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02

 そういえば――あと一週間。

 母が死ぬまで、残された本当に短い時間だった。


 病死ということになっていたし、十歳の私にできることなんて、ほとんどない。

 けれど、何もできないまま見送るなんて、そんなの、あんまりだと思った。


 どうにかして、ほんの少しでも、母に「ふつうの時間」をあげられないだろうか。

 そう考えていたら、あっという間に、その日は明日に迫っていた。




「お母さん……明日、保護者面談があるって、先生に言われた」


 私は、生まれて初めて母に嘘をついた。


「えっ? 突然言われてもね……ちょっと待ってて」


 母は少し驚いたように笑って、電話をかけ始めた。

 誰かに仕事の調整を頼んでいるみたいだった。


「うん、わかったわよ。で、何時にどこなの?」


 私は、少し迷って「午後の三時」と答えた。

 ――その時間、私は学校にいて、帰宅したら母はもう冷たくなっていた。

 そんな記憶が、前の人生にあった。


 たぶん、今さら母の病気がどうこうなるわけじゃない。

 それでも、二十八歳の記憶を持つ子どもの私が、必死にひねり出した精一杯の嘘だった。


「ママ、おやすみ」

「おやすみ、いづつ……ママ、明日なに着ていこうかな?」


 そんな何気ない会話が、泣きたいくらい嬉しかった。


 その夜、私は枕に顔を埋めて泣わんわんいた。

 布団の中で声を殺して。

 まだ暑さが残る、夏の夜だった。


「いってきます!」


 私はできるだけ明るく言った。

 ふつうがわからない。けれど、ふつうに努めた。


「お弁当持った? 三時に校門ね――」


 きっと、それが最後の言葉だった。


 お弁当の重さが、やけに胸に沁みた。

 この一週間、忘れていたふつうの日常が、確かにそこにあった。




 ――午後三時。


 母は、校門の前にいた。


 生きている。

 まだ、大丈夫なんだ。


 私は駆け寄って、母に抱きついた。

 涙が勝手にあふれた。


「どうしたの?」

「ううん」

「で、どこに行けばいいの?」


 少しの沈黙のあと、私は正直に謝った。


「変な子ね……」


 母はそれ以上、何も言わず、手をつないでくれた。

 日差しがまだ強く、湿気を含んだ風が頬を撫でた。




 ――翌日。


 母は、まだ生きていた。


 えっ? 病気、じゃなかったの?

 戸惑う私をよそに、日常は、何事もなかったように続いた。


 けれど昨夜、父と母が少し言い争いをしていた。

 私のことが原因だった。

 二人が「少し生活を見直そう」って話していたのが、開いた扉の向こうから聞こえた。


 私は朝早く家を出て、図書室へ向かった。

 あの本のページが、また一枚、白くなっていた。


 運命が、少しだけずれた。

 そんな気がした。

 でも、それが良いことなのか、悪いことなのかは、まだわからない。


 窓から射し込む光が、白くなったページを照らしていた。

 私は、そっとそのページを閉じた。


 そして、またふつうを演じるために、教室へと歩き出した。


 母は今日も生きている。

 それだけで、世界が少し優しく見えた。

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