1章 幸せすぎる縁談です
「結婚だよ、結婚。クラリッサももう十九歳だし。この国じゃぼーっとしていたら嫁ぎ遅れてしまうかもしれないからね。優しいお兄様が縁談を決めてきてあげたんだ」
「何を勝手な──」
クラリッサは咄嗟に声を荒げた。
クラリッサが他国に嫁いでしまったら、アンジェロはどうなるのか。これまで必死に王妃の毒牙から守ってきたというのに。
貴族の令嬢達だって、クラリッサがいなくなったらまた争い始めるかもしれない。
ベラドンナ王国からの圧力も、これまで通り抑えられるか分からない。
クラリッサが悪女のふりをすることで、守ってきた様々なもの──それが全て無駄だったなんて言わせない。言われたくない。
しかしクラリッサの言葉を遮ったのはエヴェラルドだった。
「後のことは私に任せれば良い。しばらくはこっちにいるつもりだからね」
その言葉で、クラリッサはエヴェラルドの意図を察した。
何故ならエヴェラルドの表情が、どこか申し訳なさげだったからだ。
これまで王妃とアンジェロの、そしてアベリア王国とベラドンナ王国の確執をクラリッサに押しつけてきたことに対して、多少なり罪悪感があるようだ。
ならば、クラリッサは安心してクレオーメ帝国に嫁いで良いのか。
──もう、一人で全てを守らなくて良い。
内心で安堵の溜息を吐き、反抗するつもりが全く無いクラリッサに気付かず、国王がクラリッサを戒めようと口を開く。
「もう決まったことだ、クラリッサ。お前はクレオーメ帝国皇太子の三男、ラウレンツ・クレオーメと結婚し、両国の発展に寄与するように」
「……今、誰と結婚しろと仰いました?」
「ラウレンツ・クレオーメだ。以前一度この王城に招いたこともあるが……まだ幼かったから、覚えていないか。結婚は二か月後。──王族として政略結婚の必要性は理解しているだろう。当然、自分がその駒となることも覚悟できているだろう? ……これまで贅沢を許してやってきたのは、このときが来ることを私も理解していたからだ。精々私に迷惑をかけた分まで、嫁いで役目を全うするように」
話のほとんどは、聞こえていなかった。
クラリッサの頭の中に残っているのは、その名前と、結婚、という言葉だけ。
「──結婚。私が……ラウレンツ・クレオーメ様と……」
ぽつりと呟いたクラリッサに、ようやく現実を受け入れたと感じたのか。これまでクラリッサが大切なものを守るためにしてきた努力を何も知らない国王が、満足げに口角を上げる。
王太子が立てた手柄だが、国王にとってはこの技術交換協定が結ばれるのは自分の治世だ。国王の功績として数えられることが嬉しいのだろう。
そしてなかなか思うように動かないクラリッサを他国に追い払えることもまた、嬉しいと思っているに違いない。
「話は以上だ。分かったら部屋に戻り、恥を掻かないよう大人しく勉強でもしておくように」
国王がはっきりと言ったことで、使用人が閉められていた謁見室の扉を開ける。
もうこれ以上、クラリッサに割く時間が無いということだ。
「はい。……お父様」
国王は父親なのに、クラリッサのことを何も知らない。ただ知っているのは、愚かな女だという表面的な事実だけだろう。
我儘で、傍若無人で、傲慢な──。
しかし、もうどうでも良かった。
クラリッサは気を抜くと緩んでしまう唇を引き結んだ。足取りが軽くて、今すぐ走り出したいくらいだ。
そんなことをしたらこれまで築き上げてきた悪女のイメージが台無しだから、決してしないけれど。
廊下を早足で歩いた。
一刻も早く自室に戻りたい。そして、カーラに話したい。
不安もあるが、ラウレンツと結婚することが決まって、こんなにも嬉しいのだということを──。
「──クラリッサ」
クラリッサは背後から呼びかけられた声に立ち止まり、咄嗟に持っていた扇を広げた。今顔を見られたら、きっと気付かれるだろうと思った。
振り返れば、そこにいるのは嫌なくらいよく知った顔だ。
あの食事会の日から、一度も顔を合わせていなかった王妃だった。
どこか不機嫌そうな表情にはらはらしながらも、違和感の無いよう、親族の気安さを演出すべく軽く膝を折って挨拶をする。
「お母様。ご機嫌麗しゅう」
「挨拶は良いわ。それより……縁談の話は聞いたかしら」
どこから聞いたのだろうと考えたが、娘であるクラリッサの縁談を母親が確認しないはずがない。せめて平常心を装って、扇で隠しきれない目の表情に注意する。
「ええ、先程。お母様のお側を離れるなんて、寂しいですわ」
「私もそう思うのだけれど、国のためですからね。しっかりお役目を果たすのですよ」
「はい。両国の橋渡しとなるよう──」
クラリッサが口元を隠したまま微笑んで言う。
すると王妃がクラリッサの言葉を途中で切って、一歩踏み込んで距離を詰めてきた。
側にいる使用人に見られないようにか、開いた扇で口元を隠す。
「良い? クレオーメ帝国についての情報があったら私に報告しなさい。分かったわね?」
「……ええ、勿論です。分かっております……お母様」
心がずしりと重くなる。
王妃は満足げに笑い、ぽんとクラリッサの肩を叩いた。
「そう。それなら良いのよ」
王妃が扇を閉じてクラリッサから離れる。
クラリッサは叫び出したい衝動を堪えながら、背中を向けて来た道を引き返していく王妃の背中を見送った。
ようやく自室に戻ったクラリッサは、いつもと同じように寝台に飛び込んだ。
いつもならばカーラに愚痴を言いながらごろごろするのだが、今日は違う。
望外の事態にクラリッサの感情が付いていかず、ようやく緩めることができた顔はなかなか戻ってくれない。
「ラウレンツ様と結婚ですって! こんなことがある? ろくに信仰してこなかった神様が私のために特別サービスでもしてくれたのかしら。だって、だってそうでもないとこんなのあり得ないもの!」
素直に喜びの感情のままに寝台で転がるクラリッサを──そのはだけたスリットを──遠い目で眺めていたカーラが首を傾げる。
「クラリッサ様はどうしてそれほどに喜んでいらっしゃるのですか?」
本当に、素直に疑問に思っているという態度だった。
だから、クラリッサも素直に答えた。
「だって、私の初恋の皇子様はラウレンツ様なのだもの!」
「初恋の皇子様!?」
クラリッサはラウレンツに初めて会った日を思い出す。
偶然出会った幼いクラリッサとラウレンツは、互いに涙目になりながらも、強くなろうと誓い合った。
頑張っているのは自分だけでは無いのだと、互いに心の支えとして励まし合った。
ラウレンツが覚えているかは分からない。
それでも、クラリッサだけでも覚えていれば充分だった。
「そうよ。たとえラウレンツ様が忘れていたとしても構わないわ。だって、私は、私が一番憧れた人の元に嫁ぐのだもの」
思えば思うほど心は弾む。
今からその日が待ち遠しくなったクラリッサは、ラウレンツのことが少しでも知りたくなった。
住んでいる国は、家族構成は、育ってきた環境は。
ラウレンツは皇族であるため、それらの情報を知る方法はいくらでもある。
そしてクラリッサは、図らずも国王に勉強しろと言われたとおり、カーラにクレオーメ帝国についての資料を集めるように指示を出したのだった。