2章 可愛く幼い約束だった
「お母さまの言うとおりにできなくって。でもおこられるのもこわくって。お茶会で、白いドレスがこわくって。それから、みんな大人で、どこにいたらいいかわからなくて──」
話していたらまた泣きそうになってきた。
ラウレンツがクラリッサの頭の上から手の平を離して、クラリッサの顔を覗き込む。
その顔が近くにあって、クラリッサは思わず息を呑んだ。
「クラリッサちゃんは偉いよ。こんなに小さいのに、あの茶会にいたなんて。僕はすぐに逃げたから」
「……逃げただなんて」
「本当のことだよ」
「ふふふっ」
綺麗な顔で、綺麗な声で、ラウレンツは面白いことを言う。
クラリッサを元気づけようとしてくれていることが嬉しかった。嬉しくて、クラリッサはもう、泣いていられなかった。
「ありがとう、ラウレンツさま。元気が出ました」
「良かった」
「お互い大変ですね」
なんだか大人びたことを言ってしまった。
そう思ってラウレンツの方を見ると、ラウレンツは目を丸くして、それから真剣な顔になって、クラリッサの手を握った。
「えっ」
クラリッサよりも大きな手は、クラリッサよりも高い温度だった。誰も見ていないところでなんて、使用人としか手を繋いだことはなかった。
ラウレンツのふわふわと波打つ髪も青い瞳も、日の光を受けてこの世のものではないかのようにきらきらとしていて。
クラリッサは天使に見つめられていた。
「……ねえ、クラリッサちゃん。そのドレス、とっても似合ってるよ。汚れてもいいから、やっぱり皆に見てもらった方が良い」
「で、でも──」
戻ったところで居場所などないのではないか。
尻込みするクラリッサに、ラウレンツは少しだけ表情を柔らかくする。
「僕も怖いけど、それでも、クラリッサちゃんが頑張っているから、頑張らないとって思えたんだ。だから、一緒に頑張ってくれたらとっても嬉しい」
それは、年上らしい優しい提案だった。
それでもクラリッサには、初めての言葉だった。
「……うれしいの?」
「うん」
その言葉が、クラリッサの中で確かな勇気になる。
これまで母親からの愛を求めて、見捨てられないようにと必死で縋ってきたクラリッサに、初めて、前向きな頑張る理由ができたのだ。
だから、頷いたとき、クラリッサはもう昨日までのクラリッサではなかった。
「じゃあ、わたし、頑張ってみる」
「ありがとう」
ラウレンツから手を引かれて傾いたクラリッサの小さな身体は、次の瞬間にはラウレンツに抱き締められていた。
温かな触れ合いの記憶はクラリッサの中に無くて、とても嬉しくなる。
「僕、もっと頑張るよ。虐められて泣いてなんていられない。誰にも文句を言わせないくらい、しっかりした大人になるから」
ラウレンツがそう言って、クラリッサを抱く腕を緩める。
もしかしたら、ラウレンツには今話したこと以外にも事情があるのかもしれない。
綺麗な声に乗る決意はクラリッサだけに向けられたものではないのかもしれない。
「だから、クラリッサちゃんも……負けないで。いつか、また会おうよ」
それは、逃げ出して偶然この場にいただけのクラリッサには過ぎた約束だった。それでもこの天使との約束ならクラリッサも頑張れると思った。
「うん。……また会いたい」
◇ ◇ ◇
案内された皇城の客間で、クラリッサが長い昔話を終えると、黙って聞いていたカーラは目を丸くした。
「え? そんな話聞いたことないですけど」
「誰にも言ったことないもの」
「なんでですか!?」
カーラの勢いに苦笑して、クラリッサは笑った。
アベリア王国一の悪女であるクラリッサが、こんな話を誰かに聞かれるわけにはいかない。カーラだって分かっているはずだ。
だからこれは、いつものじゃれ合いの延長である。
「カーラと出会う前のことだったし……それに、私だってこんなことになるなんて思わなかったのよ」
クラリッサは懐かしい日々を思い出して目を細めた。
「何年か後にラウレンツ様について調べて、初めてクレオーメ帝国の皇族だって気付いたのよ。ベラドンナ王国の援助を強く受けているアベリア王国の王女である私が、ラウレンツ様を想っていても無駄だと思って……」
「ああ……エヴェラルド様のお口添えが無ければ、クラリッサ様はベラドンナ王国に嫁ぐことになっていたでしょうからね……」
カーラがはっきりと言う。
クラリッサがクレオーメ帝国に嫁ぐことになったのは、エヴェラルドが留学をした結果だ。今回の技術協力についても、それだけで終わらせるつもりではないことをクラリッサは気付いている。
「きっとこれから、アベリア王国は荒れるわ」
「どういうことです?」
クラリッサは背中を大胆に露出したドレスを厭うように大きなストールを身体に巻き付け、ソファーに置かれた大きなクッションに身体を預けた。
「お兄様がこれっぽっちのために私を嫁に出すと思う? お母様も警戒していたけれど、きっとクレオーメ帝国はこれを機にアベリア王国を手中にしようとするわ」
「良いんですか?」
「良いのではない? ベラドンナ王国と違って、あちらは良心的な条約を締結しているようだし。まあ、そのためにはベラドンナ王女であるお母様の勢力が強すぎるし、事なかれ主義のお父様が国王のままでは無理でしょうけれど」
アベリア王国の将来にとっては歓迎すべきことだ。
ベラドンナ王国はアベリア王国を意のままにしているどころか、王妃が国の予算を横領してベラドンナ王国に流している疑いすらある。それらを黙認し、問題が無いように装っているのが国王だ。
王城の中にも王妃側の人間は多く、不正に協力しているらしい。それどころか騎士達の約半数はベラドンナ王国の息が掛かった者だ。
クラリッサがアベリア王国の王城内で生き残るには、王妃の企みに気付かず権力と浪費を楽しむ、愚かな悪女のふりをするのが最も都合が良かったのだ。
「エヴェラルド様はどこまで……」
カーラが左手で右手首を握り締める。
クラリッサは笑って、入口の扉に目を向けた。扉には内側から鍵を掛けているが、外にはアベリア王国から連れてきた騎士達が客間を守っている。外務担当も当然ベラドンナ王国と繋がっている者だ。
彼等の役目は、クラリッサの護衛か監視か。
「お兄様は私に『後のことは私に任せれば良い』と言ったわ。だから私は、お兄様に任せてしまおうと思うの」
「……よろしいのですか?」
「ええ。必要になったら呼ぶでしょう」
クラリッサだって、知らない国に嫁ぐのだ。正直しっかりしているエヴェラルドのことまで気にする余裕はない。
「私の仕事は、ラウレンツ様を通してクレオーメ帝国での地位を築くことだもの」
とはいえ、流石に長旅で疲れていた。
クラリッサは小さく欠伸をして目を閉じる。
仕方がないと苦笑したカーラが、畳まれていたブランケットをクラリッサに掛けた。