谷原ガスタンク爆発、炎上はしなかった。死者一人、赤ん坊一人
プロローグ:爆発する夜にて
──ガスの匂いがしたのは、たぶん数秒前だった。
矢谷田はそれに気づかないふりをして、いつものようにバッティングセンターの前で自販機の缶コーヒーを握っていた。もう夜中の一時を回っていて、照明はとっくに落ちている。営業は午後十時まで、いつもより少しだけ早く終わったらしい。建物の外壁にでかでかと貼られた「高校野球応援キャンペーン実施中!!」のポスターが、誰に向けるでもないやる気を夜風にさらしていた。
寒い。十二月の練馬はやけに乾いていて、鼻の奥が痛くなる。
「うーす……」
矢谷田は間抜けな声を漏らしながら缶コーヒーを口に運び、すぐにしかめっ面になる。自販機のホットのくせにぬるい。人生に似ている。熱くあれと願っても、実際にはぬるくて苦いだけ。何をやっても空振りばかりだ。
「……打席にも立ってねぇのに三振とか、意味わかんねぇんだよ」
つぶやいた自分の声が、虚しく暗がりに吸い込まれていく。深夜の街は妙に静かで、たまに聞こえるのは遠くの目白通りを走るトラックのエンジン音くらいだ。吐き出した白い息は、街灯に照らされて濁った。矢谷田は口の端を歪め、苦笑する。
思えばここ数年、というか、生まれてからずっと「なんかうまくいかない」ことの連続だった。真面目になる時に真面目になれず、ふざける時にふざけられない。人間関係は常にギクシャクし、努力は空回りし、周囲に置いていかれてばかり。
今は……一応、仕事帰りの身ではある。区役所の臨時清掃バイト。契約は時給制、交通費300円。誇れるような職場でもないし、職場で何かを誇った記憶もない。
「そもそも、なんで生きてんだっけ……?」
そう呟いた瞬間だった。
ボウッ、と低い音がしたと思ったら、坂を下った谷原交差点方面、ちょうどしまむらの看板が遠くに見えるあたりで、突如として赤い光が立ち上った。
目がくらむ。
遅れて、爆発音。
「……え?」
反射的に身体が後退する。耳に圧のかかった空気がぶつかってきて、世界がぐにゃりと歪んだ気がした。火の手が上がる様子はない。でも、何かが確かに爆ぜた。その予感は、地面を伝って彼の足元に届いてきた。
「なんだよ、爆発って……」
咄嗟にスマホを取り出し、カメラを構えるが、震える指でシャッターは押せない。まるで夢のようだ。いや、これが悪夢か。
住民の叫び声が聞こえる。車が慌ててUターンする。誰かが、「ガスタンクじゃねえの!?」と叫んだ。
矢谷田は、気づくと走っていた。
自分でも理由はわからなかった。消防士でも警官でもない。家族も友達もそこにはいない。ただ、走らなきゃいけない気がした。走らなきゃ、何かを取り返せない気がした。
爆発現場近くの歩道はすでに煙が充満しており、吐き出す息が妙に黒く見える。鼻につんとくる匂い。鉄と油と焦げの混じった、現実の匂いだ。
ふと、足元で何かがもぞもぞと動く感触があった。
「……え?」
視線を落とすと、赤ん坊だった。
真っ赤な毛布にくるまれて、小さな顔だけを出して眠っている。
「……は?」
矢谷田は、混乱した。
目の前には爆発のあった建物の一部と思しき崩れた構造物。煙が充満している。その中にぽつんと、一人の赤ん坊。周囲に大人はいない。地面に血痕もあった。さっきまで誰かが抱えていたのか、カゴごと吹き飛ばされたのか。
矢谷田は、思わず赤ん坊を抱き上げた。軽かった。笑えるくらい、軽かった。
「う、うわ……ちょ、お前、誰だよ……」
赤ん坊は何の反応も示さず、静かに、寝息を立てていた。無傷だ。なぜか知らないが、奇跡的に。
その時、誰かのシャッター音が鳴った。
警察が来る前に、報道陣が先に来た。
何か近くに居たらしい。
もう、どうでもなれ。
──次の日の朝。ニュースでは「赤ん坊を抱いて現場から立ち去る若い男」の映像が何度も繰り返された。顔はマスクとフードで見えなかったが、地元局が「これはヒーローの姿」と煽った。
SNSでは「高松の救世主」「赤ちゃんを守った肉壁」などという、笑えるタグが拡散されていた。
