11章 誤魔化せない想い
クレオーメ帝国の皇帝は忙しい。
どれほどかというと、分単位で予定が組まれ、謁見時間には急ぎの案件を除きひと月前から予約が必要なほどだ。
特に今日は視察から帰ってきた日だから、急ぎの者も多いはず。
ラウレンツはその事情を全て理解した上で、執務室で書類を書き上げて早々、謁見室に乗り込んだ。
中で皇帝と話をしていた外務大臣が、突然乱入してきたラウレンツに目を丸くしている。
額から伝う汗を拭い、眼鏡の曇りを指で雑に拭う。
明らかに異常事態というラウレンツの姿に、外務大臣は遠慮して席を外そうとした。
「──外務大臣。申し訳ないが、ここに残っていてくれ」
「ラウレンツ、何事だ」
まさに今皇室の秩序を乱しているラウレンツに対して、皇帝が訝しげに問いかける。
ラウレンツは書き上げてきた書類を掲げ、膝をついた。
「お祖父様、アベリア王国との同盟書類を仕上げて参りました。外務大臣と確認の上、サインをお願いいたします」
国事の場で祖父への頼み事として話をするなど、これまでのラウレンツには考えられないことだ。
それでも、ラウレンツはとにかく話を聞いてもらうために手段を選ぶつもりはない。
「……こうして割り込むほど重要な案件かね?」
皇帝が目の色を変える。
ラウレンツの異変から、異常事態が起きているのだと理解したのだ。
ラウレンツは頷いて、今アベリア王国で起きていることを話して聞かせた。
「書類はこの通りです。この場で外務大臣と共に確認しサインをしていただけましたら、私が騎士を率いてすぐにアベリア王国に持っていきます」
エヴェラルドから貴族議会の日程は聞いている。
もう二週間もないが、今すぐここを出れば間に合うはずだ。
「アベリア王国がベラドンナ王国に吸収されてしまっては終わりです。貴族議会の場でそのような決定がされる前に、届けなくてはなりません!」
前のめりに言うラウレンツを見て、外務大臣と皇帝が顔を見合わせる。その僅かな間すら惜しくて、ラウレンツは視線を落とした。
「──外務大臣、書類を確認してくれ」
「かしこまりました、陛下」
外務大臣がラウレンツの手から書類を受け取って、謁見室の端に置かれているテーブルに向かう。
ラウレンツはそれを横目に見て、また皇帝に向き直った。
皇帝もまた、ラウレンツと同時に視線を戻す。
「……すまないが、これは祖父として対応できる範囲を超えている」
ラウレンツは思わず舌打ちをしそうになって堪えた。
祖父としてはとても優しく、多少のことは笑って流してくれる人だ。過度な贅沢でなければ贈り物もしてくれる。だから、皇帝としてでなく対応してもらいたかったのに。
どうやらラウレンツの企みは、失敗に終わったらしい。
「フェルステル公爵に問おう。この件、貴殿が直接行く必要があるか? 視察から戻ってきたばかりなのだから、領地の案件も溜まってきているだろう。貴殿の家には後継もいない。皇城の騎士達に任せた方が良いように思うが」
その言葉に、ラウレンツは怒りと混乱のままここまで駆けつけてきた感情を必死で落ち着かせなければならなかった。
姿勢を正し、前を向く。
「この案件について、私はアベリア王国の王太子と話し合いを重ねてきました。締結の場に皇族が直接行くことで、圧力をかけることができるでしょう」
「それは私も知っている」
「また、可能ならばその場で王位を王太子に譲るよう説得するつもりです」
「当然のことだ。私が騎士を行かせるとしても、そうするよう指示する文書を付ける」
皇帝がなおもラウレンツを説得しようとする。
しかしそれも当然のことだ。
既に臣籍降下した身とはいえ、クレオーメ帝国の皇族であるということは、この大陸で大きな意味を持つ。
「それでも、やはり私が──」
「ラウレンツ」
短く名前を呼ばれ、少しずつ俯いていた顔を上げた。
目の前には、自分と同じ青い瞳が二つ。
それを見てクラリッサの赤い瞳が恋しくなるなんて、自分はそれほど愚かだっただろうか。
ラウレンツはもう誤魔化せない想いをそのまま口にする。
「──クラリッサは私の妻です。今、アベリア王国内がどのような状況かも分からない……私は、私の大切な唯一の妻の身が危険に陥っていると知っていて、ただ待っているなどできません!」
ほんの少しも政治的ではない想いだった。
あの日、幼いクラリッサに出会ったとき、この子のために強くなろうと思った。
再会して変わってしまったことに失望したのも、きっと最初から期待していたから。
今、幼いままでいられなかった理由と、それでも変わらない芯のある強さが、愛おしくて仕方がない。
帰ってきたら、会えると思っていた。
きっと笑顔で迎えてくれるのだと信じていた。
「私には……まだ、伝えられていない言葉があるんです」




