5章 お花畑ですこと
ラウレンツを見ると、いつの間にかエルトル侯爵ではない男性と話をしている。
年齢はラウレンツと同じくらいで、茶色い髪に緑色の瞳が印象的な細身の男性だ。ラウレンツとは仲が良いのか、軽い笑顔で肩を叩いている。
友人同士なのか、ラウレンツも気安げだ。
「──あんな顔で笑うんだ……」
クラリッサは胸がきゅうと握り締められたような痛みを覚えた。
ラウレンツと共に暮らすようになってからひと月。今日までクラリッサは、ラウレンツがきちんと笑ったところを見たことがなかった。
先程ダンスのときに少し笑ってくれたような気はしたが、それとは全く違う。
もっと気軽に出る、自然な会話の中の、屈託のない笑顔。
幼いあの日に聞いた、陰りのない笑い声。
男性と話しているラウレンツは、眼鏡のレンズの奥の目を細めて、猫のように笑っている。子供の頃と似ているようで少し違う、今のラウレンツの無邪気な笑い方だ。
クラリッサには決して向けてくれない表情だ。
「……お化粧室に行ってこようかしら」
どうせラウレンツは夢中になっていて、もうクラリッサのことなど忘れているだろう。
最初はパートナーと共にいた男女も、自然と離れて友人同士で話す者がほとんどになってきた。
クラリッサが一人でここを出ても、問題は何もなさそうである。
念のため近くにいた給仕に声をかけてから、そっと廊下に出る。化粧室は同じ階の廊下を一度曲がったところにあるようだ。
会場よりも照明が少ないせいでかえって月明かりが美しく届く廊下を歩く。かつんかつんと踵が鳴って、幻想的ですらあった。
誰ともすれ違わずに化粧室に着き、ドレスの隠しから口紅とアイライナーとハンカチを出す。
どうしても飲食をすると、化粧が落ちやすくなってしまう。ましてクラリッサは悪女らしい化粧をしているから、こまめに確認しなければ、化粧が滲む。
そこまで考えて、クラリッサは鏡の中の自分の顔が夜会に来たばかりのときと変わっていないことに気が付いた。
ダンスや社交で汗ばんだにも拘わらずだ。
しかしその理由もまた、クラリッサは理解していた。
「そうよね……だって、私のお化粧、前と全く違うもの」
すっかり夢中で忘れていたが、今日のクラリッサはフェルステル公爵家の侍女達によって、クレオーメ帝国の新しい化粧品で化粧をしてもらっている。
口紅は以前使っていた真っ赤なものとは違い、少し位落ちても気にならない自然な色。
アイラインも目尻をつり上げるような描き方はしていないので、汗で滲んだりはしない。
「これなら、直さなくても良いくらいだわ」
それでも折角来たのだからと、クラリッサは持っていた口紅だけ軽く塗り直した。
扉を開けて外に出て、来た道を戻る。廊下に分かれ道は無くて、迷わずに戻れそうだった。ラウレンツに心配させないように早く戻ろうと、そればかり考えていた。
かつんかつんと踵が鳴る。
静かな廊下に複数人の足音が混じり、クラリッサは顔を上げた。
そこには、クラリッサと同じか少し若いくらいの令嬢が五人立っていた。中でも先頭に立っている令嬢とその側にいる令嬢は、ドレスのデザインも質も素晴らしいものだ。
「ごきげんよう」
クラリッサは自然に挨拶をして、少し端に寄って道の中心を譲ろうとした。
立場としては同等かクラリッサの方が上だろうが、これまでのクレオーメ帝国ではこの令嬢は若い令嬢達の間ではかなり強い勢力を誇っていたのだろうと思ったからだ。
その方が、余計な争いを起こさずに済む。
舐められるつもりはないが、余計な争いは望んでいないのだ。
しかし踏み出した一歩に足を引っかけられ、クラリッサは思いきり転んでしまう。無理に踏ん張ろうとした右足が捻れ、無意識についた両手が床の大理石に当たってじんじんと痛んだ。
クラリッサを転ばせたのは、先頭にいた令嬢だ。
「あら、ごめんなさい? 大丈夫かしら」
全く悪びれていない声音で、令嬢はつい上がってしまうらしい口角を扇で隠している。
立ち上がろうとしたクラリッサは足首の痛みに僅かに顔を顰めた。ふらつかないよう意識して、壁に手をついて立ち上がる。
クラリッサは悪女ではない。
悪女のふりはしてきたが、その実、内面は良心的な令嬢であると自負している。
余計な争いは好まないし、平和が一番だと思っている。
そのためには多少の痛みも厭わない。
しかし、それはあくまで痛み以上の利益を得られる場合に限る。痛みに耐えても何も得られないのならば、それは耐える必要のないものなのだ。
「……大丈夫なように見えたのでしたら、貴女の頭は随分とお花畑ですこと」
壁から手を離したクラリッサは、目の前の令嬢を見据えた。




