狼隊長さんは、私のやわはだのトリコになりました。
お風呂やさんをテーマに書いてみたくて、その情熱だけで書いてみました。隊長と百合のじれじれを楽しんで貰えると嬉しいです!
ふと目が覚めた時、私はもうこの世界にいた。
天井は煤けていて、鼻の奥に埃とカビの匂いが刺さる。誰かの笑い声、金属のぶつかる音、そして――獣のような唸り声。しばらくしてそれが、自分の身体を繋ぐ鎖の音と、雇い主の怒鳴り声だと理解した。
どうやらここは、ヒトの国ではないらしい。
大きな鳥籠みたいな乗り物の中から、二足歩行のウサギや猫、犬など、さまざまな獣が歩くのが見える。時折感じる強い視線には、好奇心と――わずかな情欲が混ざっていた。
ここは、王都から馬車で三日はかかる辺境の街。見たところ、以前暮らしていた街ほど治安はよくない。北にある鳥人の国との国境に近く、つい最近までは前線だったらしい。戦が終わった今でも、疲れきった元軍人や傭兵たちが通りを歩いている。
後になって知ったけれど、この国ではヒトは珍しい存在らしい。
『ヒトは獣人を魅了する』
『ヒトの蜜を舐めると精力がみなぎる』
まるで幻の生き物みたいに語られている。
雇い主は狐の楼主で、到着したのは風呂屋――前の世界でいうところの、風俗みたいな店だった。
一見するとただの湯屋だけれど、奥には顔の割れた客だけが通される離れがいくつもあり、私はその一つを割り当てられている。
ここなら、誰が誰と会おうが、表に噂が出ることはない。それが、最高級風呂屋として名を馳せている理由でもあるらしい。
客を湯に通し、身体を洗ってあげるだけの“簡単なお仕事”。
もちろん、本当はその先がある。けれど、どういうわけか私の部屋では、誰もそこまで辿り着かない。
暖かな湯に浸かってもらい、立派な毛皮を洗って、梳かして、乾かす。そうして私が背中を撫でているうちに、みんな気持ちよさそうに眠ってしまうのだ。
何人かの獣人さんを接客したところで、彼らにとってのヒトの肌は、私たち人間にとっての子犬の毛並みのようなものなのだと理解した。
接客は順調かと聞かれ、そんな現状を話すと、狐の楼主はお腹を抱えて笑った。
「そりゃあ、ヒトの肌は特別さ。生きているうちに体験できるだけ、感謝してほしいくらいだよ」
「感謝って……そんなに珍しいんですか?」
「ん。あたしゃそろそろ九百になるが、生きてきて二人目だね」
その言葉に、思わず楼主を二度見する。日本にいた頃から数えても、私はまだ二十六歳だ。年齢を告げると、婆さんはまた豪快に笑った。
「カッカッカ。あんたはまだ赤子だな。まあ、その匂いからするに生娘だろうとは思ってたけど」
「に、匂い!? もしかして私、臭いですか?」
「ヒトにはわからんだろうが、甘い匂いだよ。獣人はヒトより、遥かに鼻が利くからね」
そう笑って、楼主は顔の前で優雅に扇子を仰ぐ。まだ暑くもないのに、その瞳には不思議な熱っぽさがあった。
「それに、あんたがまだ誰にも抱かれていないってのは都合がいいのさ。今度こそ自分が最初になれるかもしれないって、懲りずに夢を見る男が後を絶たない」
「それ……店としては困らないんですか?」
「どうしてだい? 夢を売るのも商売のうち。あんたは客を満足させて、客は勝手に眠る。誰も損しちゃいないよ」
そう言って立ち上がった楼主は、「あいつらは、大枚叩いて赤子に寝かしつけられてりゃいいのさ」と笑いながら、風呂屋に立ち込めた湯気の奥へ消えていった。
私がまだ誰にも身体を許していないことは、店の中では秘密ですらない。むしろ、それを売り文句にされている。
複雑ではあるけれど、そのおかげで今のところは、客を眠らせるだけの夜を許されていた。
湯気越しの鏡に、ふと自分の姿が映る。
この世界にはたくさんの種族がいるせいか、染髪という概念がないらしい。私の黒髪は、日本にいた時のまま、肩から腰へとまっすぐに伸びている。
化粧をしていない顔には段々と慣れてきたけれど、この物珍しい黒髪はまだ、この世界に馴染みきれていない私のように悪目立ちしている気がした。
「これじゃあ、単身で異国に渡った日本人形みたいなんだけどな……」
指を通して髪を梳かす。
独特な泉質と乾燥した空気は、私の髪質にとても合っているのか、日本にいた頃よりも指通りがいい。窓の向こうに小さく見える人々の往来を、私はぼんやりと眺めた。
ここへ来ることも、この仕事に就くことも、私が選んだわけではない。
だからせめて、この先に自分が進む道だけは、自分で選びたい。誰かの都合に振り回されて、仕方がないと諦めるのは、もう嫌だった。
*
客の毛並みは、だいたい三つに分かれる。
ふわふわでお湯をよく含むタイプ。ツヤツヤで水を弾くタイプ。それから、埃や汚れを巻き込み、あちらこちらで絡まってしまっているタイプだ。
今日のお客は、三つ目だった。
戦場帰りだという熊の獣人の毛皮には、土埃だけでなく、細かな木屑まで入り込んでいる。ぬるい湯をかけて汚れを浮かせ、毛の流れに沿って指を入れると、熊の獣人は気持ちよさそうに目を細めた。
「悪りぃな。こりゃ、洗うだけでも大変だろ」
「大丈夫ですよ。固まっているところから、少しずつ解していきますね」
「豪快にいってくれ。毛なんか、そのうち生え替わる」
「でも、せっかく立派な毛並みですから」
力任せに引っ張らないよう、石鹸の泡を馴染ませながら毛先を解していく。初めは表面を撫でることしかできなかった指は、洗い流していくほどに、少しずつ肌へと近づいていく。
指が背中を辿るたびに、強張っていた熊の肩から力が抜けていった。私の倍近くはありそうな大きな身体が、乳白色の湯の中へ少しずつ沈んでいく。
「……お前、変なやつだな」
「そうですか?」
「普通は、こんな身体を見たら怖がるだろ」
よく見れば、濡れた毛皮の隙間に、いくつもの傷痕が走っている。古く白んだものもあれば、まだ赤みの残っているものもあった。
その傷は怖いというより、痛そうだ。
「ここまで無事に帰ってこられた身体なんですよね。だったら、尚更綺麗にしないと」
熊の獣人は何も答えなかった。
ただ、伏せられた耳だけが、小さく私の方へ傾く。
背中を洗い終えたところで、熊の獣人がゆっくりと振り返った。湯気の中で私を見つめ、おずおずと両腕を広げる。
「悪りぃ。つい、抱きしめたくなるんだよな。お前の肌、あまりにも毛がなさすぎて……全身が肉球みたいだ。たまらん」
「全身肉球……」
誉められているのかどうかはわからないけれど、期待するような目で見下ろされては断りにくい。
「いいですよ。抱きしめてください」
私が一歩近づくと、熊の獣人は胸元へしまい込むように、私の身体をすっぽりと抱きしめた。
濡れた毛皮は思った以上に重たく、鼻先が首筋に触れる。ひやりとした感触に身体が跳ねると、頭上から低い笑い声が落ちてきた。