矢谷田のスマホは、その日からしばらく鳴り止まなかった。
第一幕:英雄になった男
練馬区高松、高松小学校裏手の坂道沿いにある昭和30年代築の木造アパート。その一室で矢谷田剛志は目を覚ました。
朝じゃない。夕方でもない。ましてや深夜でもない。窓の外はうっすらと明るいが、空に日はなく、オレンジ色の街灯がかすかに灯り始めている。
不定時。不定形。不定職。不定睡。四不男の朝は、いつもこんなふうに始まる。
ドアの向こうからチャイムの音がした。――ピンポン。
矢谷田は天井を見上げたまま、咄嗟に「居留守だな」と決めた。が、次の瞬間。
「矢谷田剛志さんですねー? ケーブルテレビ練馬、報道部の者ですが、ちょっとだけ、よろしいでしょうかー!」
甲高い、妙に明るい女の声が玄関先で響いた。その声は、まだ夢かと思うほど現実味に欠けていたが、ドアスコープに影が見える。しかも一人ではない。カメラとマイクを持った連中が三、四人はいるようだ。
「……え?」
全身を布団に包んだまま、矢谷田は呻く。
脳裏に、昨夜のことが断片的に蘇る。――ベスパ、爆発音、交差点、赤ん坊。
(いや、まさか)
「このたびのガスタンク爆発で赤ちゃんを救出された方ですよね? 近所の方の証言で、お名前が……」
どこの誰だ。チクったのは。
矢谷田は布団の中で、ひとまず『死んだフリ』に入った。が、インターホンの連打と玄関前での待機が延々と続くにつれ、彼は次第に『めんどくささ』よりも『不気味さ』の方が勝っていくのを感じた。
(……もう、あれだ。警察だ。なんか俺、死体遺棄とかそういうのにされてるかもしれない)
思考がどんどんネガティブに膨らむ。いつもの癖だ。
「ちょっとだけ、お話を――!」
ドンドン、と軽く玄関が叩かれる。
矢谷田はついに諦め、布団から這い出た。タオル地の短パンに油の染みたTシャツ。髪は寝癖で後頭部が跳ね、口の端にはカップ焼きそばの乾いたソースが付いていた。
「……なんスか?」
ドアを少しだけ開け、矢谷田は目を細めて尋ねた。すると、インタビュアーと思しき女性が目を輝かせて、テンション高く言った。
「こちら、高松一丁目のガスタンクで起きた爆発事件のヒーローですよね!? 赤ちゃんを救った……!」
ああ……と、矢谷田は目を伏せる。
(そうだ。確かに俺は、赤ん坊を抱えてた。けど――)
「えーっと、なんか……俺、たまたまそこにいて、そしたら、こう……その子がいて……あ、俺の子じゃないっすよ? ていうか……」
「では、現場に偶然居合わせて、咄嗟に赤ちゃんを――!」
「いや、だから、俺が助けたとかじゃなくて……あの、それ、誰かが……」
「すごいですねぇー! 命を賭けて赤ちゃんを!」
(聞いてねぇ)
――そこからの展開は、まるでどこかの既視感たっぷりなニュースショーのようだった。
数時間後、『練馬の英雄、ガスタンク爆発で赤ん坊を救出』というタイトルの特集がケーブルテレビ練馬で放送された。映像には寝癖を無理に整えた矢谷田の姿が映り、無愛想な受け答えが「口下手で無欲なヒーロー」として演出されていた。
その映像がSNSで拡散されたのが翌朝。
矢谷田のスマホには、LINEとSNSの通知が溢れていた。
「お前、見たぞ、テレビ」「英雄かよ(笑)」「今度奢れや」「あん時のヤツだろ?」
「子ども抱えて走ってたってマジ?」「あの子、お前の隠し子じゃね?」
――しんどい。
矢谷田は頭を抱えた。
今まで、世間に顔も名前も知られず、ひっそりとネットの海に小説を流してきた。それが、こんなカタチで“バズる”とは……。
(これ、絶対いいことないヤツじゃん……)
その日の昼過ぎ、区役所から電話がかかってきた。
「練馬区役所福祉課ですが……あの爆発事故に関し、赤ん坊の保護について少々……」
その電話で、彼は知ることになる。
――「一時的に赤ん坊の預かりをお願いしたい」と。
「え、は? 俺が……?」
「はい。こちらでも一時保護を手配中なのですが、病院での診察を終えたのち、数日間、身元保証の観点から、保護者的な立場の方にお預けするのが原則でして……」
