイパン業界のドン――ティトゥス・テレンティウス・ネオがそこにいた。
彼とはつい先日、彼の使いを通じて麦の蜜を月1000セクスタリウス納品しろという、工房たちを立ち上げてもすぐには対応できないような注文を打診されたばかり。
あの時は「生産体制が整い次第」と平身低頭してお引き取り頂いたが……。
「やあ、デキムス君。探したよ」
ネオは穏やかな笑みを浮かべていた。
だがその笑顔は捕食者が獲物に向けるそれだった。
「ずいぶん羽振りがいい様だねぇ。そのトガ、おろしたてかい?似合っているよ」
心にもなさそうな声色で俺のトガを褒めるテレンティウスさん。
「へ、へへ……おかげさまで」
「あぁ?なんでそんなに羽振りがいいんだ?まだ工房は場所も俺らに教えてねえってのに、なあ?」
親方衆の一人が疑問を口にする。
「そ、それは……」
「なんでもお貴族様向けのリバーシとかいう遊戯の受注でも引っ張りだこらしいじゃないか。妻が言っていたよ、大商人や騎士階級のお歴々の令嬢奥方たちのなかで今大ブームなんだってね?」
テレンティウスさんが親方衆に情報を補足する。
「ほぉん?最近は俺らへの薪の納入も他の奴に任せてるみたいだし、ひと月で随分と大きくなったじゃねえかデキムス?」
そう言いながら横の親方が俺の脇腹を小突く。
「は、はははは……」
「で?俺らが金を貸して準備してる麦の蜜工房はいつ稼働するんだ?『来週には』って言ってから、もう半月経つぞ?」
「そ、それは……製造能力を上げるためにいい物件を見繕ってるところで……」
「まだ物件も決まってないのかい?それは……来月からの稼働、間に合うのかい?」
テレンティウスさんが痛いところを正確についてくる。
「そもそも君、お貴族様向けの受注ってお金は大丈夫なのかい?私は石工工房にも知り合いがいるが、前金で注文をしているらしいじゃないか」
追加の情報に親方衆の表情が厳しくなる。
あ、これ不味いかも。
「お貴族様向けの高級品で前金だぁ?」
「おいデキムス。その仕入れ代金はどうやって確保してるんだ?」
「私は金貸しにも伝手があるが、デキムス君が彼らから金を借りたって話は聞かないねえ」
金貸しルートという予測を的確につぶす情報を出すテレンティウスさん。
「借金じゃねぇのか。元手のない薪売りが、どうやって前金出してんだ?あぁ?デキムス」
「デキムス君、きみ……まさかとは思うけど……」
親方たちの疑問をまとめて追及するテレンティウスさん。
ヤバイ。
バレている。
完全にバレている。
俺がパン屋たちから借りた工房設立資金を流用してリバーシの製造費に充てていることが。
この金は本来『工房設立のため』に親方衆から借りている金だ。
親方衆も当然工房が速やかに設立され、そこから製造される麦の蜜をパンに使うことで儲けることを前提に貸している。
決して俺がリバーシで大儲けをするために貸してくれているわけではない。
「ち、ちが……違うんです! これは、リバーシで儲けた金で、もっとでかい工房を作るための先行投資で……!」
「あぁ!?」
ばんっ!
「ひっ」
親方衆のだれかが壁を手のひらで叩き大きな音がする。
それに怯えた俺の声が空虚に通りに響いた。
「まあまあ皆さん落ち着いて」
激昂する親方衆を制止してくれるテレンティウスさん。
あれ?もしかして親方衆たちをなだめてくれるために……。
「投資、か。なるほど」
テレンティウスさんが、俺の肩にポンと手を置いた。
その笑顔はとてもいい笑顔で……
あ、なだめに来たんじゃないなこれ。
一枚噛みに来た顔だ。
「デキムス君。君の、投資戦略について、もっと詳しく聞きたいな」
テレンティウスさんが顔を近づけてくる。
「……ちょっと一緒に、目の前にあるフォロ浴場にいこうか?な?奴隷のマッサージも奢ってあげよう」
ポンペイにおいて「テルマエに行こう」という誘いは親愛の情を示す場合と……逃げ場のない裸の付き合いで全てを吐かせる場合がある。
今の状況は、間違いなく後者だ。
「……ワ、ワーウレシイナァ」
俺は蚊の鳴くような声で答えた。
俺の両脇は既にパン屋の親方衆によって拘束されている。
逃げ場は、ない。
「いい心がけだ。さあ、行こうか。フォロ浴場はすぐそこだ。たっぷりと汗を流して、腹を割って話そうじゃないか」
こうして俺はパン業界のドンと親方連中に囲まれ、奴隷市場に連行される奴隷のようにフォロ浴場へと連行されていくのであった。
ティトゥス・テレンティウス・ネオ:
史実人物。ポンペイで最も有名な肖像画『パン屋の夫婦』の題材人物でパン屋だと推測されている。
なお次期皇帝と名前被りしているが名前のレパートリーの少ないローマではよくあることだった。