「はあ……ほんと、落ち着く。なんなんだよ、お前……」
「私は抱きしめられているだけですけどね」
「それでも、身体が軽くなるんだ。寝ちまいそうだわ」
「まだ毛皮を乾かしていませんから、もう少しだけ起きていてください」
せめて湯冷めしないようにと身体を離し、大きな布で毛皮の水分を拭き取っていく。
けれど、何度かブラシを通すうちに、熊の獣人の頭はゆっくりと傾き始めた。
「お客さん、もう少しで終わりますよ」
「……ああ」
返事はあったけれど、その声はもう半分ほど夢の中にいる。
絡まっていた毛並みを何度もブラッシングして、大きなタオルで拭いて。さらりと、ふわふわに膨らませていく。最後に首まわりを整えた時には、熊の獣人は喉を鳴らし、わずかに涎まで垂らして眠りに落ちていた。
客が眠りに落ちる瞬間の顔は、時々、病室で見た最期の寝顔に重なる。
本来なら、夜は身体を休めるための時間なのに、私は今でも、静かすぎる寝息を聞くと少しだけ怖くなる。
だから、胸元が規則正しく上下しているのを確かめてから、ようやく息を吐いた。
「……おやすみなさい」
懺悔にも似た気持ちで呟き、柔らかくなった背中をもう一度だけ撫でる。
本当は、この身体を使って“その先”まで相手をするのが、私に与えられた仕事だ。
それでも、こうして誰かが穏やかな寝息を立てるたび、手を出されなかったことに安堵する。仕事を果たせていない後ろめたさよりも、このままずっと、眠らせるだけで済めばいいという願いの方が、少しずつ大きくなっていた。
*
例の熊の客は、何度か通ううちに名前を名乗ってくれた。
「俺はボルト、陸上軍の第一連隊所属だ。お前の名前は――何だっけか」
「私ですか? 百合ですよ。……世間では、やわはだ嬢って呼ばれてるみたいですけど」
ポイントカードの1列目が埋まるくらいには通っているくせに名前を覚えていないとガサツに笑うボルトさんに、私は少しむすっとした顔で名乗る。どうせやわはだ嬢って言うんでしょ、と目線を投げかけると、ボルトさんはさらに豪快に笑った。
「悪いが、俺もお前のことはその名前しか聞いたことがない。軍でも、そう呼ばれてるしな」
「軍……でも?」
「ああ。”軍でも”」
いつもふざけて笑わせてくる熊の真剣さとは程遠い言葉のトーンで、ボルトさんは小さく続ける。
「ところで百合。そんな眠りのやわはだ嬢に、今日はひとつお願いがあってだな」
前置きをしっかり取って、ボルトさんは下履きだけの格好のまま、私の方へ体を向けた。
「……その、俺のとこの隊長を……なんとかして寝かしつけてやってほしいんだ」
この街は戦地に近く、軍関係者の利用が多い。
終戦したとはいえ、まだ街のあちこちには疲弊した兵士たちの姿がある。変に気分が昂ると眠れなくなることくらいは、私にもわかる。この店が繁盛している理由も、きっと多くはそのせいだから。
「……隊長さん、ですか」
そう返すと、ボルトさんは服を整えながら鼻を鳴らす。
「ああ。誰が部屋を覗いても働いてて、ほとんど眠ってねえんだ。それでいて耳がいいもんだから、物音にすぐビクつく」
仲間を思い出したように眉を下げたボルトさんは「はぁ」と大きなため息をついて、そっと目を伏せた。
肩を落としている様子を見ると、相当心配なんだろう。
戦いの話をする兵士は多いけれど、眠れない仲間を気遣う人は初めてで、なんだか少し興味が湧いた。
「それで、私に……?」
「ああ。”やわはだ嬢”の噂は軍でも有名だ。隊長、戦が終わってからの方が顔色が悪くてな。噂のヒトの手にかかればきっと少しは眠れるんじゃねえかって――そう思ったんだ」
「私で、いいんでしょうか」
「ああ。他の嬢じゃダメなんだよ。……あいつ、静けさが怖いくせに、音にも敏感でな」
静けさが怖い。
その言葉に、胸の奥が微かにざわめく。その人はきっと――私の何倍も濃い戦場の静けさを知っているんだろう。
「わかりました。全力で、眠らせて見せます」
「助かる。……隊長のこと、頼んだからな」
ボルトは「頼んだからな」と念を押してから、湯殿へ戻っていった。扉の閉まる音が、いつもより重く聞こえた。
断る理由はなかった。それなのに、胸の奥には小さなざわめきが残った。
*
陸上軍の隊長が会いに来るという話は、すぐに店の中に広まった。
「百合ちゃん、やるじゃない。隊長クラスが来るなんてさ」
猫の同僚――ミアが、尻尾をぱたぱた揺らしながら言う。
「ついに、やる日が来たね……!」
「やるって……何をですか」
「なにって、そりゃあ、ねぇ?」
ミアはわざとらしくウインクして、私の頬を爪でぷにぷにと突いた。
「百合ちゃんの部屋、今夜は貸し切りなんでしょ?」
「そうみたいです」
「いいよねぇ〜。ミアなんてさ、隊長クラスの客なんてぜんぜんつかないもん」
羨ましいと言いたげな流し目で、ミアは私の方へ体をくねらせた。
「あ、でも軍人相手は大変だよ? 強がって素直に甘えてくれないし、朝まで寝かせてくれないくらいの体力お化けだし」
彼女は生まれた時からこの店で育っている。母親はここの売れっ子で、ミア自身も十六の頃から客を取っていると聞いた。外で働くなんて考えは、最初から考えもしなかったと言っていたのを、聞いたことがある。
「それから、百合ちゃん」
ミアは不意にこちらを振り向いて、尻尾の先で私の体を撫でるのを止める。
「店の客に恋愛感情を持っちゃダメだよ。来なくなったときに“よかった、もう無事なんだ”って笑えるくらいじゃないと……あとで、すごく辛いから」
そう言って笑ったミアの目は、いつもより濃い灰色の影を宿している。
「……恋愛感情なんて! 寝る人しかいないのにそんな感情持つわけないじゃないですか」
思わず笑って返すと、ミアは肩をすくめる。瞳に落ちていた影はもうどこかへ消えていて、私はそれを見なかったふりをした。
「そうだといいね。……ミアの知ってる嬢は、みんな最初そう言うけど」
そういったミアは意味ありげな表情で窓の外を眺めて、再びゆっくりと尻尾を揺らす。
「とにかくさ、隊長さんを癒せるのは百合ちゃんしかいないんだから。ミアは百合ちゃんのこと、応援してる!」
応援というより、面白がっているような顔だったけれど、彼女のいっている言葉を真っ向から否定することはできなかった。
――眠れない人を、眠らせる。
看護師だった頃からやっていたことの延長だ、と言い聞かせる。ただ、今度の相手は戦場帰りの隊長だと言うだけ。そうやって言い聞かせる。
私なんかが、本当に役に立てるんだろうか。不安の渦に取り込まれないようにできる限りの現実逃避をしながら、私はふかふかのお布団にくるまった。
*
噂の軍人の名前は、翌日の私の予約表を独占していた。