「いや、俺、フリーターの独身で、病気持ちで、しかも昨日カップ焼きそばこぼしてベッド腐ってるんですけど……」
「……えー……あの、難しいご事情は理解いたしますが……」
――こうして、矢谷田剛志(95kg、高血圧、ヘルニア持ち)は、「赤ん坊を預かることになった」。
しかもそれは、区役所の職員がこっそり彼に渡した紙切れ――「ナオト(仮名)くん一時保育証明書」によって、正真正銘の“公式な手違い”として記録されていた。
この日を境に、矢谷田の人生は一気に『ノンフィクション』になってしまったのだった。
****
第二幕:赤ん坊ナオトとの生活
「……泣くなよ……頼むから……」
矢谷田剛志(95kg、独身)は、練馬区役所から引き渡された“ナオト(仮)”を前に、朝の四時に絶望していた。
泣き止まない赤ん坊。慣れない哺乳瓶。自室にはミルク臭と生活臭と加齢臭が交錯する、異常な空間が出来上がっていた。
部屋の中には見慣れぬプラスチック製のバウンサー、マグカップの代わりに消毒済みの哺乳瓶、そしてAmazonで買ったばかりの『新米パパ必読!はじめての育児バイブル』が開かれたまま放置されていた。
「俺、昨日まで昼夜逆転してクソみてぇな小説をカクヨムに投稿してただけなんだよ……。それが、こんな……」
おむつを替える。吐く。風呂に入れる。泣く。ミルクをこぼす。泣く。哺乳瓶を消毒する間にギャン泣きされる。
睡眠時間は三時間を切り、食事は赤ん坊の食べ残しをつまむのみ。
「俺の人生、ブラック企業未満かよ……」
それでも、ナオトは懐いた。というか、なぜか彼の手からだけミルクを飲んでくれるようになった。
日中、矢谷田はスギ薬局で買った抱っこ紐でナオトを前にぶら下げ、オリンピックでベビー用おしりふきを大量に買い込む生活。
レジのおばちゃんに「イクメンだねぇ」と言われた矢谷田は、その夜、寝る前に壁に向かってこう呟いた。
「俺、ただの間違いなんすけど……」
それでも、ナオトが自分の指をぎゅっと握った夜。
矢谷田は、ほんの少しだけ……生きててよかったかもしれない、と思った。
翌日。
近所の主婦グループ(なぜか全員戸田恵子に似てる)に囲まれ、「オムツはパンパースが一番よ!」「離乳食は手作りね!」と口々に言われ、矢谷田は泣きそうになった。
「なんで俺、ベビーカー押してんだよ……俺の人生どこで間違えた?」
……いや、たぶん、間違えてばっかりだった。
でも、
赤ん坊ナオトの寝顔を見るたびに、
「間違いでも、もうちょっと続けてみっか」と思えてしまう自分が、どこか憎めなかった。
第三幕:過去との再会
その日、矢谷田剛志(95kg、赤ん坊持ち)は、ナオトを連れて春の風公園のベンチに座っていた。
公園には他に誰もいない。日曜の夕方なのに。
「なぁ、ナオト……お前は……この世界がまともに見えてんのか?」
ナオトは何も答えず、うつろな目で鳩を見ている。
「……お前が羨ましいよ。何にも知らなくて、何にも喋れなくて。だから誰からも期待されなくて……」
矢谷田は缶コーヒーを一口。
もう習慣になってしまった。人生に似ている、ぬるくて苦いコーヒー。
その時だった。
後ろから声がした。
「……矢谷田、くん?」
心臓が跳ねた。
懐かしく、でも絶対に聞きたくなかった声。
振り返ると、そこにいたのは――
「……鈴木先生……?」
高校の担任だった女教師、鈴木京香が、ゆっくりとこちらに歩いてきていた。
昔と変わらぬ端正な顔立ち。だけど、あの頃よりもずっと穏やかで、優しさがにじみ出ていた。
「やっぱり、そうだと思った。テレビで見たのよ。赤ちゃん抱えて、交差点を走ってる映像……あれ、あなたでしょ?」
矢谷田は、どこかで聞いたようなせりふを噛みしめる。
「……ええ。たまたま……」
「あなたらしいわね。昔から、肝心なときだけ真面目なんだから」
その言葉に、矢谷田は不意を突かれたような表情を浮かべた。
「先生、あの頃……俺、ろくな生徒じゃなかったのに……」
