10章 騙されていて
クラリッサは玄関を抜け、階段を上り、二階にある王妃の私室へ通された。
室内には王妃が立っている。
濃紺のドレスに黒いレースが白い肌に映えていた。
「──クラリッサ」
色のない声がクラリッサの名前を呼ぶ。
こういうときには、この人はとても怒っているのだ。
しかし今はまだ、クラリッサがエヴェラルドと共謀していたという確信はないはず。
王妃はクラリッサをどうしようとしているのか。
クラリッサは口角を上げて、瞳に涙を溜めて見せた。
悪女として優雅に一人で立ちながらも、ただ母親の愛を求める愚かな子供のように。
「ただいま帰りましたわ、お母様。またお会いできて嬉しいです」
「おかえり、私の良い子。もっと近くに寄って、顔を見せてちょうだい」
「はい、お母様」
まだ信頼があるのなら、クラリッサを使おうと優しくするだろう。
しかし、もしその儚いものが崩れ去っていたら。
クラリッサは一歩ずつゆっくりと近付いた。
審判のときを待つ罪人はこんな心境だろうか。心臓の音が煩くて、聞こえてしまったら誤魔化せそうにない。
あと二歩ほどで手が届く、というところで、王妃の手が思い切り振り下ろされた。
殴られたのだと気が付いたのは、飛ばされた身体が床にぶつかってからだった。
「──っ」
髪に付けていた宝石が散らばった。
叩かれた頬がじんじんと痛む。口の中から血の味がするから、きっと切れているのだろう。
手をついて起き上がろうとすると、華奢に見える足で腹を蹴り飛ばされた。
「は……っ」
起き上がれない。
クラリッサは両手で腹を抱えた。
しかし、動けなくて良かったのかもしれない。クラリッサが動こうとする度、きっと王妃はこうしてクラリッサを虐げるだろう。
王妃が蹴った衝撃で脱げたハイヒールを拾い、クラリッサの頬にその踵を当てた。
まるで、そこを傷付けることなど簡単だとでもいうように。
「貴女が帰国早々エヴェラルドと話していたことは聞いているわ。まさか兄妹揃って母親に楯突こうとするなんてねぇ」
「ち、違……」
「お黙りなさいっ!」
王妃の声がクラリッサの耳に刺さる。
ハイヒールは王妃の足に戻り、クラリッサはただ見上げることしかできない。
「貴女はクレオーメ帝国に嫁いでから、一度も私に情報を送ってこなかったわね」
「それは……悪女に話をする人なんていないと……」
「それに貴女がいなくても、私はあの忌々しい子供を傷付けることができたわ。証拠もなく……ね」
「──……っ」
言い返してはいけない。
言い返したら、王妃はクラリッサの裏切りを確信するだろう。今はまだ疑いのままだが、もし確信になってしまったら。
「私はお母様の味方だったではありませんか……裏切ったという証拠もないのに、どうしてここまでなさるのですか……?」
「貴女がそうさせたのよ、クラリッサ。ここまで来るのに、私がどれだけ苦労したか知らないでしょう。でも……そうね」
言葉を切った王妃の赤い唇が、愉快そうににいと弧を描いた。
クラリッサの背を、冷や汗が伝う。
「──貴女が私の言うことを聞いてくれたら、まだ私の駒でいさせてあげるわ」
脳内で警鐘が鳴っていた。
王妃のこんな態度は初めてだ。
クラリッサのことを利用しながらも、クラリッサに騙されていてくれたはずなのに。
クラリッサは声が震えないよう、痛む腹に力を入れた。
「私は何をしたら良いのですか?」
この場でどうにかして認められることができれば、まだ王妃のことを騙せるかもしれない。
クラリッサのその希望は、続く王妃の言葉で砕かれた。
「そうね。この離宮で大人しくしていてくれるかしら。よく反省して、私の愚かな駒に戻ってくれたら……そうね。国王の妾にくらいしてあげるから」
「国王の、妾……?」
「ええ。この国はベラドンナのものになって、クラリッサ、貴女は私が公爵になるために利用されるのよ。ふふふ、嬉しいでしょう」
王妃はその未来を全く疑っていないのだと隠さずに言う。
アベリア王国がベラドンナ王国の一部になる。それはなんて当然の帰結だろう。
アベリア王国から搾取するようになってから、きっと王妃はそれがばれたら国ごと吸収しようと決めていたに違いない。
アベリア王国が相手ならば、ベラドンナ王国は軍事力と資本力の圧倒的な差で、簡単に勝利を手に入れることができる。
だからこそ、クレオーメ帝国と同盟を組まれたら厄介なのだ。
アベリア王国がクレオーメ帝国と同盟を結べば、ベラドンナ王国が相手取るのはクレオーメ帝国になる。
きっと王妃はこの機に乗じてアベリア王国をベラドンナ王国に吸収させ、更に自身はベラドンナ王国の貴族として生きるつもりなのだろう。
クラリッサのことを、犠牲にして。
今のベラドンナ王国の国王は王妃の甥だ。クラリッサの十歳ほど上だっただろうか。
つまりこれは、ベラドンナ王国に支配されるのとクレオーメ帝国との同盟が成立するの、どちらが早いかという争いなのだ。
証拠を集めただけでは、言い逃れできる。
そう自信を持てるほど、王妃はアベリア王国にベラドンナを浸透させたのだろう。
きっとクラリッサが動き出すよりもずっと早く。
「だから、全てが終わるまで大人しくしていてね。可愛い私の娘」
王妃の爪がクラリッサの頬を撫でる。
思うように動けないクラリッサは、騎士の一人に担がれても身動きが取れなかった。