朝から緊張しながら待っていたのに、いつまで経っても彼は現れない。結局、到着したと告げられたのは、日が落ちてからだった。
扉を開けた途端、張り詰めた空気が流れ込んでくる。何度も湯を張り直した部屋は十分に潤っているはずなのに、喉の奥がぴりりと痛んだ。
扉の前に立っていたのは、シルバーグレイの毛皮と、鋭い金色の瞳を持つ狼の獣人だった。
背筋は不自然なほどまっすぐに伸び、身体に馴染んだ軍服には隙がない。それでも疲労までは隠せないのか、厚い肩はわずかに内側へ入り、金属のような光沢があるはずの毛皮も鈍くくすんでいる。
カーキ色のパンツには、長時間座っていたような深い皺が寄っていた。
「失礼する」
低く抑えた声が、湿った空気を震わせる。
彼はどこか気まずそうに頭を掻いてから、長身を屈めて扉をくぐった。
「はじめまして。百合です」
「……ライガだ」
ひらひらと裾の広がる薄いベビードールを身につけた私へ、ライガさんは厳しい視線を向けた。露骨に眉間へ皺を寄せられ、歓迎されていないのだとすぐにわかる。
「湯加減を見てきますね。熱いお湯は大丈夫ですか?」
「構わない」
答えは短かった。
湯殿へ案内しても、彼はすぐには服を脱がなかった。湯船の前に立ったまま、黙って立ち上る湯気を見つめている。
「お手伝いしましょうか?」
「自分でやるからいい」
拒絶するような声ではなかったけれど、手を借りるつもりはないらしい。これ以上近づけば、かえって警戒させてしまいそうだ。
「では、お先に失礼しますね」
私は背を向け、先に湯船の方へ向かった。
しばらくして振り返ると、服を脱いだライガさんが、こちらとは目を合わせないまま湯へ沈んでいくところだった。
*
兵士は、背後から触れられることを嫌がる。
ここの客を相手にするうちにそれを学んでからは、なるべく最初に、どこへ触れるのかを伝えるようにしていた。
「失礼します。まずは腕から、洗わせていただきますね」
湯船の外に置かれた椅子へ腰を下ろし、桶で掬った湯をライガさんの腕へかける。
初めは水を弾いていた毛並みも、熱めの湯を流し続けるうちに、少しずつしっとりと重たくなっていった。
顔を上げると、金色の瞳がじっと私を見つめている。
目元は赤黒く腫れていた。眠れていない人の目だと、すぐにわかる。
「かゆいところはありますか?」
「……特には」
返事とは裏腹に、肩から首の付け根にかけての毛は、石のように固く絡まっていた。これでかゆくないはずがない。
「少し毛が固まっているので、解しますね」
驚かせないように断ってから、毛玉へ丁寧に泡を馴染ませる。
けれど、肩に触れた瞬間、ライガさんの身体がびくりと震えた。あまりに強い反応に、私も思わず手を止める。
「大丈夫ですよ。ここは戦場ではありませんから」
安心させたくて冗談めかしてみたものの、私の声も少し震えていたかもしれない。
それでも彼は何も答えず、代わりにゆっくりと息を吐いた。
私は触れる場所を伝えながら、少しずつ毛玉を解していく。泡を流して湯を替え、首筋から耳の後ろへ指を滑らせる頃には、張り詰めていた肩からわずかに力が抜けていた。
やがて、ライガさんの呼吸が深くなる。
よかった。眠りかけている。
そう思った時、肩にかけていた布が滑り落ちた。
起こさないよう、私は声をかけずに手を伸ばす。布を取ろうとした腕が、ライガさんの顔の上を横切った瞬間だった。
閉じられていたはずの金色の瞳が、弾かれたように開かれる。
しまった、と思った時には、もう遅かった。
ライガさんが威嚇するような声を上げ、反射的に腕を振るう。同時に、左腕へ鋭い痛みが走った。
何が起きたのか理解するより先に、白い肌へ三本の赤い筋が浮かび、遅れて血が滲み出す。
湯気の向こうで、ライガさんは敵を見るような目をしていた。
――そっか。この人はまだ、戦ってるんだ。
そう腑に落ちた途端、傷が燃えるように熱くなった。一度溢れた血は、はっとして右手で押さえたくらいでは止まらない。
水と一緒に流れる鮮血の匂いで我に返ったのか、ライガさんは何度も瞬きをした。
私の歪んだ顔と、腕から流れる血を見比べ、大きく息を呑む。
次の瞬間には彼の手が私の腕を掴み、冷水で傷を洗い流していた。新しい布を引き寄せると、傷口へ強く押し当て、引きちぎって縛り上げる。
その手際の良い応急処置をする体は、細かく震えていた。
「す、すまない! 俺は……っ」
掠れた声は、桶から水を流す音に紛れてしまいそうなほど小さい。
耳を伏せたライガさんは、怯えた子供のように何度も「すまない」と繰り返した。
腕の痛みより、その震えと謝罪の方が重く胸に突き刺さる。私は左腕を押さえられたまま、静かに首を横へ振った。
「大丈夫ですよ。すぐに止まりますから」
口にしてから、ああ、これは昔からの口癖だったなと思う。
今も昔も変わらず、自分に言い聞かせるように平気なふりをする。それでも、言わずにはいられなかった。
鼻先をくすぐる鉄錆のような匂いに、なぜか懐かしさすら覚える。
ライガさんは私の後ろへ回り、しばらく傷口を押さえてくれていた。
背中には、まだ濡れたままの毛皮が触れている。傷口を押さえるためとはいえ、その腕の中へ抱え込まれているような体勢だった。
けれど、触れられていることよりも、その身体が私以上に震えていることの方が気になった。
「……傷つけるつもりはなかった」
「わかっています。大丈夫ですよ」
「ただ、触れられた瞬間、また――」
「思い出したんですね」
その言葉に、ライガさんの耳がぴくりと動き、力なく伏せられた。
何かを言おうとしては口を閉じ、濡れたタイルを見つめている。
「……本当に、すまないことをした」
しょげた耳が、実家で昔飼っていたゴールデンレトリーバーに重なる。
あれほど恐ろしかったはずの人が、今は叱られた子供のように見えた。
「もう大丈夫です。それより、濡れたままだと風邪を引きますよ」
私がタオルを手に取ると、ライガさんは困惑したように顔を上げた。
「俺のことはいい。先に手当てを」
「傷口は押さえているので、血も止まり始めています。それに、お客さんをずぶ濡れのまま帰すわけにはいきませんから」
「しかし……」
「座ってください」
少し強く言うと、ライガさんは観念したように椅子へ腰を下ろした。
片腕しか使えないため、いつものように手際よくとはいかなかったけれど、大きなタオルで濡れた毛皮を拭いていく。
曇っていたシルバーグレイの毛並みは、水気を取るにつれて少しずつ艶を取り戻した。
きっと、本当ならとても美しい毛皮なのだ。
すっかり乾かすことはできなかったものの、服を着られる程度には整える。元から長居するつもりはなかったのか、ライガさんは皺の残った軍服へすぐに袖を通した。
「……楼主には、俺から話しておく」
