10章 無理に飲まないで
クラリッサはフェルステル公爵邸で読んだ貴族名鑑を思い出す。
コラールといえばクレオーメ帝国の子爵家だ。
エルトル侯爵家の親戚筋で、子爵家ではあるが市民向けの仕立屋で成功しているため、資産は多いと書いてあった。
手書きのメモに、父親は一人娘のクロエを溺愛しており、クロエは引っ込み思案になっている、とあり、どうしてこんなことまで書いてあるのかと不思議に思ったものだ。
しかし、実際に本人を目の前にすると分かる。
社交界デビューするまで知らない人とほとんど話したことがないと、デビュー後に苦労するのだ。大体は、このクロエのように。
「私のことは、良ければクラリッサと名前でお呼びになって。私も、クロエ様と呼んでも良いかしら」
「あ、ありがとうございます! クラリッサ様」
怯えた小動物のようだった丸い茶色い瞳がクラリッサを見てぱっと輝く。
クラリッサはその瞳にどきりとした。
これまでクラリッサは、クロエのような令嬢を虐めることの方が多かったのだ。
悪女として有名な自分があえて虐めることで、真面目な令嬢に保護させていた。
王妃の手前、クラリッサは優しくすることができない。
クラリッサに虐められることで、逆に居場所を作らせていた。
「……クラリッサ様、どうなさいました?」
クロエが首を傾げる。
「何でもないわ」
クラリッサに向けられるものではなかったその瞳に気圧されたなどと言うわけにはいかない。
扇で口元を隠して誤魔化す。
「クロエ様は以前からサロンに参加されていらっしゃるのですか?」
「えっと、私はこのシーズンでデビューしまして……叔母が心配して、毎回呼んでくれているのです」
「そうでしたか。私は今日が初めてなので、何度も参加されているクロエ様が一緒で安心しましたわ」
「そ、そんな。ありがとうございます……」
なんて可愛らしいのだろうと思った。
弱いままでいられる純粋さも、それでも頑張ってクラリッサと会話をしようとする真っ直ぐさも可愛らしい。
きっとエルトル夫人が毎回テーブルの人を変えながら、顔を広くしてあげようとしているのだろう。
「クロエ様は、ハーブティーを飲まれますか?」
「お恥ずかしいのですけれど、飲んでいるのですが、あまり種類が分かっていないのです」
「淹れてもらっていると、意識しませんものね」
「そうです……すみませ──」
「謝ることではありませんわ」
クラリッサはあえてクロエの言葉を途中で切った。
クロエが驚いて、怯えたように目を見張る。
クラリッサは扇を持った手を膝に置いて、優しく見えるよう微笑みを向けた。
「自分が悪いことで謝ってはいけないのですよ。付け入られてしまうと大変ですわ」
謝罪すれば解決すると思いがちだが、謝っても解決しないことも多い。特に貴族同士では謝罪は諸刃の剣だ。
クロエのような弱気な子が使うのはあまりに危ない。
「はい、すみませ……あ。ありがとうございますっ」
「その方が、ずっと素敵ですわ」
クロエが言い直した言葉に、クラリッサは思わず破顔する。
本当に、なんて可愛いのだろう。
「綺麗……」
笑顔のクラリッサをぽうっと見つめていたクロエが、ぽつりと呟いた。
「え?」
「あっ、つい……!」
「い、いえ。褒めていただけるのは嬉しいですから……ありがとう、クロエさん」
クラリッサが言うと、クロエが照れたように笑う。
笑顔までとても可愛らしい。
クロエと出会えたことが嬉しくて、クラリッサはもうこのサロンに来た意味があったと思えた。
しばらくして同じテーブルに令嬢が二人加わった。二人ともクロエとは以前から顔見知りのようで、テーブルは穏やかな雰囲気だ、
少しして、サロンが始まった。
ハーブの効能の説明と、組み合わせ、味による分類。サロンと言いつつ、内容はかなり本格的だった。
最初に用意されたおすすめだというブレンドは癖のない香りとハーブの甘さが自然で、ハーブティーを飲み慣れていない人でも飲みやすく作られていた。
「すごいわ……」
「本当に、すごいです」
クロエが真剣にメモを取りながら聞いている姿を見ると、クラリッサの気が抜けてしまう。
専門的な内容であっても興味があまりない人は適当に聞き流して、離れた場所でお喋りを楽しんでいる。
それもまた悪いことではないようだ。
自由なことが魅力かもしれない、と思いながらも、クラリッサは頭の中のハーブの知識に味という視点で知識を書き足していた。
「それでは、後は皆様テーブルの上の茶葉を使ってお茶会を楽しみましょう」
そう言われて、クラリッサはテーブルの皆と順番に茶を調合し、淹れ合って飲み比べた。
「クロエ様のものが美味しかったです……」
クラリッサの素直な感想に、他の令嬢達も頷く。
「本当に! 華やかなお花の香りがして、味もほのかに甘くて……こんなお茶なら毎日飲みたいですわ」
「ええ。私も好きな味でした!」
そう言う二人のハーブティーも、それぞれ特徴があって美味しかった。
問題は、皆が一口しか飲まなかったクラリッサのものだ。
「──……あの、効能は確かなはずなのですが」
「そ、そうですわよね。ハーブティーは身体に良いと言いますし、そう言った意味ではとても本質的な……」
「ええ。身体に良さそうな味ですわ」
このテーブルではクラリッサが一番高位貴族であり、皆が気を遣っているのが分かる。
しかしどう言っても全く美味しくないハーブティーを淹れてしまったのもまたクラリッサなのだ。
「無理に飲まないでください。私も、皆様のを楽しませていただきますから」
クラリッサはそう言って、自分が淹れたものを勢いよく飲み干した。