「違うわ。あなたは、ちゃんと努力してた。報われなかっただけ」
「……そんな慰め、いらないですよ」
「慰めなんかじゃない」
その語気の強さに、矢谷田は何も言えなくなった。
沈黙がしばらく続いた後、鈴木先生が笑みを浮かべて言う。
「でもね、今回のことで思ったの。やっぱり、私の見る目は間違ってなかったって」
「……先生、俺、今フリーターで、区役所のバイトで、毎晩ナオトのミルク作ってて……まともな人生なんか、一個も歩いてないですよ」
「それでも、誰かの命を抱えたことがある。それだけで、もうまとも以上よ」
ナオトが小さな声でくすぐったように笑った。
矢谷田は思わずその顔を見て、口元を歪めた。
「……そっか。俺、まとも以上か」
鈴木先生はナオトを覗き込みながら、そっと言った。
「この子の名前、なんていうの?」
「ナオト。……仮名ですけどね。役所が勝手にそう書いて渡してきたんです」
「でも、いい名前じゃない。尚人。人として、尚も……」
「いや、たぶん直人っす」
「……まぁ、どっちでも素敵ね」
そのやりとりのあと、短い沈黙。
ふと、矢谷田が口を開く。
「先生、俺、今さら何か変われると思います?」
「ううん、思わない」
即答だった。
矢谷田は吹き出しそうになり、先生もいたずらっぽく笑った。
「でもね、変われなくても、動けるのよ。あなたはもう、動いてる」
矢谷田は黙って、ナオトの顔を見つめた。
何かが、ほんの少しだけ、ゆっくりとほぐれていくような気がした。
その後、先生とはサイゼリヤで少しだけ話をした。
近況とか、思い出とか。
そして別れ際に、彼女はこう言った。
「何かあったら、いつでも連絡して」
その時、矢谷田は思った。
――やっぱり俺は、どこかで人と繋がりたかったんだな。
帰り道、ナオトはずっとぐっすり眠っていた。
風は少しだけ優しくなっていた。
そしてその夜。
彼はパソコンを立ち上げ、カクヨムの執筆ページを開いた。
キーボードをゆっくりと叩き始める。
第四幕:爆発する感情
夜の校庭は、やけに静かだった。
高松小学校の裏手、通称「こもれび公園」と呼ばれる小さなスペースに、矢谷田剛志は一人、赤ん坊ナオトを膝に抱いて座っていた。
照明は既に落ちており、闇の中に微かに白い街灯の光が差し込んでいる。ブランコは風に揺れ、錆びた鎖が小さく軋んでいた。12月も末、練馬の空気は肌を刺すように冷たい。
「……泣けよ、こういう時ぐらいはさ」
ナオトは泣かなかった。
矢谷田は、ため息を吐きながら、缶コーヒーのプルタブを指先で弄っていた。もう中身は空だ。それでも手放せないのは、何かを握っていないと心が崩れそうだからだ。
「……俺、どうしたら良いんだよ」
思わず出たその言葉に、誰も答えない。ナオトでさえ、指を口にくわえたままきょとんとしている。
矢谷田は、小さく嗤った。
「なぁ、ナオト。お前、いつまで俺と一緒にいるんだ?」
当然、赤ん坊が答えるはずもない。
「ほんとはさ、俺、もうちょっとだけマシな人間になれる気がしたんだよ……」
声が震えた。
それは夜の冷え込みのせいじゃない。
「でも、やっぱ無理だった。俺、ちゃんとできねぇ。ミルクだって、タイミング外すし、オムツのテープも左右でズレるし……夜泣きだってさ、近所迷惑って思ってんの、正直。だから、もう――」
喉の奥が詰まる。
「俺じゃ、駄目なんだよ……」
涙がこぼれた。
久しぶりだった。いつぶりかも思い出せない。子どもの頃か、高校留年が決まったあの夜か、それとも風俗で財布をすられた時か。
「何で、俺なんだよ……何で、よりにもよって俺なんだよ……」
ぽろぽろと、こぼれる。
泣くつもりじゃなかった。泣きたくなかった。
だけど、止まらなかった。
ナオトは、その様子をじっと見ていた。
そして、不意に、ふにゃりと――笑った。
「……え?」
驚いた。
さっきまで無表情だったナオトが、にこ、と、確かに笑ったのだ。
矢谷田は、しばらく呆然としていた。
「……なんだよ、それ」
口から、自然と笑いが漏れた。涙は止まらなかったけど、それでも笑っていた。久しく忘れていた、壊れそうな笑いだった。
