7章 もう大丈夫
「──クラ……サ……」
声だ。
雨に混じって、声が聞こえる。
普通ならば雨音で届くはずがない声だった。
しかし、クラリッサの耳には確かに聞こえる。
心臓が、ぎゅっと何かに掴まれた気がした。
この声をクラリッサが聞き逃すはずがない。
大好きな人の、何よりもクラリッサの心を揺さぶる、誰のそれよりも愛しい声。
幌を止めていた紐が解かれ、揺れる布が荷馬車の中を明るくする。
突然の明るさに目を細めたクラリッサは、雨に濡れても輝いているプラチナブロンドに目を見張る。
堪えていた涙が溢れ落ちた。
「クラリッサ!」
隠しきれない怒りを滲ませた厳しい声が、クラリッサの鼓膜を震わせる。
揺れる馬車の中、ラウレンツがクラリッサの身体を両手で支えて抱え起こした。両手首を縛る縄を短刀で切り、クラリッサを自由にしてくれる。
眼鏡が濡れて、青い瞳がよく見えなかった。
「──ラ、ウ……レンツ……」
震える声ではうまく名前も呼べなくて、クラリッサは現実だと確かめようとラウレンツの頬に手を伸ばした。
しかし触れる直前で、目に映る指が土と埃で黒くなっていることに気付く。
視線を揺らして、手を引いた。
「……構わないから」
ラウレンツがその手を掴んで、自身の頬に触れさせる。
クラリッサの鼓動が、大きく鳴った。
しっとりと濡れた頬は冬の風と雨で冷えているはずなのに、クラリッサの指先よりも少し温かい。
その温度差に、ラウレンツが顔を顰める。
「冷たいな」
「……ごめ、なさ──」
咄嗟に謝罪の言葉を口にしたクラリッサに、ラウレンツが溜息を吐く。
「男達を捕らえてくる。すぐ戻るから待っていて」
「あ……け、拳銃が」
クラリッサが言うと、ラウレンツははっと驚いた顔をして、真剣に一度頷いた。
「大丈夫だから」
クラリッサに安心させるように張り詰めた表情のまま口角だけを無理矢理上げたラウレンツが、馬車の後を追っていた馬に飛び移る。
幌の隙間から見えたラウレンツは、すぐに中からは見えなくなった。
両手が自由になったクラリッサは、自身の身体を守るように抱きしめながら耳を澄ませた。
どん、どん、と発砲音が二回聞こえた。
雨音を切り裂いてはっきりと耳に届いた音に、クラリッサは身体を震わせる。
馬車ががたんと縦に大きく揺れ、同時に勢いよく速度を落とした。
がらの悪い怒声が聞こえる。
荷馬車の周囲から複数の馬の蹄の音が聞こえて、クラリッサはようやく、どうやら助かったらしいと理解した。
幌が大きく開けられ、ラウレンツが姿を見せる。
「待たせたね。今日は邸に戻って──」
クラリッサを安心させようとしているのだろう。
ラウレンツは自身もびしょ濡れで足元が泥で汚れているにも拘わらず、それを全く気にしていないというように、クラリッサに微笑んで見せる。
しかしクラリッサは青灰色の宮廷衣装の胸元についた赤黒い染みを見つけて、顔を青くした。
「そ、それ……お怪我、を……?」
震える声で問いかけると、ラウレンツがクラリッサの視線の先を追いかけ、その染みを見つける。
「あ、違う。これは私の血ではないから、心配はいらないよ」
しまった、と顔に書いてあった。
きっと、クラリッサが血を怖がったと思ったのだろう。
それとも、破落戸から血を流させた自分が怖がられると思ったのかもしれない。
「……よかった、です」
「それにしても、ほとんど抵抗もせず付いていくとはなんて愚かなことを。貴女は護身術の一つも学んで来なかったのか? カーラ以外側に寄せ付けないというのに、この体たらくでは今後はもっと使用人を付け、外出に家の護衛を連れて──」
安堵しかけたクラリッサは、はっと身体をこわばらせた。
クラリッサが何故破落戸達に抵抗できなかったのか、黙ってついていったのかを思い出したのだ。
「……どうした?」
「ラウレンツ。た、いへんなの。孤児院の子供達が、人質になっているはず。は……やく、騎士に──っ!」
震える声で、必死でラウレンツに訴える。
ラウレンツはクラリッサの赤い瞳をはっと正面から見据え、すぐにクラリッサを両手に抱えた。
外はまだ雨が降っている。
ラウレンツが身に付けていたマントでクラリッサを覆う。
抱かれたまま荷馬車から降ろされたクラリッサは、突然の揺れに落ちないようにと咄嗟にラウレンツの首に腕を回した。
周囲には何人もの騎士がいて、破落戸達は縄に掛けられていた。
騎士のうちの一人に、ラウレンツが近付く。
「妻は孤児院の子供達を人質にされていたらしい。騎士を向かわせて安全を確保するように」
「了解しました。どちらの孤児院でしょうか」
騎士からの問いに、ラウレンツはクラリッサが通っていた複数の孤児院の名前をすらすらと答えた。
「念のため、皇都内の孤児院も確認した方がいいだろう。よろしく頼む」
「はっ!」
騎士がラウレンツに敬礼をする。
ラウレンツはそれを受け、すぐに踵を返した。
雨がマントを打つ音がする。
ラウレンツの体温がクラリッサのそれよりも温かくて、自分のものではない少し早い鼓動の音が眠気を誘う。
もう、大丈夫だ。
クラリッサは今度こそ安堵して、迫る眠気の中に身を沈めた。




