9章 舞台の上の俳優のよう
カーラに急かされながら孤児院を後にしたクラリッサは、馬車でフェルステル公爵邸に戻った。
ラウレンツもいないのだから、一休みしてから紅茶でも飲もう、と思っていると、来客担当のメイドが慌てた様子でクラリッサの部屋にやってきた。
「失礼いたします。シュペール侯爵令息ローラント様がいらっしゃいました。いかがなさいますか?」
「シュペール侯爵令息って……ラウレンツの友人じゃない」
以前参加した夜会で、ラウレンツと話をしていた男性だ。
茶色い髪に緑色の目で、軽薄そうな雰囲気があったように思う。
ラウレンツはまだ帰宅していない。
しかし侯爵令息を一人きりで待たせておくわけにもいかない。応接室に案内して、妻であるクラリッサが相手をしなければならない。
「今行くから、紅茶とお菓子をお出ししておいて」
「かしこまりました」
カーラがクラリッサの表情を窺っている。
実は、クラリッサがフェルステル公爵家に嫁いできてから、突然の来客というのはこれが初めてだ。
ラウレンツは皇太子の息子で第五皇子で、ここは公爵家だ。約束もなく人が訪れることができるような家ではない。
「ご存じの方ですか?」
「ええ。この前の夜会でラウレンツと親しげに話していたわ。多分友人だと思うけれど」
カーラはクラリッサの化粧を直しながら小さく首を傾げた。
「でしたらこの時間には皇城にいることは知っているでしょうに。なんでまた」
「……ラウレンツに何かあったのかしら?」
本人の不在を知っていて訪れたのならば、可能性は二つ。ラウレンツに何かがあったか、クラリッサに用事があるか、だ。
「とにかく、行ってみないと」
丁度帰宅して着替えたばかりだったので、ドレスは問題ない。
化粧直しも終わり、クラリッサは扇をポケットに入れて立ち上がった。
クラリッサが応接室に入ると、ローラントは慣れた様子でソファーに深く腰掛け、紅茶を飲んでいた。
クラリッサは緩く微笑んで礼をする。
「ようこそ、いらっしゃいませ。あいにく夫は外出しておりますが、今日はどのような──」
「知っているから大丈夫ですよ、夫人。今日は少し寄っただけですから」
ローラントはひらひらと手を振った。
どうやらラウレンツに何かがあったわけではないようだ。
「それより、こちらで少しお茶に付き合っていただけませんか? 一人で飲んでいては、せっかくの美味しい紅茶が勿体ない。夫人のようにお綺麗な方と共にいただいた方が、ずっと素敵な時間になるでしょう」
「それでは、ご一緒させていただきますわ」
貴族らしい世辞だらけの誘いだが、クラリッサは微笑んでローラントの正面の席に腰掛けた。
メイドがすぐにクラリッサの分の紅茶を用意した。湯気と共に広がった花の香りに、クラリッサはほうと小さく息を吐く。
カップを傾け一口飲むと、少し熱いくらいの湯温に背筋が伸びた。
「本日はどうして──」
「まあまあ。この菓子も美味しいですよ。一口どうぞ」
失礼であることは分かっているはずだ。
それなのにローラントはまたクラリッサの言葉を切って、あろうことか砂糖菓子を指先で摘まんでクラリッサの方に差し出している。
緑色の瞳には怪しげな光が揺れていて、口元は軽薄そうに、それでいて甘く、誘うように弧を描いていた。
こういう視線と表情には覚えがある。
クラリッサ自身がアベリア王国で何度も作ってきたものだから。
「そうですわね。いただきますわ」
クラリッサはローラントが差し出している菓子と同じものを皿から取って、口に運んだ。
爽やかな甘さが口に広がり、一瞬浮かんだ心の中の靄を消し去っていく。
「とても美味しいですわね」
クラリッサは挑戦的に微笑んだ。
ローラントが差し出していた砂糖菓子をちらりと見て、ひょいと自身の口に運んだ。
長い足は余裕ある態度を示すかのように組まれており、指先は見せつけるかのように常に美しく動く。
ローラントが甘く優しげな顔をクラリッサに向けてくる。
ラウレンツの甘さと冷たさを同時に孕んだ美しい顔とはまた違うタイプの美貌だな、などと冷静に観察する。
クラリッサはその様子を観察しながら内心で苦笑した。
計算され尽くしたその仕草全てが、クラリッサを誘っているかのようだ。
実際、誘っているのだろう。
「本当に素敵な方ですね、夫人は。初めて見たときから、ラウレンツの奴が羨ましくて仕方ありませんでした。……こんなに綺麗な女性に、側にいてもらえるなんて」
「……まあ、お上手ですこと」
「この手にすることはできなくても、焦がれることくらいはお許しいただけたらと……それだけお伝えしたくて、愚かにも訪れた男心を哀れに思っていただけますか」
すらすらと零れる台詞は、まるで舞台の上の俳優のようだ。
しかしそれも、飽きるほど聞いたことがある口説き文句のうちの一つでしかない。そんなものより、不器用なラウレンツの優しさ一つが嬉しいのだ。
ローラントが言っていることは、嘘である。
そろそろ良いだろう。
クラリッサは表情を全く動かさないまま、扇を取り出し口の前で広げた。




