11章 過去形にされなかった想い
視察を終えたラウレンツがフェルステル公爵邸に戻ると、エルマーが玄関で待っていた。
普段ならば必ず微笑みと共に出迎える執事頭の厳しい表情に、ラウレンツはすぐに邸に問題が発生していることに気が付いた。
邸にはクラリッサだけを残していた。
結婚してから離れるのが初めてだったからか、離れている間にクラリッサのことをたくさん考えた。
どんな表情で会えるかと楽しみにしていた。
それなのに、クラリッサはラウレンツを迎えに出てこない。
「エルマー、何があった?」
ラウレンツは厳しい声音で言う。
エルマーが唇を噛む。
「……奥様が、アベリア王国に連れて行かれました」
アベリア王国というと、クラリッサの故国だ。何か邸でトラブルでもあったのだろうか。
連れて行かれたということは、アベリア王国に何かがあった可能性もある。
「詳細を」
「はい。アベリア王国から手紙が二通届きました。奥様がそれを読んでいる間に、アベリア王国の馬車が十名余りの騎士と共に邸前に停車し、奥様の帰国を要求。奥様は手紙を残し、カーラを連れて帰国されました」
「馬車は確かにアベリア王国のものだった?」
「国章がありましたので、おそらく。旦那様に伝えようと急ぎ人を送ったのですが、視察中で行き違ってしまったようで。旦那様に会えないまま先程邸に帰ってきました」
ラウレンツは右手で顔を覆った。
視察中、宿泊予定の宿を使ったのは前半だけ。後半は問題が発生し、予定外の地域の視察も行うことになったのだ。
手紙を出したところで数日かかるからと、ラウレンツは行程の変更を邸に報告していなかった。
「それは私の手落ちだ。予定が変わって、違う場所に行っていたから」
言いながら、ラウレンツはクラリッサの部屋に向かう。
扉を開けると、慣れた香りが鼻をくすぐった。全く悪女らしくない、爽やかでどこか可愛らしい花の香りだ。
そこにクラリッサがいないことに強烈な違和感を抱きながら、ラウレンツはテーブルに置かれていた便箋を手に取った。
──ラウレンツへ
急にアベリア王国に戻らなければいけなくなりました。
夜会に出席できなくてごめんなさい。
私は大丈夫です。心配しないでください。
私が戻らなかったら離婚をしてください。
大好きです。
「──……『離婚』?」
知らず便箋を持つ手に力が入り、くしゃりと音を立てる。
ラウレンツは気付いて、慌ててテーブルの上で端を伸ばした。そして、自分が持つ前から歪んでいたことに気付く。
便箋の端が波打っていた。
まるで、何かで濡れたかのように。
『大好きです』と書かれた文章の前に、塗りつぶされた部分がある。気になったラウレンツは、手紙を光に透かして見る。
塗りつぶす前に書かれていた文字が見えた。
──大好きでした。
隠されていたのは過去形の想いだ。
想いを過去のものにしてラウレンツを悩ませないようにしようとしたのかもしれない。
それでも過去のものにはできなくて、塗りつぶし書き直したのだ。
ベラドンナ王国とアベリア王国の因縁についてはエヴェラルドから聞いている。
同盟の締結までは秒読みで、今回の視察も、アベリア王国との同盟のための軍事拠点を置くための土地を確認するためのものだった。
そんなとき、クラリッサが泣くほどの何かがあったのだ。
「他に、状況が分かるものは?」
ラウレンツは手紙から目を離さずにエルマーに問いかける。
エルマーはすぐに二通の手紙を取り出した。
「直前に奥様宛に届いた手紙です。私には分からないこともありましたが、旦那様ならば意味が分かるかと存じます」
言われて開いた手紙の片方は、留学中に共に研究をしたエヴェラルドの見慣れた字だった。
「『企みがばれた』って……王妃にか」
エヴェラルドから頼まれていた、アベリア王国とクレオーメ帝国との同盟。
大陸一の大国であるクレオーメ帝国にとって、隣にある小国アベリア王国を属国として保護する必要はないように思われる。
しかしアベリア王国がベラドンナ王国に吸収されてしまうと、クレオーメ帝国の隣国は巨大化したベラドンナ王国になる。
最近のベラドンナ王国は、金山とダイヤモンド鉱山で私腹を肥やしているらしい。そのどちらも、元はアベリア王国に所有権や一部占有権が認められるものだ。
アベリア王国を吸収した後は、その富を利用し武装し、アベリア王国の国境に近いクレオーメ帝国内の鉱山や農地を狙うだろうことは目に見えている。
強欲なベラドンナ王国と直接国境を接することを、クレオーメ帝国は望まない。
不法に所有した金山とダイヤモンド鉱山をアベリア王国に返還させ、エヴェラルドというクレオーメ帝国に友好的な国王を置けば、戦争は回避できる。
これ以上ベラドンナ王国が力を付ける前に手を打つべきだと、国内貴族も問題なく賛同した。
ラウレンツにとって重要だった医療協力協定が会議を通過したのも、隠れ蓑にと提案したからという側面が大きかったくらいだ。
「何故今になって……」
今回の視察で、軍事拠点の場所が決定した。
後は皇帝のサインと承認を経て、両国の会談の場を持つだけだったのに。
ラウレンツは舌打ちをする。
もう一通の手紙は、王妃からだった。
帰国を促す手紙だが、エルマーの言うとおりこの手紙の直後に国から騎士を連れた馬車が送られてきたのなら、立派な脅迫だ。
「これが、可愛いクラリッサを悪女に仕立て上げたのかな」
ラウレンツは手紙をぐしゃりと握りつぶした。
エヴェラルドがどうにかして対抗しようとしてきた王妃。国を守るため必死だった友人の姿は記憶に新しい。
そして、何も知らずに嫁がされてきた悪女。
「──……ああ、そうか」
思えばクラリッサが悪女として振る舞っていた場には、アベリア王国の者がいた。
エヴェラルドがそうであったように、クラリッサもまた、悪女を演じることで何かを守っていたのかもしれない。
第一印象で決めつけて、悪女だと罵り続けてきた自分が、馬鹿みたいだ。
今、クラリッサはどうしているのだろう。
また、悪女を演じさせられているのだろうか。
初めて出会ったときのように、背中や胸を露出して、足のラインを強調して。それを、見知らぬ男達に見せているのか。
それも許せないが、それだけならまだ良い。
手紙によると、クラリッサは一度もクレオーメ帝国の情報を王妃に流さなかったらしい。
そのせいで、クラリッサがエヴェラルドと協力関係にあることが王妃にばれていたら。
「……エルマー、邸のことは一任する。何もないとは思うが、私と妻が帰ってくるまで、よろしく頼むよ」
「旦那様……」
肝心なときに側にいなかった自分が恨めしい。
伝えようとした言葉も、抱いている想いも、何一つ伝えられていないのに。
離婚なんて、するものか。
ラウレンツはクラリッサからの手紙だけを二つに折り、内ポケットの中に入れた。
「行ってくる」
過去形にされなかった想いを、胸に抱くように。




