10章 大好き
突然の別れにどうして良いか分からない。伝えるべきことも伝えたいこともたくさんあるはずなのに、頭に浮かぶのはラウレンツと過ごした日々の記憶ばかりだ。
堪えていた涙が、便箋の上にぽとりと落ちた。
そのとき、またエルマーが扉を開けた。
「失礼いたします。目的は奥様を連れ帰ること、条件は、こちらから護衛を付けないことだそうです。身一つで来るようにとのことでした!」
いつの間にか廊下に使用人が集まっているようで、廊下から不安げな騒めきが聞こえてくる。
皆が心配しているのだ。
クラリッサはエルマーを安堵させようと、大丈夫だというようににこりと笑って見せる。
どんなに不器用な笑顔でも、エルマーなら笑っていたとラウレンツに伝えてくれるはずだ。
荷物もいらないと言うのなら、あまり長く待たせるわけにはいかないだろう。
クラリッサはペンを握り直し、続きの文章を書き足した。
──私が戻らなかったら離婚をしてください。
大好きでした。
便箋の端が零れてしまった涙で波打っている。
書き直している時間はない。
クラリッサは気にせずに、便箋を二つに折ってテーブルの中央に置いた。
「行きましょう、カーラ。巻き込んでごめんなさい」
「いいえ。私もまた気を引き締めます」
アベリア王国で、カーラはいつもクラリッサの悪事を手伝ってくれていた。連れて帰っても、王妃だって何とも思わないだろう。
クラリッサは立ち上がり、カーラと共に部屋を出ようとした。
扉の前で振り返ると、すっかりクラリッサの生活に馴染んだクラリッサ好みのセンスの良い調度が並んでいる。
この場所こそが、クラリッサの居場所だと主張するかのように。
しかし、外ではアベリア王国の馬車と騎士達が待っている。抵抗すれば、使用人達とこの邸がどうなるかも分からない。
そして時間がかかればかかるほど、クラリッサに関する嫌疑は深まるだろう。
振り切らなければいけない。
それなのに、クラリッサは部屋の中に引き返していた。
「──クラリッサ様?」
カーラが困惑した声で名前を呼ぶ。
それでも、クラリッサにはどうしてもこのままここを去ることはできなかった。
早足でテーブルの前に戻り、ペンを取る。
最後の一文を、黒く塗りつぶした。
──大好きです。
書き換えてペンを置く。
過去のものではない。クラリッサは、ラウレンツのことが大好きだ。
ラウレンツがいつこの手紙を読むことになったとしても、そう思うことができると、自分自身を信じている。
今度こそ忘れ物はない。
クラリッサは多くの感情を振り切って、駆け足で部屋を飛び出した。
負けない。
クレオーメ帝国に直接馬車と騎士を送ってくるなど、国際問題ぎりぎりの強硬手段だ。
つまるところ、そうしなければならないほど、王妃は焦っているのだろう。
国際的に見てアベリア王国とクレオーメ帝国の協力関係の象徴は、クラリッサとラウレンツの結婚だ。
だからこそ、この関係を壊したいのならば、クラリッサとラウレンツを引き離すことが重要なのだ。
そして、王妃の手元にクラリッサという使える愚かで強力な駒が戻ることもまた、重要なのだ。
廊下を駆け抜けるクラリッサを、使用人達が何事かと振り返る。
窓の外の状況は、既に皆が知っているだろう。それなのに、一言も文句を言わない使用人達に涙が出そうだ。
むしろ、クラリッサの身を案じてくれているようだ。
「奥様……っ」
玄関扉を抜けたところで呼び止めてきたのは庭師だった。
振り向くと、作業中に飛び出してきたのか、普段通りの作業着姿だ。
花について教えてもらい、薬草について話した。
穏やかなフェルステル公爵家そのもののようなその姿に、クラリッサはくしゃりと口元を歪めた。
ラウレンツの家であるここが、いつの間にかクラリッサの家にもなっていた。
もしラウレンツと共に夜会に行くことができていたら、一体どんな話をされていたのだろう。
最近のラウレンツの優しさからして、悪い話ではなかっただろうと思う。
「こんなことで、終わらせたくなかったのに……」
口をついた弱音を首を振って振り払う。
庭師の目には心配がありありと浮かんでいて、クラリッサは少しでも安心させようと微笑んだ。
「大丈夫。ちょっと家に帰るだけだから」
違う。クラリッサの家はここだ。
「だから、皆そんなに心配しないで」
未練を振り切って、門扉を抜ける。
近付くと、いつぶりかに見る豪奢な馬車の側にいる騎士は、皆王妃の側にいた者だった。
クラリッサはポケットから取り出した扇を広げて、まだうまく笑えないままの口元を隠した。
「あら、皆様。迎えに来てくださるのは結構ですが、支度の時間も下さらないなんて……女性を何だと思っていますの」
部屋で休んでいたままの姿で出てきたクラリッサは、今、薄化粧と上品な室内着姿で、どう見ても騎士達が知るクラリッサの姿ではない。
それでも、失敗をするわけにはいかない。
しなやかに立ち、軽く俯き垂れた髪の隙間から細めた目を覗かせる。口元は隠れているのに、頬の動きから笑っていることが分かるように。
クラリッサの姿を見て、先頭の騎士が目に見えて狼狽して頬を染めた。
「も、申し訳ございません。なにぶん急なことでございましたので」
王女への敬意と悪女であるクラリッサへの不純な好意、そして裏切りの疑いが込められた目。
クラリッサはその全てを受け流して、自ら馬車の扉に手を掛けた。