扉の前で足を止め、深く頭を下げる。
顔を上げてからも何か言いたそうにしていたけれど、結局そのまま、逃げるように店を出ていった。
扉の閉まる音が、やけに遠く聞こえた。
*
「大丈夫です」とは言ったものの、左腕の傷は思っていたよりも大ごとになった。
楼主は毛むくじゃらの顔を真っ赤にして「何事だい!」と怒鳴り、ミアは「ずいぶん激しいことをしたのね」と目を丸くしながら、私の身体を隅々まで確認していった。
翌朝には血も止まり、念のため厚く巻かれた包帯の方が大げさに見えるくらいだった。手首も指も問題なく動かせる。
今までしたことのないような営業は難しいかもしれないけれど、いつものように身体を洗って毛を梳かすくらいなら、問題なくできそうだ。
しっかりと包帯を巻き直し、仕事の準備を始める。
けれど、すぐに私の部屋へやってきた楼主は、支度を済ませた私の姿をしばらく眺めたあと、呆れたように言った。
「あんたは休みな。傷が治るまでは、客を取らなくていい」
「そんな、私なら大丈夫です。働けます……!」
見た目が悪いとか、傷が可哀想だというのなら、それはお門違いだ。
働かなければ、明日の食事はおろか、服も寝床も失うかもしれない。実質的なクビ宣言もあり得ると聞いていたからこそ、休めという言葉は、私にとって地獄の宣告に等しかった。
「いーや。あんたの分は、もう貰ってるんだ。嫌でも休んでもらうよ」
「えっ……?」
「朝一番に、あの軍人さんが払っていったのさ。怪我をさせた分だって、一か月分もね」
「一か月分……」
思わず包帯の巻かれた腕を見る。
たしかに傷は痛むけれど、一か月も療養が必要なほどではない。
「でも、こんな傷でそこまでしてもらうわけには……。お金を返した方がいいんじゃないですか?」
楼主は面倒そうにため息を吐き、煙管をくわえた。
「うちは一夜の夢を売る狐屋さ。一度受け取った金は、びた一文返さないよ。商人とも客とも、そういう約束でやってるんだからね」
ぷかぷかと煙を吐き出しながら、今度はキャッキャと嬉しそうに声を上げて笑う。
甘いバニラのような匂いが、部屋へ広がる。何度嗅いでも、私はこの匂いが苦手だった。
楼主は煙を吸い終えると、竹製の灰落としへ煙管の雁首を打ちつけ、古い灰を落とす。
「それに、一か月後にはまた来るそうだよ」
「ライガさんが?」
「ああ。だからあんたは、金を返す方法より、あの上客の機嫌を損ねずに済むやり方でも考えな」
楼主は新しい葉を詰めながら、さっさと出ていけとでも言うように手を振った。
結局、楼主の説得には失敗し、私は早々に寮へ帰されることになった。休めと言われても、胸の奥は落ち着かない。
片腕の痛みよりも、何度も「すまない」と繰り返していたライガさんの声の方が、まだ鮮明に耳の奥へ残っている。
それでも、しばらくは誰の肌にも触れなくていいのだと考えた瞬間、身体から力が抜けた。安堵した自分を、情けないと思う。
けれど、一か月後にまた来るというライガさんのことだけは、不思議と怖くなかった。
むしろ次こそは、あの人を穏やかに眠らせてあげたい。そう思っている自分の方が、今はずっと不思議だった。
*
休めと言われて三日目、私は早くも時間の潰し方がわからなくなっていた。
寮の部屋は昼間でも薄暗い。いつもなら聞こえる湯屋のざわめきが遠いだけで、時計もない部屋の時間が、ひどくゆっくり流れているように感じられる。
働かなくていいのだから、もっと喜べばいい。それなのに何もせずベッドへ腰かけていると、自分だけが店から取り残されたようで落ち着かなかった。
包帯の上から左腕を撫でていると、扉が三度、軽快に叩かれた。
「百合ちゃーん、ミアだよ。入るね〜」
返事をするより先に、扉が開く。
金色の髪を頭の高い位置で二つに結んだミアが、隙間からひょいと顔を覗かせた。背後で気まぐれに揺れる尻尾からは、上機嫌なのか、ただ退屈しているのか判別できない。
「聞いたよ。隊長さんに、ザクッとやられたんだって?」
「……やられた、って言い方はやめて」
「だって、間違ってないでしょ?」
悪びれもせず笑いながら、ミアはベッドの端へ腰を下ろした。
「怪我人はちゃんと休ませろって、あのババアがうるさくてさ。一か月分も前払いしてもらったんでしょ? 羨ましいなあ」
私の腕を取り、包帯の隙間から傷を覗き込もうとする。腕を引くと、ミアは不満そうに唇を尖らせた。
「何もできなかったのに、一か月分なんて受け取れないよ。やっぱり、返した方がいいんじゃないかな」
「出た。百合ちゃんの『申し訳ない』」
ミアは呆れたように肩を落とし、ふっくらとした手で自分の尻尾を弄り始める。
「それ、損する人が言うやつだよ。向こうが払うって決めたんだから、貰っておけばいいの」
「でも……」
「それに、本当に何もできなかったの?」
急に身を乗り出したミアの瞳が、面白そうに細められる。
「何って?」
「あの狼さんにだよ」
「眠らせてあげるつもりだったけど、うまくいかなかった。少し眠りかけたところで、私が驚かせちゃったから」
包帯の下で、傷がわずかに疼いた。
ライガさんが悪いわけではない。そう思う一方で、あの瞬間に向けられた金色の瞳を思い出すと、身体はまだ強張ってしまう。
「なるほどねえ。眠りかけるところまではいったんだ」
ミアは一人で納得したように頷いた。
「それなら、一か月後にも来るっていうのは、ただの罪滅ぼしだけじゃないかも」
「どういう意味?」
「だって、本当に顔も見たくないくらい後悔してるなら、お金だけ払って、もう来なければいいでしょ?」
言われてみれば、そうかもしれない。
怪我をさせた相手の前へ、もう一度自分から現れる。ライガさんにとって、それは決して簡単なことではないように思えた。
「前線帰りのお客を取ったことがあるけど、ああいう人たちは、眠れそうになった場所をよく覚えてるんだよ」
「眠れそうになった場所……」
「戦ってる間は、音がする方が安心するんだって。静かになった途端、見たくないものまで見えちゃうから」
ミアは窓へ目を向け、小さくあくびをした。
静けさの中でこそ、聞きたくない音や、思い出したくないことが蘇る。その感覚なら、私も少しだけ知っていた。
あの時、ライガさんは私のそばで眠りかけていた。
もしも本当に、ほんの少しでも気を緩められていたのだとしたら。
「百合ちゃん、今度会ったら聞いてみれば?」
ミアはベッドから立ち上がると、扉の前で振り返った。
「『あれから、眠れましたか』って」
「そんなことを聞いて、どうするの?」
「その時の顔を見れば、またここへ来る理由が少しはわかるんじゃない?」
意味ありげに笑い、ミアは今度こそ部屋を出ていった。扉が閉まると、薄暗い部屋へ静けさが戻ってくる。
