13話 私の英知、ルシウス
私はルクレティア・フロンティーナ。
ポンペイの名門、ルクレティウス家の長女。
今の私はとても気分が良い。
侍女に持たせた鏡の中に映る自分の姿を眺めながら、私は満足げに口角を上げた。
別の女奴隷が丁寧に梳きあげた私の髪には、昨日届いたばかりの真珠の飾りが揺れている。
しかし私の気分が良いのはそんなどこにでもある宝石のせいではない。
今、私が手で持ちながら遊んでいる小瓶の中に入っている麦の蜜。
これを得てから私の生活はすべてが好転しだした。
――かつて、私の生活は退屈そのものだった。
名門ルクレティウス・フロント家の令嬢として淑やかに振る舞い刺繍を嗜み家庭教師の退屈な授業を受ける。
それがポンペイの貴族の子女としての正解。
けれど、ある日を境に私の日常はそらに光るお星さまのように輝きだした。
きっかけは私につけられた奴隷のルシウスが高熱から回復したとき。
私より一つ年上の10歳の奴隷、ルシウス。
以前の彼はたしかにちょっと計算がとくいで頭がいいだけの男の子だった。
それでも年の近い知的な男の子に傅かれるのは気分が良かったし、だから私はルシウスを気に入っていた。
けどそれはあくまで道具兼子分として。
しかし、ルシウスは熱から逃げるために、どうやら女神ミネルヴァ様の気まぐれな試練を受けたらしい。
高熱から回復したあの日を境に、彼は私に英知と、それに伴う果実をもたらし始めたの。
始まりは、麦の蜜。
初めにルシウスに話を聞いた私は、女神さまの要求がどうとかどーでもよかった。
それよりも女神さまと話したという部分!
流石は私のお気に入りの奴隷のルシウス。
女神様とお話をするなんですごいじゃない。
お気に入りの奴隷を高熱から救い出してくれたなら家の倉庫を多少開けてお礼をするくらいはやぶさかではないわ!
そう思っていつも通りフェリクスに命じ、あとはいつも通りの日常が……と思っていたら果実がでてきた。
女神ミネルヴァ様の果実、麦の蜜をなめた時私の認識は変わった。
ルシウスは女神に対価を要求されたが、その果実を得る立場にもなったのだと。
つまりルシウスの主である私も女神の英知の対価を得れる立場になったということ!
何て素晴らしいの!
残念なのは麦の蜜が大麦で作ったものだからこれを自慢できないこと。
それを不満に思っていたらルシウスったら小麦でつくった麦の蜜も作りだした。
もう最高!!
大麦の大地の力を凝縮したような蜜を食べられなくなってしまったのは残念だけれど、小麦の蜜の透き通るような優しい甘みも好きなので妥協してあげるわ。
こんな甘い蜜を貰える私はきっと特別な存在にちがいない。
その考えが正しいのはすぐに証明された。
どうしたのかって?
公衆浴場で顔見知りの令嬢たちに振る舞ってみたの。
そうしたら、もう、大騒ぎ。
ポンペイ中の令嬢たちがハチが花に群がるように我が家へ押しかけてくるまで一週間とかからなかったわ。
『ルクレティア様、次はいつお茶会を開いてくださるの?』
『あの麦の蜜をかけた果実、お母様にもお聞かせしたら、ぜひ一度お目にかかりたいとおっしゃっていたわ!』
私を囲むお友達からささやかれるのは色とりどりの誉め言葉。
我が家のお茶会はすでに有力な騎士階級や豪商の令嬢たちの「たまり場」になっている。
お母様は女性社会で高まる名声に、毎日上機嫌で鼻歌を歌っていらっしゃる。
普段はきびしいお父様でさえ「ルクレティア、お前は我が家の名を高めたな」と私を膝に乗せて褒めてくださった!
すべては、私のルシウスが持ってきた、あの麦の蜜のおかげ。
でもこれで満足していてはいけない。
私たちは飽き性なのだ。
ただのインフュージョンに麦の蜜を添えて出すだけではすぐに飽きてしまう。
お友達もきっとそう。
だから料理人のドラコに命じて、あの小麦の蜜を使った新しい菓子を作らせてみたのだけれど……。
「……ドラコ、これ、ただ果実を麦の蜜で煮ただけじゃない。芸がないわよ」
「申し訳ございませんお嬢様……。しかし、この麦の蜜の良さを活かすにはこれが一番かと……」
ドラコは確かに腕の良い料理人だけれど想像力というものが欠けている。
いえ、美味しいのは美味しいのよ?
