10話 テルマエでの密談
お茶会レシピの責任をドラコのおっちゃん押し付ける方法は後で考えよう。
午後、俺は別件の問題を考えるためにフェリクスのおっちゃんに連れられて公共浴場を訪れていた。
おっちゃんとキャッチボールで軽く運動し、その後に温浴室のヌル風呂に入る。
古代ローマのテンプレート的なテルマエの楽しみ方だ。
このあとは熱浴室の熱い湯に入って冷水浴室の水風呂に入ってを繰り返して整ったり、マッサージをしてくれる奴隷に依頼してオイルマッサージを受けたりも良い。
別に奴隷だから奴隷からサービスを受けられないとかはない。
表向きは身分の差なく利用できる施設、それが公共浴場だった。
(なお、普通の奴隷ならトラブルを避けるために人の少ない時間帯を狙って入ることが多いが、俺やフェリクスのおっちゃんのような貴族と近い距離にいる奴隷や技能奴隷は割と自由民と同じ時間帯に入っても平気だったりする。)
ふう、と深く息を吐き出すと、かわりに浴室の湿度が高い空気が肺に入ってくる。
蒸気に満ちた浴室に商人だの剣闘士だのが入り混じり、湯の跳ねる音と笑い声と罵声が入り交じっている。
油壺やストリギルを持った奴隷たちが行き交い、誰かが歌い出し、誰かが賭け事に興じている。
ここはポンペイの中でも最も大きな公共浴場、スタビア浴場だ。
ローマ帝国における公共浴場は総合レクリエーション施設であり情報の社交場の一つだ。
政治から不倫の噂まで、あらゆる言葉が飛び交っている。
はっきり言ってかなりうるさい。
どれくらいうるさいかというと現代日本で例えるなら金曜夜のオフィス街の大衆居酒屋くらいにはうるさい。
この喧騒の中なら、小声の密談が他人に漏れる心配はない。
つまりは密談するのにもってこいというわけだ。
「……で、どうするつもりなんだ。ルシウス」
俺の隣で湯につかっていたフェリクスのおっちゃんが小声で切り出してきた。
「どうするって、何?」
「とぼけるな。デキムスのことだ。あいつ、毎回仕入れのたびに俺のところに泣きついてくるぞ。『もっと麦の蜜を増産できませんか?このままだとパン屋の親方に殺されてしまう』ってな」
フェリクスは溜息をつき、顔をぬぐった。
「そんなに?」
「知り合いの開放奴隷のパン職人にそれとなく裏を取ってみたが、麦の蜜の存在を俺が知ってるだけで情報源はどこかしつこく聞いてきた。麦の蜜の情報が出るだけで俺にさえそんな態度をとるパン屋連中がデキムスに圧をかけてるのは、多分事実だな」
町有数の有力貴族ルクレティウス・フロント家の管理奴隷なフェリクスのおっちゃんはかなり顔が広い。
おそらくそこら辺のパン屋へなら強く出ることもできる立場だと思う。
と、いうことは情報の精度としてはかなり高いということだろう。
「そっかぁ」
「最終的にそこそこの規模にはなると予想はしていたが、あの麦の蜜はやばいぞルシウス。パン屋需要だけでこのありさまだ。邸宅の厨房でドラコが他の仕事の合間に作れる量には限界がある。さすがに供給源を特定してない状態でデキムスをどうこうすることはないだろうが、このままの供給量だと本当にデキムスの指の2~3本は来月に無くなってるかもしれないぞ?」
「それはちょっと可哀そうだなぁ」
「お前なぁ……」
俺の気の抜けた反応にあきれるフェリクスのおっちゃん。
しかし俺としてもちょっと予想外の売れ方だった。
麦芽水あめは主食である大麦や小麦で作れる関係で市内で安定的に供給できるのと、ハチミツに比べて癖が少ないのが特徴だ。
しかし言ってしまえばそれだけで、まあたしかにパンに混ぜるとしっとり食感の白めのパンが出来上がるが、はちみつパンに比べて衝撃的なうまさというわけではない、とおもう。
なので、大体半年スパンでハチミツが満たしている甘味需要の2割程度を満たせれば御の字だと思っていた。
あくまで自由にできる元手、次なる技術チートのための踏み台的な商品だったのだ。
パンを事前に食わせたのも、せいぜい1軒のパン屋での採用確度を上げるためで、そこで試験的に作った白パンが徐々に口コミが広がって……位なイメージだった。
生産体制だってフェリクスのおっちゃんの知り合い経由で管理奴隷の美味しい副業的な感じで広めてからデキムスさんに居ぬきか何かで安く済む工房を確保してもらって、工房は大麦水あめ、今までの内職は小麦水あめといった感じで段階的に生産を拡大していこうくらいの予定だったのだ。
しかし、実際はパン屋というBtoB市場で需要が即爆発。
ひと月経った現状で見えてきたのは明らかな需要過多。
そのせいか初動で食いつくと予測していた本命である居酒屋・食堂には営業すらしていない状態だ。
営業をすればこちらも即食いつくのだろう。
新しもの好きなローマ人を甘く見積もっていた。
俺は湯船に肩まで浸かり、天井を見上げた。
まあ、上振れする分には計画を早めれるし、良っか。