一か月後に会ったら、本当に聞いてみよう。そう決めた途端、次に会う日が少しだけ待ち遠しくなったことには、気づかないふりをした。
ライガさんは今夜も、眠れずにいるのだろうか。客が店を出たあとの夜を想像したのは、これが初めてだった。
*
私が寮でおとなしくしているあいだも、湯屋はいつも通りに回っているらしい。
休み始めて十日ほど経った昼下がり、食事を終えて部屋へ戻ろうとしていると、廊下の向こうからミアが歩いてきた。
「あ、百合ちゃん。傷はどう?」
「だいぶよくなったよ。もう腕を上げても痛くないの」
「ふうん。じゃあ、そろそろ戻ってくるの?」
尋ねながら、ミアは私の隣へ並んだ。いつもなら気まぐれに揺れている尻尾が、今日は妙にゆっくりと左右へ動いている。
「楼主が許してくれれば。忙しい?」
「それなり。でも、百合ちゃんがいないおかげで、いいお客さんも回ってくるしね」
含みのある言い方に顔を向けると、ミアは待っていたように唇を吊り上げた。
「あの狼の隊長さん、二日に一度は来てるよ」
胸の奥が跳ねた。
「ライガさんが?」
「湯に浸かって、毛を洗って、乾かしたら帰る。……ずいぶん高くつく入浴だよねえ」
ミアはふっくらとした指先で、金色の髪をくるくると弄んでいる。
聞きたいことが喉元まで出かかったけれど、口にすれば何を期待しているのかまで見透かされそうだった。
「……ミアが、ついているの?」
「そうだよ」
あっさりと返され、胸の内側が少しだけ沈んだ。
私がいないのだから、ほかの誰かがつくのは当然だ。ライガさんは湯屋の客で、私はここで働く大勢のうちの一人にすぎない。
それなのに、濡れたシルバーグレイの毛へミアが触れているところを想像すると、落ち着かない。
「隊長さんって、見た目は怖いけど、かなりの上客だよね。一か月分も前払いしてくれるし、余計なこともしないし」
ミアの尻尾が、私の足首を撫でるように揺れた。
「百合ちゃんがいつまでも戻らないなら、私が貰っちゃおうかな」
「……ライガさんは、物じゃないよ」
「知ってるよ。だから本人に選んでもらうの」
咄嗟に出た声が、思ったより強かった。
ミアは一瞬だけ目を丸くしたあと、面白そうに私の顔を覗き込んでくる。
「なあに、その顔。嫌なの?」
「嫌っていうか……」
「別にいいでしょ。百合ちゃんだって、この月が終わったら他のお客さんにもつくんだから」
言い返せなかった。
ここへ戻れば、私はまたライガさん以外の客にも触れる。自分はそうするのに、ライガさんがミアと過ごすことだけ嫌だと思うのは、あまりにも勝手だった。
俯いた私をしばらく眺めてから、ミアが小さく息を吐いた。
「でもまあ、無理そうだけどね」
「え?」
「あの人、百合ちゃんのことしか聞かないから」
思わず顔を上げると、ミアはつまらなそうに頬を膨らませた。
「傷は塞がったのか、熱は出ていないか、ちゃんと食べてるか。毎回、同じことばっかり。私が目の前で身体を洗ってあげてるのに、失礼しちゃうよね」
「そんなに……?」
「会いたいなら寮まで行けばって言ったんだけど、それはできないんだってさ。自分が怖がらせた相手のところへ、勝手に押しかけるわけにはいかないって」
ライガさんらしいと思った。
私を傷つけたことを、あの人はまだ気にしている。私が怖がっていると決めつけて、会いに来ることさえ自分へ禁じているのだ。
心配してくれていると分かって、嬉しかった。
それなのに、その嬉しさのすぐ隣で、別の気持ちが小さく膨らんでいく。
「……ミアには、会いに来るのに」
唇から零れた声に、自分で驚いた。
「え?」
「ううん。なんでもない」
慌てて首を振ったけれど、ミアは聞き逃してくれなかった。
金色の瞳を細め、少しだけ意地悪そうに笑う。
「それ、次に会った時、本人に言えば?」
「言えるわけないよ」
「じゃあ早く治して戻ってきなよ。私だって、いつまでも百合ちゃんの代わりをしてあげるほど優しくないんだから」
ミアは私の肩を軽く叩くと、尻尾を翻して歩いていった。
ひとり残された廊下で、包帯の上から傷へ触れる。ライガさんは、私に会いたいと思ってくれている。傷を、気にしてくれている。
そのことに安堵している自分も、ミアではなく私へ会いに来てほしいと思ってしまった自分も、今までの私にはひどく不似合いな気がした。
*
ライガさんがミアの元へ通っていると聞かされた日から、一週間ほど経った頃。私は勘定をしていた楼主の元へ呼び出された。
「左腕、上げてごらん。どこか痛むかい?」
「これくらいなら、もう平気です」
腕をゆっくり上げて見せると、楼主はじろりと傷口を確かめてから頷いた。
「ん。……“仕事”は駄目だが、“顔を出す”くらいは許してもいい頃合いだね」
「顔を、出す……?」
「狼の隊長さん、今日も来てるよ。離れで一人、湯に浸かってる。怪我をさせたお前の様子が知りたいんだとさ。――お前が嫌じゃなければ、顔を出してやるといい」
嬉しい、と言いかけて、慌てて口をつぐむ。
楼主はすべて見透かしたように目を細めた。
「ただし、左腕はあんまり使うんじゃないよ。お前は変に真面目だからね」
背中を軽く押され、私は離れへ続く廊下を歩き出した。
扉の向こうには、きっとあの金の瞳がいる。そう思った途端、足は勝手に速度を上げていた。
心臓の鼓動が、嫌でも速くなる。
私は扉の前で小さく息を整えてから、静かに拳を当てた。
「百合です。入ってもいいですか」
しばしの沈黙のあと、低い声が返ってきた。
「……ああ」
扉を開けると、白い湯気の向こうで狼の耳が動いた。
振り向いた金の瞳は、あの夜よりも少しだけ穏やかに見える。けれど、その目の下にはまだ濃い隈が残っていた。
「その……腕は」
「大したことありません。ほら、もうこのくらいは動きますから」
左腕をゆっくり持ち上げて見せると、彼はほんの少し眉を寄せた。
「無理をするな」
「本当に、これくらいなら平気です」
念を押すように笑ってみせたものの、彼の表情は晴れなかった。
「……本来なら、もうここには来るべきじゃないのかもしれない」
「どうしてですか」
「あんたを怪我させたのは俺だ。それでも、ここに来ないと……いや」
言い淀んだ彼の耳が、わずかに伏せられる。
「お前がいないと、眠れなくて」
真っ直ぐな言葉に、喉がきゅっと締めつけられた。
「よく、眠れましたか」
ミアに言われたことを思い出しながら、そっと尋ねる。
彼は答えにくそうに視線を逸らした。
「……まあ、前よりは」
「それは、ここに来た夜だけ?」
「そうだ」
短い返事はあまりにも正直で、どこか子どものようだった。
「それなら、明日も来てください」
気づいたときには、もう口に出していた。
自分でも驚いたけれど、一度零れた言葉を取り消したくはなかった。
