11章 最初から幸福だった
「お兄様……!」
クラリッサはすぐに方向を変えて、エヴェラルドの方へと向かう。
そこに辿り着くと、エヴェラルドはクラリッサの手首を引いて近くにあった空き部屋に入った。
廊下から騎士達の声が聞こえる。
どうやら、必死で誰もいない玄関ホールの周辺を探しているようだ。
「カーラは無事ですか?」
「ああ、無事だ。今はアンジェロの世話をさせているよ」
「ありがとうございます、お兄様」
クラリッサはそう言いながら、それならば一体誰が捕らえられているのだろう、と不思議に思った。
シルヴェーヌにとっても重要な局面で、わざわざ人を使ってでも閉じ込めて情報を吐かせる必要のある人物。
何かを見落としている気がする。
クラリッサが首を傾げると、エヴェラルドは深刻な顔で口を開いた。
「助けに……というか、力を借りにきたよ」
「力を?」
「──ラウレンツが捕まった」
エヴェラルドが言いづらそうに目を伏せた。
クラリッサは驚きに目を見張る。
「どうしてラウレンツが!?」
ラウレンツならば、今頃出張から帰ってきてクラリッサが残した手紙を読んでいるはずだ。
離婚を口にしたクラリッサのことを恨んでいるかもしれないとすら思っていたのに。
「自ら同盟書類を運ぶ途中で捕まったらしい。同行していた騎士が一人、私に助けを求めに来た」
クレオーメ帝国との同盟書類。
それがあればこの局面をひっくり返すことができる、今最強の手札だ。
それがあれば、今後ベラドンナ王国は手を引かざるを得なくなる。
ラウレンツはもしかして、クラリッサがアベリア王国で追い詰められていると思って、来たのだろうか。
危険な旅になると、ラウレンツ自身が来ることの意味を、分かっていて。
「どこかに閉じ込められているそうだから、情報を──」
「オーブ街の別荘だわ」
シルヴェーヌが言っていた、オーブ街の別荘に捕らえた人物。
このタイミングで名前が出たということは、ラウレンツである可能性が非常に高いだろう。
「オーブ街? すぐ近くじゃないか」
エヴェラルドが驚いた顔をする。
クラリッサは目を伏せた。
クレオーメ帝国での毎日は、最初から幸福だった。
悪女だと思われていても、好きな服を着て好きに過ごすことができただけで、心の中は穏やかだった。
ラウレンツがクラリッサを見てくれなくても、声を聞くだけでクラリッサは幸せだった。
「お兄様」
それなのに、ラウレンツはクラリッサを受け入れてくれた。
不器用な優しさはいつだって、クラリッサを弱くする。
その優しさのせいで、今だって。
こんなに寂しくて、怖くてたまらない。
「私に、騎士を貸してください」
黙って待っているなんて、できなかった。
「待て、クラリッサ。まさか自分で行くつもりじゃ──」
「お兄様は貴族議会に出なければいけないでしょう。お母様の思い通りに進んでしまったら、この国は終わりです」
エヴェラルドは、自分が助けてくるからクラリッサに貴族議会を引っかき回してほしかったのかもしれない。
これまで通り悪女として振る舞えばそう難しくないと思ったのかもしれない。
「私が、ラウレンツを助けに行きます」
だからここは、クラリッサが行くのが正しい。
「危険だ!」
「では騎士だけに行かせますか? 助けに行くのには王族がいた方が良いと思います。言い逃れされてしまう可能性が高いですから。──お兄様もそう思って、ここに来たのでしょう?」
「……私が助けに行こうかと思っていたんだが」
しかしそれでは、貴族議会に次期国王であるエヴェラルドが不在になってしまう。
急いで帰ってきたところで、印象の悪化は否めない。
特に派閥に属していない中間層は、そういったことに敏感だろう。
「駄目です。お兄様は貴族議会に出て、できるだけ会議を引き延ばしていてください。必ずラウレンツを助けて、書類を持ってきます」
ラウレンツを思い出すとき、最初に浮かぶのは気難しげな顔と無自覚にクラリッサを熱くする素晴らしい声だ。
しかし最後には必ず、暖かな日差しに照らされた穏やかな微笑みが浮かぶ。
それはまるで、クラリッサがラウレンツと積み上げてきた関係そのもののようだ。
「愛しい夫に少しでも早く会いたいと思うのは当然のことですわ」
クラリッサが挑むように言うと、エヴェラルドは仕方がないというように頷いた。
「精鋭を貸す。会議場で待ってるからな」
「ええ。私を信じて、待っていてくださいませ」
エヴェラルドの騎士が騒ぎを起こすため、離宮の扉を破壊する。
クラリッサは手製のナイフを握り締め、裏口から離宮を飛び出した。
物が壊れる大きな音が、背後で響いている。
エヴェラルドの離宮では、騎士達がクラリッサがやってくるのを待っていた。
クラリッサはドレスの裾が裂いたところから広がるのも構わず、用意されていた馬に飛び乗った。




