6章 安心していいよ
「そうだよ」
ラウレンツが一歩、また一歩とクラリッサに近付いてくる。
陰から出ると、ラウレンツの姿がよく見えた。
青灰色の宮廷服を美しく着こなし、銀縁の眼鏡の蔓をくいと持ち上げ整える。
その些細な仕草にもクラリッサの鼓動は跳ねて、悩んでいたことが分からなくなってしまう。
「まさか、貴女がこんなことをしているとは思わなかったな。ポイント稼ぎのつもりか?」
「ポイント?」
「私に取り入るために、善良な人間を演じているようだけど……無理にしなくても、私達が離婚をするようなことはないから」
ラウレンツが口角を片側だけ持ち上げて言う。
クラリッサは僅かの間その声に聞き惚れていたが、ラウレンツが言っている意味に気が付いて、顔が熱くなった。
確かにクラリッサは、ラウレンツに好かれたいと思っていた。
しかし、それよりもまずフェルステル公爵家に相応しい振る舞いをしようと、ラウレンツに自分のせいで迷惑を掛けたくないと、そう思っていたからだ。
それなのに、いつの間にかクラリッサは、ただ子供達と共に過ごし薬草学に触れるこの孤児院での時間を、ただ楽しく過ごしていたのだ。
忘れていたなんて、恥ずかしいこと言えやしない。
「──……え、あ……そう、よね。貴方がそんなことをする人ではないことは、分かっているわ。だって、互いの国のためにも別れたりなんて、できるはずがないのだもの」
「そうだね」
ラウレンツがクラリッサから顔を逸らし、端に生えていたナギナタコウジュの側にしゃがんで、淡紫色の小花に顔を近づけた。
クラリッサはその光景から目が離せない。
「クレオーメ帝国は、大きな国だ。いくつもの小国を併合し、属国にし、ときに同盟を結びながら、ここまで大きくなった。その土台となったのは、高度に発展した技術と、伴って大きくなった軍事力だ」
日が沈み、薄闇の空になっても、孤児院の薬草園にはオレンジ色の明かりがぽつりぽつりと灯っている。アベリア王国では考えられない光景だ。
「医療技術も発展し、様々な病気や怪我を治すことができるようになった。難関と言われている資格を取れば、医師として尊敬を集め、多くの金を稼ぎ、国の研究機関で働くこともできる。素晴らしいことだ」
「本当に、すごいわ」
クレオーメ帝国の皇都の医療技術は大陸中で認められており、自国では治療できない病にかかった各国の貴族や王族が大金を持って押しかけてくると聞く。
多くの国を従え、大きな土地を保有しているにも拘わらず、ここ十数年間戦争がないのは、その技術に頼らざるを得ない者が多くの国にいるからだ、といわれる。
ラウレンツが唇を噛んだ。
「だからこそ、どうしても地方の町や村、守るべき市民達に、医療の手が届かなくなってしまった。価格が高騰した医療は、もう市民の手には届かない。帝国にとって新しい知識と技術が必要だった」
そうして結ばれたのが、クラリッサとラウレンツの縁談だ。
薬草学が発展し、医療技術は他国と同等程度にも拘わらず平均寿命が長いアベリア王国は、クレオーメ帝国にとって魅力的に見えたのだろう。
「この国は、自然と共生することを忘れてここまで大きくなった。だから、アベリア王国の薬草学は新しい技術なんだ。しかも知識さえあれば、野山で手に入る植物で、小さな部屋でも薬ができる。市井にぴったりの技術だ」
ラウレンツが花から手を離し、立ったままでいたクラリッサを見上げる。
その顔に浮かぶ感情は、嘲笑か、憐憫か。
どちらにしても、クラリッサの抱いている感情には相応しくない。
「……だから、安心していいよ。私は貴女がどれだけ悪女であっても、絶対に離婚だけはしない」
これまでに聞いたどの言葉よりも静かな声で、ラウレンツは言った。
クラリッサはそれ以上何も言えず、逃げるように踵を返す。
静かな薬草園には、ただ、ラウレンツ一人だけが残された。