「仕事はまだできませんけど、毛を解いて、話を聞くくらいならできますから」
彼はしばらく黙って私を見つめていた。
やがて、張りつめていたものを緩めるように、小さく息を吐く。
「……抱きしめても、いいか」
唐突な言葉に、胸がどくんと鳴った。
あの夜の金色の瞳と、左腕に走った痛みが一瞬だけ蘇る。それでも、不思議と怖いとは思わなかった。
「左腕は駄目ですけど。右側なら、どうぞ」
冗談めかして答えると、彼の耳がわずかに揺れた。
ライガさんは湯から上がり、身体の水気を拭ってから寝台の端へ腰を下ろした。私もその右隣へ座る。
彼は確かめるようにゆっくりと手を伸ばし、遠慮がちに私の肩を抱き寄せた。
少し伸びた前髪が、頬にかかる。
厚い胸板へ耳を寄せると、私に負けないくらい速い鼓動が伝わってきた。
この人も緊張しているのだ。
そう気づくと、抱かれている身体から少しずつ力が抜けていった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
頭上で息を吸う音がしたあと、彼がぽつりと呟く。
「静けさが、怖いんだ」
小さく奥歯を噛んだような音がした。
「音が消えると、思い出す。部下の顔も、最後に聞いた声も。……助けられなかった奴らのことばかり」
私の肩に触れている指先が、わずかに震える。
「忘れたいんだがな。目を閉じると、あいつらがまた、死ぬ気がして」
その言葉はあまりにも重く、私の胸まで一緒に押さえつけられたようだった。
「……うちの祖母が言っていました」
そう口にすると、古い団地の一室で、こたつに入りながら笑っていた祖母の姿が浮かんだ。
「亡くなった人のことを思い出すたび、その人の背中には羽が生えるんだって。思い出してくれる人がいるあいだは、その羽でちゃんと前へ進んでいけるんだよ、って」
ライガさんは何も言わなかった。
「だから私は、ときどき祖母や、看護師だった頃の患者さんたちのことを思い出すんです。勝手な慰めかもしれませんけど、そうやって“いってらっしゃい”と背中を押しているつもりで」
私を抱く腕の力が、ほんの少しだけ強くなった。
「……そんな話、信じるのか」
「ふふっ。そうですね。都合よく信じたいだけかもしれません。でも私は、それで何度も励まされたので」
彼は、しばらく何も言わなかった。
けれど、二人のあいだに落ちた静けさは、さっきよりも少しだけ柔らかく感じられた。
「……そうだったら、いいよな」
かすれた声で、彼が呟く。
胸板へ当てた頬越しに、先ほどよりもゆっくりとした鼓動が伝わってきた。
私は右手を上げ、彼の耳の後ろをそっと撫でる。毛並みの下にある温もりが、指先へじんわりと移った。
「大丈夫ですよ。あなたが思い出すたび、きっとあの人たちは、その羽でもう一度前へ進めます」
私がそう言うと、彼は鼻先で小さく笑った。
やがて、肩越しに聞こえる息が、少しずつ深く、穏やかになっていく。
眠りに落ちる人の呼吸だと、すぐに分かった。
この夜、彼は初めて、私を抱きしめたまま眠った。
この人がいつか、静けさを怖くないと思える日は来るのだろうか。
そんなことを考えながら、私も知らないうちに目を閉じていた。
*
それからの三週間、狼の隊長――ライガさんは、そのまま二日に一度の頻度で通ってきた。
最初の数回は、私の様子を見るだけだと言って、湯に浸かるだけで帰っていった。湯から上がれば自分でタオルを使い、ドライヤーにも触らせてくれないほど、彼は真面目だった。
戦争の話はあまりしない。代わりに話すのは、街の様子や軍の食事、年下の部下たちがかわいいということ。その程度の、どうでもいい話だった。
けれど、そんな他愛のない話をしているときのライガさんは、少しだけ表情がやわらかくなる。耳も目元も心なしか下がり、金色の瞳から鋭さが薄れた。
「隊長さんってことは、やっぱりお強いんですよね」
ある夜、ぽろりとそう尋ねた。
前線で多くの部下を率いていた人。みんなから頼られる人なのだから、当然、強くなければ務まらない。ずっと気になっていたけれど、ライガさんは少し眉を顰め、伏せていた頭をもたげた。
「……自分だけが強くても意味はない。すべての仲間を助けようと思っても、腕は二本しかない。掴めるものも、引き上げられるものも、たかが知れてる」
ぽつりと話す声に、水滴の落ちる音が重なる。
「それでも、助けようとしたんですよね」
そう言うと、彼は目を伏せた。長いまつげの影に隠れた瞳から、感情を読み取ることはできない。
「……助けられなかったことばかりだ」
「それでも、覚えているんですね」
「……ああ」
返事は、それだけで十分だった。
忘れられないほど、彼は一人ひとりを見ていたのだろう。
その夜、私たちは寝台で朝まで寄り添っていた。まだ本調子ではない私の左腕を、ライガさんは最後まで気遣ってくれた。
いつものように耳の後ろを撫でていると、やがて彼の呼吸が深くなる。
「……眠っても、いいんだろうか」
「ええ。ここは戦場じゃありませんから」
そう返すと、彼は微かに笑った。
眠りに落ちる直前、腰に回されていた腕がわずかに強まる。
「……明後日も、来る」
半分眠った声に、胸の奥がくすぐったくなった。
「はい。待っています」
仕事だから言っただけのはずなのに、その夜はなかなか眠れなかった。
*
残りが一週間ほどになった頃、ライガさんがいつものように部屋へ入ってきた。
姿勢はいつも通りすっと伸びていたけれど、ふさふさの尻尾だけが、なんだか落ち着かない。
「今日は、少し早いですね」
何かいいことでもあったのだろうか。
そう思って見つめていると、ライガさんはポケットから小さな木箱を取り出した。
差し出された箱には、綺麗なリボンがかけられている。彼の手のひらに収まるほどの、淡い色の箱だった。
蓋を開けると、白いリボンをあしらったバレッタが入っていた。
春の雲を掴まえて結んだような、光を受けてふんわりと透ける白いリボンが、箱の中央にちょこんと座っている。
「似合いそうだったから。その……深い意味はない」
そう言いながら、彼の耳は上がったり下がったりしていた。
「ありがとうございます。とっても素敵です」
黒髪の上に、この白いリボンが乗るところを想像してみる。胸の奥があたたかくて、くすぐったい。
けれど、その場で髪につけることはできなかった。
ライガさんに見せるためにつけたのだと思われたら、今までと同じ顔ではいられない気がしたから。
その夜は箱のまま持ち帰り、棚の中央へ大切に飾った。
次に会うときには、つけていこうか。似合うと言ってくれるだろうか。そう考えただけで恥ずかしくなり、私は慌てて箱へ背を向けた。
*
翌朝、部屋へ遊びにきたミアは、一瞬でそのリボンに食いついた。