でも面白いものが出てこない。
それを不満に思っていたある日の午後、私は見かけてしまった。
厨房の裏でルシウスとドラコが何やらこそこそと額を突き合わせて密談しているところを。
ドラコが自信満々にクレープとそれに包んだコンポートを私に持ってきたのはその直後。
小麦粉を薄く焼いた生地。
その不思議なほど柔らかい生地に果実の麦の蜜煮を包んで食べる。
「ん-♪薄くて柔らかい生地とその中にあるコンポートの組み合わせ、最高じゃない!」
「お気に召していただき光栄です。苦労した甲斐がありました」
「さすがはルシウスが考えたレシピだけあるわね」
「えぇ、えぇ、これで私も一安心で――――あ」
ドラコはうっかりルシウスのレシピだとばらした。
やっぱりね。
私は幼い頃からずっと一緒なのよ。
ルシウスがこそこそ隠れて何かをしてもぜーんぶお見通しなんだから!
というわけでルシウスを絞った。
結果、シフォンケーキという想像するだけでワクワクするお菓子のアイデアが出てきた。
私は確信した。
油とルシウスは絞ってこそだと。
きっと女神さまもおんなじ考えなんだと思う。
だって今度はミネルヴァ様だけじゃなくヘスティア様にまで拝謁してきたのよ?
ただ、絞りすぎて絞りカスだけになってしまっては困るので、次々回のお茶会以降は少し絞るのを自重してあげようかしら?
私はそのへんの成り上がりと違って奴隷の扱い方を心得た名門騎士階級の娘なのだ。
さて、明日のお茶会では何を話そうかしら。
――翌日
「はやくルシウスを絞って英知を引き出さなきゃ!!」
お茶会を終え、客人として招いた友人のみんなを正門で見送りした後、私は踵を返して屋敷の中にいるはずのルシウスを探し始める。
え? ルシウスを絞るのはしばらくやらないんじゃないかって?
……そんなこと言った覚えはないわね!
とにかくルシウスを絞らなきゃ。
『私の』お友達グループの危機なのよ。
事は今日のお茶会でのこと。
今日は隔回で招待しているウンブリキア・テルティアを中心にお話をしていたの。
彼女はポンペイの名産品である魚醤で巨万の富を築いたアウルス・ウンブリキウス・スカルウスの孫娘。
成金と揶揄されることもあるけれどその財力は本物。
そんな彼女は私との歓談途中にこう言ったのだ。
「ルクレティア様、いつも素敵なおもてなしをいただいてばかりでは心苦しいわ……。……そうだわ!次は私が皆様を招待して昼食会を開かせていただくわ。もちろん、ルクレティア様が主賓よ?」
彼女は愛らしく微笑んでそう言ったけれど私には分かっている。
これは挑戦状だ。
ウンブリキウス家のことだものきっと金に物を言わせた見たこともないような豪奢な昼食会を開くつもりなのよ。
つまり私が築いたこのお友達グループを圧倒的な財力で奪い取ろうとしているということ。
……まずいわ。
とてもまずいわ。
せっかく築き上げた私のお友達グループ。
ここで彼女に主導権を握られるわけにはいかない。
何とかして、カウンターを当てなければ。
彼女の昼食会に参加者全員が腰を抜かすような「何か」を持って乗り込まなければ、次のお茶会からはあの子がこのお友達グループのボスになってしまう。
何か。
何にしようかしら。
……お菓子はダメね。
あのお菓子は、我が家でしか食べられないことに価値がある。
持ち込んだら希少価値が薄れてしまう。
食以外の何か。
彼女たちの心を一瞬で掴みウンブリキウス家の豪華な食事さえ忘れさせてしまうような……。
「そうだわ!遊戯なんてどうかしら!」
ルシウスから絞るジャンルが思い浮かんだ私の足取りは軽くなる。
『何か』なんていい加減な指示でなくて具体的なジャンルまで指示してあげるなんて、私はなんて良い主人なのだろう。
「ルシウス!ルシウス!!どこにいるの!」
私は屋敷内を速足で探し回る。
ルシウスの部屋、居ないわね……。
フェリクスの部屋は……居ないわねっ!
じゃあ台所……居ないじゃないっ!!
全くどこに……あ、裏庭に居た!
なんか変な鍋を前に何かをしているルシウス。
それを見つけた私はさっそく彼に声をかけた。
「ルシウス!!」
さあ、私のために新しい遊戯を出しなさい!
もちろんポンペイ……いえ、ローマでまだ知られてない新しいものよ!
ローマの女性の命名則:
男性の場合は個人名があるが、女性の場合は父親の氏族名と家族名の女性名がそのまま与えられた。
ルクレティアの場合はルクレティウス・フロントの女性名=ルクレティア・フロンティーナとなる。
次女以降の場合は家族名の後か氏族名の後に2番目、3番目を表すセコンダ、テルティアという風につけられる。
ちなみにこの名づけは姉が幼少時に亡くなるなどしても繰り上がることはない。
なお、奴隷の場合はそもそも氏族名がない場合があるという理由からこの命名則に沿わない場合も多く、自由民の場合でも中下層民の名づけは伝統よりも縁起を重視する風潮やそもそもこの命名則だと名前被りが多すぎて識別できないなどの理由から氏族名の女性名以外は割と好き放題つける場合も多かった。




