5章 絶対大丈夫です、多分
「楽しいわ。とっても、楽しいわね」
どれだけ無茶をしても、ラウレンツは適切にクラリッサの手を引いて、離れすぎないようにしてくれる。その安心感も満足感も、クラリッサが初めて味わうものだった。
こんなに楽しく踊るのは初めてだった。
無理に悪女を演じなくて良い。ただ、クラリッサがありたいように立ち、ありたいように踊れば良い。
なんて心が自由なのだろう。
いつの間にか忘れていた子供の頃のような無邪気な笑顔が零れ出た。
音楽が終わりに近付いてくる。
思い切り踊った身体の疲労感よりも、もっと踊っていたいという高揚感の方が大きい。
いつの間にかラウレンツも楽しげだった。
もっと。もっと。
この楽しい時間が、終わらなければ良い。
少しずつ速度を落としていく演奏に、クラリッサの足取りも重くなる。
最後にくるりと回ってラウレンツに引き寄せられると、抱き締めるようにそっと身体に腕が回された。
「はぁっ……はぁ」
乱れた呼吸が周囲に気付かれないように、クラリッサは肩を動かさずに薄く開けた唇の隙間から息を逃す。少し汗ばんでいるのは、調子に乗りすぎたせいかもしれない。
クラリッサよりもずっと落ち着いた呼吸をしているラウレンツは、そんなクラリッサの手を引いてダンスフロアを横断した。
「えっ、何? どうし──」
「少しテラスで休もう」
ちらりと振り返ると、ダンスフロアでは踊っていた皇族達が戻っていき、周囲では男女が誘い誘われを繰り広げていた。
どうやら、もう出番は終わりらしい。
クラリッサは素直にラウレンツの言うとおり、一番近いテラスに向かう。
扉を開けて外に出ると、今日が月見の宴だからだろう、テラスには休憩用のソファとサイドテーブルがあった。
並んで座ると、給仕が二人分のグラスを持ってくる。
腰を下ろしてグラスを傾けると、火照った身体に冷たい液体が染み込んでいくのを感じた。
「あまり勢いよく飲むと酔うと思うけど」
「強いから大丈夫なのよ」
クラリッサは言い返して、また一口飲んだ。
ソファには少し厚手のストールも置いてあり、クラリッサは遠慮せずにそれを肩に掛けた。
「この後、落ち着いたら皇帝陛下に挨拶をして、それからしばらく挨拶回りをすることになる。大丈夫?」
「ええ、平気よ」
ラウレンツは冷たい人なのだと思っていたが、こうして一緒に過ごしてみると、心配しすぎなくらいクラリッサを気遣ってくれている。
そういうところは、幼い頃から何も変わっていないのかもしれない。
「これでもアベリア王国の王女だもの。社交の場には慣れているのよ」
クラリッサは、ふふん、と安心させるように胸を張る。
それを見たラウレンツは、左手で眼鏡の位置を直して眉間に皺を寄せた。
「……隣で黙って笑っていてくれれば良いから。本当に、余計なことは言わなくて良いから。頼むから、問題は起こさないでね」
ラウレンツが念を押すように言う。
クレオーメ帝国ではもう悪女のふりをする必要が無いクラリッサは、絶対大丈夫だというように微笑んだ。クラリッサが問題を起こさなければ、揉め事など起こらないだろう、という自信があった。
「──皇帝陛下にご挨拶いたします」
皇族席に挨拶に行ったラウレンツは、正式な皇帝への礼をして、決まり通りに口上を述べた。
皇帝はそんなラウレンツに、最初の挨拶の威厳が嘘のように快活な笑みを向ける。
「おお、来たか。ラウレンツと嫁」
「来ましたよ、お祖父様」
「いや、さっきのダンスはなかなか見応えがあった。面白かったぞ」
「……面白がらないでください」
ラウレンツもそんな皇帝に対して、孫らしいどこか子供っぽい素直な言葉で応対していた。クラリッサは姿勢を崩さないようにしながら、ラウレンツの隣で優雅な立ち姿を維持し続ける。
「嫁はダンスが得意なのか?」
「ええ。そうですね」
クラリッサに向けられたらしい質問に、ラウレンツが答えた。
黙って笑っていれば良いというのはこういうことらしい。余程クラリッサの悪女の噂を警戒しているのだろう。
クラリッサはラウレンツの意図を理解して、小さく頭を下げるのみに留めた。
しばらく会話をしていたが、やがて皇帝は面白いものを見るようにラウレンツとクラリッサを見て、傍目にも分かるように思いきり口角を上げた。
「折角出席したのだから、楽しんで行きなさい」
「ありがとうございます。では失礼いたします」
ラウレンツに合わせて、クラリッサもまた礼をする。
クラリッサは引かれる腕に任せて早足でその場を離れた。背後から次の者が挨拶をする声が聞こえてくる。
「……よくやった。それで良い」
「いいのかしら?」
「良い。とにかく今日の目標は、問題を起こさず帰ることだからね。クラリッサにとって初めての夜会だが、私にとってもフェルステル公爵としての最初の社交だ」
「そう、そうだったわ」
言われてみれば、クラリッサとの結婚を機にフェルステル公爵となったラウレンツは、これまで皇族側で出席していたのだ。
領地は皇族の頃に管理していたものをそのまま貰っているが、今後はその立場に見合った振る舞いを求められるだろう。
そのために皇帝とは変わらず仲が良いことを示すのは重要だ。
同時に、そんな大切な場だからこそ、他国から嫁いできた妻が無害だということも周知したいのだろう。
「このまま他の皇族に挨拶回りをして、それから挨拶を受けるから、疲れたら言ってほしい。分かった?」
「分かったわ」
クラリッサはしっかりと頷いて、次に挨拶に行く皇太子夫妻に視線を向けた。