「百合ちゃん、その箱……なぁに?」
「えっ、あ……その、お客様からいただいて」
「ふぅ〜ん」
ミアはするりと箱へ手を伸ばして、中身を確認する。白いリボンを指先で持ち上げた瞬間、夕陽色の瞳がキュッと細くなった。
「あらあらぁ。お熱いですねぇ〜、お二人とも!」
「な、何言ってるの、ミアちゃん?」
「え……百合ちゃん、もしかして、この国で女に髪飾りを贈る意味、知らない?」
嫌な予感がする。
まさかと思いながら、必死に首を振る。
「それ、求婚に使うものだよ。隊長さんは、意味を知ってて渡したとしか思えない」
耳元で、心臓がドクンと跳ねる音がする。
「で、でも、あの人は『深い意味はない』って……」
「さあ? それは本人に聞きなよ。意味を知ってて渡したなら、とんでもなく深いけどねぇ」
「深い意味……」
ミアは楽しそうに笑って、リボンを私の頭に乗せた。
「艶々の黒髪に白リボン、映えるねぇ。ほら、百合ちゃんも見てみなよ」
肩を掴んだミアは、半ば強引に卓上の鏡の方へ私を誘導する。恐る恐る鏡を覗くと、リボンは朝日に照らされて、きらきらと輝いていた。バレッタを載せただけなのに、いつものポニーテールは誰かのために整えた髪のように見える。
「どうかな。変じゃ、ない?」
「まっさか〜! むしろこんなに愛されてるのに、つけて行かない方が罪。隊長さん、つけてくれなくてがっかりしてたでしょ」
ふんふんと楽しそうに鼻歌を歌うミアを横目に、私は慌ててリボンを外して箱へしまう。
蓋を閉じても、ミアが帰っても、一度見つけてしまった胸のざわめきは消えなかった。
翌日も、その次にライガさんが来た日も、ミアに言われた言葉が頭から離れず、リボンをつける勇気は湧いてこなかった。ライガさんに会うたびに箱を思い出してしまって、どこかぎこちなくなってしまう。
私たちは、あくまでも仕事とお客様の関係。
そう言い聞かせて距離を取ろうとしているのに、彼の腕の中で過ごす時間は、前よりもずっと温かいものになっていたから。
*
ライガさんから受け取った一ヶ月分の前払いも、残り二日となった。
朝、楼主に呼ばれて帳場へ行くと、机の上には見覚えのある予約表が置かれていた。一ヶ月前まで、毎日のように私の名前が並んでいた紙だ。
「傷もすっかり塞がったね。明後日から客を取ってもらうよ」
分かっていたことだった。それなのに、喉の奥がひどく狭くなる。
「……ライガさんの前払いは、明日までですか」
「そうだね。ずいぶん気前のいい休業補償だったけど、いつまでも寝かせておくわけにはいかない。あんたを初めて味わえるかもしれないって、待ってる客はいくらでもいるんだから」
楼主の爪が、予約表のいちばん上を叩く。そこには知らない男の名前と、熊族という文字が記されていた。
「嫌なら、今度こそきちんと眠らせることだね」
冗談めかした言葉に笑えなかった。
今までだって、客を取る夜は怖かった。けれど、どうせ眠ってくれると知っていたから、私はその不安を見ないふりができた。
今は違う。
ライガさんに抱きしめられた温度を知ってしまった。あの腕の中で名前を呼ばれるたび、触れられるならこの人がいいと思う自分がいた。
それでも、彼は客で、私は店の商品だ。前払いが終われば、私たちを結ぶ理由もなくなる。
誰かの都合でここへ連れてこられて、与えられた仕事をしてきた。せめてこの先だけは自分で選びたいと願ったのに、選べるものなんて初めから何もなかったのかもしれない。
部屋へ戻ると、机の真ん中に置いた木箱が目に入った。
白いリボンへ指を伸ばしかけて、やめる。求婚にも使われる贈り物をつけて、明日で終わる人に何を期待するつもりなのだろう。
箱の蓋を閉じると、薄暗い部屋がいつもより静かに感じた。
*
一ヶ月の休業、最後の夜。
朝から落ち着かなくて、掃除も洗濯もまったく集中できない。楼主が「今日は特に上機嫌で送り出しな」と笑うのを、上の空で聞き流す。
机の真ん中に鎮座したリボンは、静かにこちらを見ているようだった。
両手でそっと持ち上げる。
細かい金糸の縫い込まれたレースの部分は透かしになっていて、何度見ても心を奪われる。バレッタの金具もきちんとした作りで、安物でないことくらいは私にでも分かった。
「……今日なら、許されるよね」
鏡の前に座り、あえてリボンが目立つハーフアップにまとめる。黒い髪の上で、白色が小さく揺れた。
扉を開けて離れへ入ると、ライガさんはぼんやりと寝台の端に腰掛けていた。扉の音に気づいてこちらを振り向いた途端、金色の瞳が見開かれる。
一拍遅れて、大きな耳がピンと立った。
「……その髪は」
「この前いただいたっきり、つけられていなかったので……」
『大事な贈り物なのに、つけているところを見られないなんて可哀想だ』とミアが言っていたし――と心の中で言い訳しながら、リボンをつけた髪を見せる。
緊張で喉がひりつく。そのまま黙っているのは申し訳なくて、素直に白状しようと決めた。
「実は、その。贈り物の意味……聞いちゃって」
彼に伝えてしまえば、もう引き返せない。
「髪飾りは求婚に使うもの、なんですよね?」
ライガさんは、しばらく何も言わなかった。鼓動を持て余したまま彼の方を振り向くと、ライガさんの視線が揺れて、ゆっくりと頷いた。
「ああ。……本当は、そのつもりで渡した」
予想していた答えなのに、胸の奥が一気に熱くなる。
「最初は、噂が本当ならただ眠ればいいと思っていた。戦の匂いのしない場所で、少しでも楽になれるならと」
彼は立ち上がり、私の目の前へ歩いてくる。近くで見ると、シルバーグレイのまつ毛は水滴をまとって、きらきらと輝いている。
「いつの間にか、眠ることより――お前に会うことを先に考えるようになっていた。お前の声を聞いて、心臓の音を聞いて。おやすみなさいと声をかけてくれるお前がいて初めて、気持ちが落ち着く」
言葉の一つひとつが、胸に沁みていく。それなのに、明後日の予約表が頭から離れてくれなかった。
「……私も、です」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「最初は、ただの仕事だと思っていました。難しいことを頼まれたら、断るつもりでした。でも、あなたが来る日を待つようになってからは、違うんだって気づいたんです」
喉の奥が重くて熱い。言葉を発するのがこんなにも苦しい日が来るなんて、想像もしていなかった。それでも、ちゃんと言葉にして伝えたかった。
「怪我をしてから……こんな仕事をしているのに、他の人に触れなくていいんだって喜ぶ私がいて。会えない日は、早く会いたいって思いました」
そこまで言うと、胸の奥に押し込めていた不安まで溢れそうになった。リボンの端を握り、どうにか声を絞り出す。
