5章 私を誰だと思っているの
「皆、今宵は満月だ。満ちた月の美しさに酔い、語らい、大いに楽しむとしよう」
その言葉で、皆がグラスを掲げる。
クラリッサはここでやっと、この夜会が月見の宴であることを知った。だから夜にも拘わらず窓のカーテンが全て開けられていたのだ。
クラリッサは皇帝に圧倒された震えを、夜会の趣旨を教えてくれなかったラウレンツへの小さな怒りに変換して、背筋を伸ばしてグラスを傾けた。
爽やかな味の果実酒が、するりと喉を通り抜けていく。
「クラリッサ、貴女は酒を飲んで平気か?」
ラウレンツが問いかけたのは、クラリッサと飲むのが初めてだからだろう。パートナーの女性が酔って醜態を晒せば、それはラウレンツのせいでもある。
「私は強いから大丈夫よ」
「……それもそうか」
それは、悪女が酒に弱いはずがないか、ということだろうか。
見た目を変えたことで以前よりもまだ普通に会話ができるのは嬉しいが、やはり誤解されたままでいるのは寂しい。
だからといって直接クラリッサが悪女だというのは嘘だと言ったところで、きっと意味はない。それどころか、何を企んでいるのかと疑われる可能性すらある。
結局変わらないのだと自分を納得させながら、クラリッサは皇帝夫妻が踊るファーストダンスを眺めた。
長く連れ添ってきたが故に乱れが全く無いダンスを、無意識に目が追ってしまう。
すっかり夢中になっていて、曲が終わった瞬間、クラリッサは一気に意識を取り戻す。社交の場で何かに集中して周囲からの視線の存在を忘れるなんて、これまでほとんど無かったのに。
だって、そんなことをしていたら、完璧な悪女でなんていられなかった。
クレオーメ帝国に嫁いできて約ひと月。どうやらクラリッサは、フェルステル公爵邸の使用人達との穏やかな生活に慣れすぎてしまったようだ。
そんなことを考えていたクラリッサを知ってか知らずか、ラウレンツが突然クラリッサから手を離した。
「──踊って、いただけますか?」
隣にいた筈のラウレンツが、クラリッサに左手を差し出している。優雅に腰を折るその姿は、皇族らしく堂々としている。
眼鏡のレンズ越しの青い瞳がクラリッサの目をまっすぐに射貫いた。そこに僅かに悪戯な色が浮かんでいるのは、クラリッサの気のせいだろうか。
「あ……そ、そうね」
クラリッサは誰にも気付かれないように、ちらりと周囲を確認する。
皇帝夫妻が踊った後は、皇族が踊ることになっているらしい。
ラウレンツは臣籍降下しているが、他にも現皇帝の直系である家の当主達も出ているから、ラウレンツも該当するようだ。
そして今日、クラリッサとラウレンツは結婚後初の社交の場で、誰もが興味を抱いている。
先にダンスフロアに出ている皇族達が、皆ラウレンツとクラリッサを見ていた。
クラリッサは困惑と緊張を隠して、慣れた微笑みを身に付ける。
そうして、皇族達にも決して見劣りしない、今夜の月より美しいのは自分だけだと思い込むように、心の芯をぎゅっと太くして、ラウレンツの手に右手を重ねた。
「ええ、喜んで。一緒に楽しみましょう」
大きな声ではない。しかし浴びた注目の分だけ周囲を威圧するように、よく通る声で。この会場にいる者全員に、クラリッサの声が聞こえるだろう。
艶のある声でクラリッサが返事をすると、ラウレンツは僅かに目を見開いて、口元の笑みを深くした。
「面白いな」
ラウレンツがクラリッサの手を引いた。その確かさに鼓動が早まった。
新婚だからか、他の皇族達が中心に行けというように場所を空けてくる。ラウレンツもそれに応えて、当然のようにクラリッサを今夜の中心に連れて行く。
向かい合い、クラリッサの腰をラウレンツの手が支える。クラリッサは自然な仕草で、自身の腕をラウレンツに沿わせた。
音楽が流れ始め、最初の一歩を同時に踏み出した。
くるり、と回ると、クラリッサのドレスの裾もふわりと舞う。
ラウレンツのリードはどこか過保護で、クラリッサには少し窮屈でもある。
何かやらかさないかと心配しているのだろう。側に置いて、問題を起こさないようにしたい。そんな感情がそのまま乗っているかのようで、少し狭い。
「──大丈夫か?」
心配しているかのような言葉に、クラリッサは少し苛ついた。
アベリア王国一の毒花。
美しく咲く悪の華。
その姿は作り物だったが、確かに、クラリッサが積み上げてきたものだ。
ラウレンツに心配されるほど、過保護な檻に入っていられるほど、大人しいものではない。
「……私を、誰だと思っているのかしら」
クラリッサは次の見せ場で思いきりラウレンツの腕の中から飛び出した。
二人、ペアで踊っている形を崩さないようにしながらも、思いきり身体を動かしてラウレンツをクラリッサのペースに引き摺り込む。
ラウレンツは元々ダンスが得意なのか、最初こそ驚いたふうだったものの、すぐにクラリッサについてきた。
手を取り、離れ、また戻り、離れて、すぐに引き寄せられる。
自由に舞う蝶のように。
蝶を誘う芳しい花のように。
クラリッサとラウレンツのダンスは、会場中の視線を集めていた。
「貴女は……まったく」
ラウレンツがクラリッサにしか聞こえないよう耳元で囁く。
ほんの僅かに息が上がった、普段よりも吐息の多い響きにぞくりとする。
踊っているせいではない頬の上気に動揺しながらも、クラリッサは感情のまま、ラウレンツに笑顔を返した。




