プロローグ
図書館に行けばよかった。
勉強って、意外と面白いじゃん。そう気づいたのは、二十代半ばを過ぎてから。
あの頃の私は、勉強よりも稼ぐことが大事だった。
母が亡くなったのは、梅雨が明ける少し前。心不全だった。
朝、いつものように「いってきます」と声をかけたのに、帰ったときにはもう冷たくなっていた。
それから、家の中は夏なのに冷蔵庫みたいに冷たくなった。
父は酒に逃げ、弟はゲームに逃げ、私は――街に逃げた。
最初は、ただ夜の街の光に惹かれただけだった。
ネオンの下で笑う人たちが、自由に見えた。
でも気づけば、私は路地裏の常連になっていた。
十八のとき、ホストに騙された。
「夢を応援するよ」って言葉を信じて、借金まみれになった。
風俗、闇金、転落。裏社会に巻き込まれ、使い捨ての人生になっていた。
それでも、私は「ふつう」になりたかった。
学校へ通って、就職して、推しのライブに行って、休日にカフェで読書して――。
そんなどこにでもある普通の日々が、ずっと欲しかった。
でも現実は違った。
働いても働いても抜け出せない。
助けを求めても「自己責任」で片付けられる。
社会を批判をする人たちは安全圏にいて、貧困やいじめを描く作家も裕福な家庭の出身だった。
そんな表面だけの共感に、すがっていた自分が情けなかった。
そして私は、ビルの屋上に立っていた。
風が吹いていた。遠くの街の景色が、やけにきれいだった。
「この国、詰んでるな」――最後に浮かんだのは、そんな投げやりな言葉。
我ながら、めんどくさい最期だ。
視界が白く染まった。
ああ、これが死ってやつか。意外と眩しいんだな――。
「いづつちゃん、まだいたの?」
……え?
ここ、図書室じゃん? しかも、小学校の。
木の匂い、ほこりっぽい空気、棚の隅にある百科事典。
目の前に、吉川先生が立っている。懐かしすぎて泣きそうになった。
「ほら、もう下校の時間だよ」
夢? 死後の世界? それともタイムリープ?
夢にしては妙にリアルで、むしろ心地よかった。
階段を降りて下駄箱で靴を取った瞬間、確信した。
――私、十歳になってる。しかも二十八歳の記憶を持ったまま。
学校が広く見えるのも、先生が優しく感じるのも、二十八歳の私の記憶のせい。
でも――この図書室、なんか喋ってる気がするんだけど。