「でも、私はお風呂屋さんだから……明後日からは、また別のお客様を取ります」
ライガさんの耳が、ぴたりと止まった。
「……何?」
「一ヶ月分の前払いは、今夜で終わりますから。傷も治りましたし、私はこの店の――」
「言うな」
商品ですから、と続けるより先に、ライガさんが私の手を掴んだ。
痛いほどではない。それでも、私を失うことへの恐怖が、震える指から伝わってくる。
「……他の男に、同じことをするのか」
低い声に、背中が震えた。
「それが、仕事ですから」
「抱かれるのも?」
答えられなかった。
今までの客は、誰も最後まで起きていられなかった。けれど、次の客も必ず眠る保証なんてない。いつか誰かが、ライガさんのように眠らないかもしれない。
掴まれた手から伝わる震えが、さらに強くなる。金色の瞳に浮かんでいたのは、怒りよりも恐怖に近かった。
「嫌だ」
たった一言が、胸を強く打った。
「他の男に触れさせたくない。お前が誰かの腕の中で、俺にしたように笑うのも、眠るまで名前を呼ぶのも――全部、嫌だ」
こんなにもまっすぐに欲しがられたことはなかった。嬉しいと思うより先に、目の奥が熱くなる。
「それなら……どうしたらいいんですか」
責めたいわけではなかった。ただ、私には選べる道が見えなかった。
ライガさんは私の手を放すと、その場で片膝をついた。大きな身体が目の前で低くなり、金の瞳がまっすぐ私を見上げる。
「明日の朝、店主と話す。お前をここから出すために必要な金も、条件も、俺が用意する」
「それは……私を、身請けするということですか」
「制度の上では、そうなる」
ライガさんは一度目を伏せ、それから覚悟を決めたように私の手を取った。
「だが、お前を買って、ただ所有したいわけじゃない。ここから連れ出して、外の世界を見せてやりたい。お前が行きたい場所を、自分で選べるようにしたい」
大きな手のひらが、答えを急かすことなく差し出される。
「できるなら――俺と一緒に」
ライガさんの視線が、私の髪に揺れる白いリボンへ向けられた。
「店を出たあとも、俺のそばにいてほしい。俺と結婚してくれないか」
ずっと、誰かの都合で振り回されるのは嫌だと思っていた。
ここへ来たことも、この仕事も、何ひとつ自分では決められなかった。だから、誰かに手を引かれることまで、支配されることなのだと思っていた。
けれど、この手を取るかどうかは、私が決めていい。
差し出された手の向こうに、まだ見たことのない街がある。ライガさんが守ってきた場所も、時々その服から香るパンの店も、私の知らない朝もある。
私は白いリボンを揺らしながら、彼の手を取った。
「はい。私も、あなたと一緒に生きていきたいです」
彼の指が、確かめるように私の指の間へ入る。
「だから――私を、ここから連れていってください。あなたと一緒に、外の世界を見たいです」
その瞬間、ライガさんは息を詰めた。次いで、立ち上がった大きな身体に包まれる。抱きしめる腕は強いのに、触れ方はひどく慎重だった。
「……百合」
名前を呼ばれるだけで、全身が痺れるような甘さに囚われる。
私も腕を回し、彼の背中を抱きしめた。戦場で緊張にさらされてきた背中は、不思議と温かかった。
「これからも――おやすみなさいって、言わせてください」
「ああ。できれば、毎晩」
耳元に落ちた声が甘くて、泣きながら笑った。
*
翌朝、ライガさんは本当に楼主の前へ身請け金を積んだ。
楼主は煙管をくわえたまま、金貨の山と私たちの顔を交互に見比べる。
「あんた……一ヶ月分の休業補償の次はこれかい。軍人ってのは本当に、金の使い方を知らないねぇ」
「足りないなら、残りも払う」
「……十分すぎるよ」
呆れた声とは裏腹に、楼主の尻尾は機嫌よく揺れていた。
契約書へ私自身が名前を書き、最後に印を押す。紙の上へ残った赤い印を見た瞬間、胸に詰まっていた息がやっと抜けていった。
「百合」
振り向くと、店の戸口でライガさんが手を差し出していた。
初めて店の外へ踏み出した朝は、思っていたよりも眩しかった。石畳を行き交う獣人たちの声や荷車の車輪が転がる音が、焼きたてのパンの匂いとともに押し寄せてくる。鳥籠のような荷車から眺めたときとは、何もかもが違って見えた。
「まず、どこへ行きたい」
「えっと……パン屋さんです!」
迷わず答えると、ライガさんが小さく笑った。
「やっぱり、あなたから時々パンの匂いがしてたんです。ずっと気になってて」
「軍部の購買のものだろうな。案内する」
「購買なんてあるんですね。いいなぁ」
繋いだ手は離れない。それでも、引かれているとは思わなかった。
どちらへ進むかを決めるたび、ライガさんは一度こちらを見る。私が頷いてから、二人で歩き出す。
自分で選んだ道を、好きな人と歩く。
それだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
*
その晩、ライガさんの家で、私は初めて男の人と二人きりの夜を迎えた。
寝室は驚くほど簡素で、広い寝台と小さな机しかない。窓の外から虫の声が聞こえるたび、静かな部屋の中で二人分の呼吸が重なった。
「無理をしなくていい」
寝台の前で、ライガさんは私に触れようとしなかった。
「今日は疲れただろう。眠るだけでも――」
「嫌です」
思っていたよりも強い声が出て、自分でも驚いた。
ライガさんの耳がぴんと立つ。私は震える指で、ドレスの帯へ手をかけた。
「店では、誰の前でも最後まで脱がずに済みました。みんな、私が触れると眠ってしまったから」
帯の結び目を解くと、衣擦れの音がやけに大きく響く。
「怖くなかったと言ったら、嘘になります。でも、この人になら触れられてもいいって思ったのは、ライガさんが初めてです」
緩んだ襟元へ、夜の空気が入り込む。金色の瞳が揺れたけれど、彼はまだ私の許しを待っていた。
「だから今夜は、眠らせるためじゃなくて――あなたに触れたい」
差し出した手を、ライガさんが取る。その手のひらを自分の頬へ導くと、硬い指先が壊れものに触れるように肌を撫でた。
「……本当に、いいのか」
「はい。私のこれからは全部、ライガさんと覚えていきたいんです」
頬を撫でる手に自分の手を重ね、そのまま彼の胸へ身体を寄せる。初めて自分から触れたいと思った人の唇は、想像していたよりもずっと優しかった。
この世界に来て初めて、私は男の人の前で自ら帯を解いた。
眠らせるためではなく、好きな人と触れ合うために。
何度も名前を呼び合った初めての夜、私たちが眠りについたのは、太陽が昇ってからだった。
fin.
ここまでお読みいただきありがとうございました!
簡単な感想や☆をいただけると次作の励みになります。
よろしくお願いします( *´꒳`* )