「じゃあデキムスさんに工房を持たせるしかないんじゃない?」
「工房? ただの薪売りだったあいつにか?」
「うん。だって今の我が家の麦の蜜生産ラインは多分すぐにルクレティアお嬢様とそのご友人たちへの小麦の麦の蜜の生産で埋まるんじゃない?」
「……確かに」
お嬢様が全力でお茶会で麦の蜜マウントをとっている現在。
最初の内は麦の蜜をもったいぶって我が家でしか食せないものにしているが、そのうち『親しい人を優先して』水あめの販売業者を紹介するという手順は既定路線と思われる。
そうすると自然、我が家の生産能力はそっちに振り分ける必要が出てくるわけで。
そうなると大麦麦芽水あめの供給が途絶えでデキムスさんがマジで比喩ではなく死ぬことになる。
「それに、大麦の麦の蜜の製造が邸宅内から離れる方がおっちゃんたちも安心でしょ?」
「それはそう。マジでそう」
フェリクスのおっちゃんが激しくうなずく。
我が家から大麦の麦の蜜の製造が離れるということは、お嬢様に大麦の麦の蜜を食べさせたという最終的な証拠隠滅が完了することを意味する。
そりゃあ可能なら最優先でしたいだろう。
フェリクスのおっちゃんはもちろん、ドラコのおっちゃんも全力賛成だろうよ。
「で、工房を立てさせるとして、資金はどうするんだ」
「おっちゃんが出せば?出せるでしょ?借金じゃなくて出資でね」
フェリクスのおっちゃんは町有数の有力者であるルクレティウス・フロント家の家財管理奴隷な訳で、それ相応のペクリウムをため込んでるでしょ?
「あのなぁ……工房を立てるっていったら、失敗した奴らの居ぬきでも単純労働奴隷込みで1700デナリウスは下らんのだぞ?ほぼ確実に成功する投資とはいえ、全額を出すのは無理だ」
「なんで?出せはするでしょ?」
「俺のペクリウムで出せる出せないの話じゃなく、全額だと既にマルクス様の後援があるとデキムスの取引先に誤解されかねない」
「あー」
確かにそれは間違えたメッセージをパン屋に与えかねない。
後ろ盾がマルクス様となった場合、大麦麦芽水あめが高級品として認識される恐れがある。
そうなるといざ原材料が推測された時に大麦が主原料として作ったものを高級品として売っていた商会をマルクス様が後援していた。という論建てになる。
それはマルクス様のメンツをつぶすことになる。そう言うのはまずい。
マルクス様の公認をいずれ得るとしても、大麦麦芽水あめで市場を確立し、高級路線としてキチンと小麦水あめの供給も確立するか、そもそも主力商品を低品質小麦を主原料とする麦芽水あめ(大麦麦芽と小麦で作る水あめ)に置換してからでないといけない。
とすると資金確保はもう一つの案の方が良いか。
「ん-……じゃあデキムスさんにパン屋の親方たちから借金をさせるのは?」
「パン屋から?」
「元々もっと作れと圧をかけてきてるのはパン屋の人たちでしょ?親方一人当たり100デナリウスなら借りれるんじゃない?10軒から借りれば1000デナリウス。対価は相場と同じ利息と麦の蜜の優先納入権。で、残りの700デナリウスをおっちゃんのペクリウムから出資として出してよ」
「確かに700デナリウスならすぐに動かせる範囲だし、ソキエタスへの出資でもその額ならそこまでマルクス様の影を見られることもないだろう。……そしてその額ならむしろ出資そのものはマルクス様へ報告しないことの方が正当性を持つな。優先納入権付ならパン屋の親方連中も貸すだろし、こちらでお膳立てするとはいえ1000デナリウスを自力で借りれるようならば商人としての力量も証明できるだろう。アリ、だな……」
「でしょ?」
「……しかしなんでそんなポンポン代替案が出てくるんだよ」
フェリクスのおっちゃんがあきれ顔で俺を見る。
ゆーても必ず当たる宝くじをだれに売る?ってだけの話だしなあ。
「麦の蜜の製造方法はどうするんだ?安く売るわけにはいかんぞ?」
「普通に5年間売り上げの1割を毎月使用料として取るとかで考えてたけど……」
「まあそれなら妥当か……それならどういう跳ね方をしても俺は横領を疑われることはないし」
ぶつぶつとなにやら頭の中で算段を弾いているフェリクスのおっちゃん。
横領? なんで今そこを心配するんだろう?
ソキエタス:
組合契約のようなもの。
合名会社に似た概念で、これへの出資は現代でいうところの無限責任社員になることを意味する。
出資はカネに限らず、技術、労力、物資などの形態があった。
例)ある工房から弟子が独立する場合
→親方「奴隷」、弟子「経営・労働力」、貴族「物件と初期資金」
なお奴隷が主人に周知せずに行ったソキエタス契約は奴隷のペクリウムの範囲のみで責任を負うという慣習があり、実質的に奴隷を挟むことで有限責任となるハックがあった。
フェリクスが「マルクス様へ報告しないことの方が正当性を持つ」というのはそう言う意味合いを持つ。