「お前、バカかよ。こんなヤツに笑いかけてどうすんだよ……俺、いつお前を置いて逃げるかもわかんねぇのに……」
ナオトは、それでも笑っていた。まるで「それでいいよ」とでも言うように。
矢谷田は、そっとその小さな頬に触れた。温かい。ちゃんと、生きてる。
「……あーもう、バカだな……」
再び空の缶コーヒーを握りしめる。
ぬるくて、苦くて、どうしようもない人生。
だけど、ほんの少しだけ――温もりが残っていた。
風が強くなり、落ち葉が舞い上がった。
それでも二人は、その場を動かなかった。
今はただ、この瞬間を生きていた。
第五幕:再出発の日
その朝、練馬区高松の空は、異様なほど青かった。
矢谷田剛志(95kg、ミルク臭つき)は、古びた木造アパートの一階、引き戸の前で立ちすくんでいた。
ナオトを預かる「一時保育期間」は、ついに終了を迎えた。
「……じゃあ、これで“間違い”も終了、ですかね」
誰にともなく呟き、ポストに入っていた区役所からの封筒を手に取り、中の「引き渡し確認書」を折りたたんで上着のポケットにねじ込む。手のひらが汗ばんでいた。
布団の上では、ナオトが最後の朝寝をしている。小さく、ぬくもりのある命。数日前までは他人だった。でも今は、それだけじゃ言い表せない存在になってしまっていた。
「行くぞ、ナオト」
ぎこちない手つきで防寒のつなぎを着せ、胸の前の抱っこ紐に収める。自分でもびっくりするくらい、慣れた動作だった。近所の戸田恵子似主婦軍団が見たら、拍手でもしそうだ。
自転車はない。ベスパはあるが、さすがに二人乗りで区役所は無理だ。
駅まで歩くしかない。ゆっくりと。
――ナオトを連れての、最後の散歩。
途中、行きつけのスギ薬局に立ち寄ると、レジの奥から店長がひょっこり顔を出した。
「あれ、今日で……?」
「……はい。引き渡しです」
店長はしばらく何も言わなかったが、ナオトの頭をそっと撫でてから、静かに言った。
「……よく頑張ったね、パパさん」
矢谷田は、何も返せなかった。
でもその言葉は、胸にじんわりと染み込んだ。
区役所の福祉課に着くと、手続きは淡々と進んだ。
保育担当の職員は「おかげさまで助かりました」と形式的な笑顔を見せ、書類と引き換えにナオトを抱き上げた。
ナオトは、最初きょとんとしていたが、矢谷田の顔を見つめ、ほんの少しだけ、唇を震わせた。
「……おい、泣くなよ。最後に俺を泣かすなよ」
目が潤むのを必死で堪えながら、矢谷田はそっとその手を撫でた。
「……また、な。……生きてたら、また会おうぜ」
ナオトは泣かなかった。ただ、静かに、微笑んでいた。
――それで十分だった。
アパートに戻ると、部屋は妙に広く感じた。
赤ん坊グッズを詰めたダンボールが、ぽつんと部屋の隅に置かれている。それはまるで、一瞬だけ訪れた“家族”の記憶の遺影みたいだった。
「さてと……」
そしてパソコンの前に座る。
キーボードを叩く手が、今日は少しだけ軽い。
タイトルは、もう決まっている。
『谷原ガスタンク爆発。でも炎上はしなかった』
その第一行目を、ゆっくりと打ち込んだ。
エピローグ:目白通りの風の中で
数日後、彼の投稿にはたった一つ、コメントが付いた。
「あなたの文章を読んで、なんだか元気が出ました」
短い言葉だった。でも、それは矢谷田にとって、ヒーローよりも確かな報酬だった。
夜。彼はベスパにまたがり、バッティングセンターの前に立った。
爆発の跡は、もう跡形もなかった。
綺麗に片付けられ、更地になっている。
けれど、彼の中では何かが確かに“爆発”して、そして「炎上」せずに、形を変えて残っていた。
缶コーヒーを飲み干し、空き缶を握りしめながら、矢谷田は空に向かって呟いた。
「俺の人生は爆発した。燃え上がりはしなかった。けど……まだ燃え尽きてもねぇよ」
そして静かにベスパに火を入れる。
冬の目白通りを、いつものように、ゆっくりと走り出していく。
――ぬるくて、苦い、けれどあたたかい人生を乗せて。