5章 正しい言葉になるように
「皇太子殿下にご挨拶いたします」
「ああ、ラウレンツ。それとクラリッサさん。素敵なダンスだったよ」
皇太子夫妻は真面目そうな人物だった。
そして、少なくとも表面的には、嫁であるクラリッサにも友好的なようである。
思い出せば、ラウレンツとクラリッサの顔合わせのときに、皇帝の後ろに並んでいた気がする。
ラウレンツの両親なのだが、流石国同士の政略結婚というべきか、クラリッサは今日まで一度も挨拶をしないままここまできてしまった。
失礼なことをしたかと内心で慌てて、クラリッサは無言で頭を下げた。
しかしラウレンツはなんでもないことだというように、クラリッサの手を軽く引いて顔を上げるように促す。
「ありがとうございます、父上」
「今日は挨拶回りで大変だろう。クラリッサさんも無理をしないようにね」
「はい。気をつけます」
返事をしたのはまたもラウレンツだ。
皇太子は何かを言おうと口を開き掛けたが、直前で止めたようだ。
代わりに、隣に立っていた皇太子妃であるラウレンツの母親が、クラリッサに視線を合わせてゆっくりと話し始める。
「──ラウレンツもクラリッサさんも、急な結婚で大変だったでしょう。クラリッサさんは、今度お茶会に招待するから。そのとき、ゆっくり話しましょうね」
今度は流石に、ラウレンツが返事をすることはできないようだった。
クラリッサは微笑んで軽く腰を折る。
「ありがたいお言葉でございます。どうぞよろしくお願いいたします」
余計なことは言わないと、ラウレンツに約束をした。クラリッサはしっかりそれを守るつもりだ。
だから、正しい言葉だけになるよう、基本の挨拶の言葉を使う。
「それじゃ、またそのときにね」
ふわりと微笑まれて、クラリッサはラウレンツと共にしっかりと頭を下げた。
次の者に挨拶をするために移動しながら、クラリッサは内心で大興奮していた。
さっきから皇族──つまりラウレンツの親族と会話をしているため、ラウレンツの態度が普段とは全く違うのだ。
くだけている、というだけでもない。
ただ孫らしく息子らしく、ほんの少し声に反発心のようなものが混じっていた。
その結果、色気すら感じる理想の王子様そのもののような外見と裏腹に少年みを残した声音が、どうしようもなく魅力的なギャップとなっている。
こんなラウレンツが見られるのならば挨拶だらけなのも悪くはないと、クラリッサは心からそう思っていた。
それから大分時間をかけて、クラリッサとラウレンツは皇族達への挨拶を終え、ようやく会場の端で一休みすることができた。これ以降は、挨拶をされる側になる。
葡萄酒が入ったグラスを傾けているだけでも視線を感じるのは、二人に興味を抱いている貴族がそれだけ多いことを示している。
皇族は皆この政略結婚を正しく理解しているため、クラリッサが黙っていても何も言わなかった。
しかし貴族の、それも女性が相手となると違う。
令嬢の中にはラウレンツに憧れていた者も多いだろうし、高位の貴族夫人にとっては仲良くすべきかどうかの判断も必要だ。中には家族から入国したばかりのクラリッサの装いについて聞いている者もいる。
クラリッサは凜とした立ち姿を崩さないまま、グラスの中身を飲み干した。
ラウレンツがちらりとクラリッサに目を向ける。もう飲むなという目ではないが、本当に飲んでも酔わない姿に感心されているようではある。
クラリッサは口角を上げてそれに応えた。
そのとき、一人の女性がクラリッサの前に立った。
「ごきげんよう、良い夜ですわね」
皇太子妃と同年代のその女性は、上品な紺色のドレスを着ていた。裾があまり広がっていないドレスは上品で、控えめなレースが年齢相応の落ち着きと洗練された美しさを演出している。
「ごきげんよう、エルトル夫人」
ラウレンツがクラリッサよりも早く挨拶を返す。
エルトル侯爵家といえば、クレオーメ帝国建国から続く名家の一つだ。長く国防を担ってきた国にとって重要な家である。
引退した先代侯爵と今代の皇帝は学友で、今代の侯爵夫人は皇太子妃の幼馴染みでもあるらしい。
クラリッサはラウレンツの挨拶に合わせて一礼しながら、頭の中から情報を引っ張り出した。
「あら、私は奥様に話しかけましたのよ」
エルトル夫人は微笑みを崩さないまま、前に出て会話をしようとしたラウレンツを牽制する。クラリッサはその対応にどきりとした。
ラウレンツも無理のある会話だと自覚していたようで、少し言葉を詰まらせた。
「……ですが、妻はまだこの国に慣れておりませんので」
「構いませんわ。殿方は殿方でお話になっていらっしゃって」
ラウレンツの言い逃れは苦しい。そして、エルトル夫人から手で示された先にはエルトル侯爵がいた。これでは逃げられないだろう。
ラウレンツも諦めたようで、左腕に置いていたクラリッサの右手をそっと離した。
「何かあったら私を呼んで。すぐに来るから」
この場合の何かとは、クラリッサが暴れたくなったら、ということだろうか。
「ありがとう、ラウレンツ。大丈夫よ」
確かにアベリア王国ではクラリッサが令嬢達を虐めたり、貴族夫人と対立をして夜会をめちゃくちゃにしたこともあったが、悪女を装う必要がなくなった以上、もうそんなことをする必要は無い。
誰かに簡単に話せることではないが、そもそもそうした行動を取っていたのには、悪女のふりをしながらもアベリア王国の国民を守るための重要な理由があった。
ラウレンツの心配は全くの杞憂なのだ。
ラウレンツは後ろ髪を引かれながら、手を上げてラウレンツを呼ぶエルトル侯爵の元へと歩いて行く。
残されたクラリッサは、エルトル夫人に向き合ってにこりと微笑んだ。




