11章 今だけならばいくらでも
アベリア王国に向かうとき、家を守るため、国同士の問題に拡大することを防ぐため、『離婚』という言葉を書き残したクラリッサ。
もしラウレンツがまだクラリッサを悪女だと誤解していたならば、勝手に離婚だと言って帰国したクラリッサのことを恨めしく思っていたに違いない。
クラリッサはそれを分かっていて、あの手紙を残したのだ。
夜会の日に伝えるつもりだった。
本質は何も変わっていないと。
しなやかなクラリッサに憧れていると。
愛していると。
政略結婚ではあったが、これから本当の夫婦になっていきたいと。
クレオーメ帝国の皇帝の直系血族であるラウレンツと、ベラドンナ王国の血を引くアベリア王国の唯一の王女であるクラリッサ。
互いに面倒なしがらみや立場があるが、それでも共にいることで乗り越えられると、クラリッサがこれまで一人で背負ってきたものを共に背負いたいと、直接伝えるつもりだったのに。
「お願いします。アベリア王国に行かせてください」
目は逸らさない。
皇帝が深い溜息を吐いた。
「大臣、書類の確認はできたか?」
皇帝に聞かれ、書類を持っていた外務大臣が一礼する。
「はい。内容はこの通りで問題ないかと存じます」
皇帝が伸ばした手に、外務大臣が書類を渡す。外務大臣が問題ないと言ったその書類に再度目を通し、一度頷いた後、ペンを手に取った。
「……これだけ焦りながらも、瑕疵なく仕上げてくるとは……頼りがいがあるというべきか、可愛げがないと言うべきか」
「恐れ入ります」
皇帝はさらさらとペンを走らせ、書類にサインを書く。懐から取り出した印璽を横に押した。
それを、ラウレンツに差し出す。
ラウレンツは目を見張った。
「──行きなさい。必ず二人揃って、無事に帰ってくるように」
書類を受け取る手が震える。
しっかり握り締め、ラウレンツは踵を返した。
謁見室を走って出て行く無礼を、皇帝は指摘しなかった。
◇ ◇ ◇
クラリッサは閉じ込められた部屋で落ち着きなくうろうろと歩き回っていた。
シルヴェーヌに叩かれた頬と蹴られた腹は、その日のうちに侍医によって治療された。
翌日からは、毎朝シルヴェーヌの侍女が来て、クラリッサを華やかに飾り付けて退室していくという日課が追加された。
今日のクラリッサも、黒いタイトなシルエットのドレスを着せられている。
身ごろにはルビーやサファイア、ペリドットなどの様々な宝石がその輝きを主張するように縫い付けられている。
印象的なのは、太股まで露出するほどのスリットと、胸元に開いている穴だ。
髪は纏め上げられ、細くて高いヒールの黒い靴を履かされた。
白い肌と黒い布のコントラストで、いかにも男性をそそる悪女らしい装いとなっている。
侍女達はクラリッサを飾り立てると、粗末なパンとスープだけを置いて部屋を出ていく。
衣装と食事の扱いの差に、クラリッサは腹が立った。
「──こんなことで音を上げると思っているのかしら」
着せられたドレスはクラリッサのものではない。シルヴェーヌのものか、このために作らせたものだろう。
シルヴェーヌが思う悪女らしい衣装を着せ、外の様子が分からないように、エヴェラルドと連絡をとれないように、シルヴェーヌの離宮に閉じ込める。
粗末な食事を出し、クラリッサがシルヴェーヌの手の内にいるのだと強く印象付けさせる。
「そうして私を思い通りにしようとしていることくらい、分かっているんだから」
シルヴェーヌは毎晩クラリッサの元を訪れ、クラリッサに自分に従うよう言い聞かせた。
クラリッサはそのたびに首を横に振り、そのたびにシルヴェーヌに叩かれる。
顔を叩かれたのは最初の一度だけだった。以降は服で隠れるところしか殴られていない。
それすらすぐに治療されるのは、傷を残さないためだろう。
クラリッサにはまだ利用価値があるのだ。
「きっと、証拠はこちらにはないはずよ。お父様は、この数日一度もこの離宮に来ていないもの」
エヴェラルドが国王を、クラリッサがシルヴェーヌの離宮を調べると決めて、クラリッサはここに来た。
それから数日。
日中クラリッサは些細な物音も聞き逃さないつもりで耳を澄ましていたが、国王とその側近達の声は聞こえなかった。
訪れるのは、ベラドンナ王国側の貴族達だけ。
クラリッサは聞いた声が誰のものなのかを思い出して記憶していた。
そしてたまに、室内の物を壊して見せた。
シルヴェーヌはクラリッサのことが気になるはずだ。実際、初日にはあったペーパーナイフやアイスピックが、今は撤去されている。
利用する前に自ら取り返しのつかない怪我をされたりしては困るのだろう。
そうして対応したことが、クラリッサのことを意識している証拠だ。
「お兄様……今のうちに、証拠を掴んでください」
クラリッサは扉の向こうに聞こえないよう小さな声で呟いた。
寂しくても辛くても、構わないから。
今だけならばいくらでも耐えるから。
こんな日々さっさと終わらせて、できるのならばクレオーメ帝国に帰りたい。
ラウレンツがいるあの場所で、また、着たい服を着て、したいことをして、何気ないことで笑いたかった。




