5章 善処するとしか言えないわ
そして、夜会の日。
午前のうちから侍女達の手によって丁寧に飾られたクラリッサは、鏡の前に立って頬を染めた。
鏡の中には、まるでどこかの国の姫のように上品で美しく着飾った自分が映っている。
アベリア王国での自分とは別人のような、華やかだが派手ではない姿に、ついつい溜息が零れる。
「皆、ありがとう……! こんなに素敵に着飾ったの、私、初めてよ」
クラリッサが涙ぐむと、カーラも感激の表情で、しかし慌ててハンカチを差し出してくる。
「クラリッサ様、泣いたら折角綺麗に着飾ったのに台無しですよ。お願いですから我慢してください」
「そうよね、ごめんなさい」
クラリッサはすぐにハンカチを受け取って、そっと目尻を拭った。
まっすぐな銀の髪は派手になりすぎないように毛先を緩く巻いて、サイドを編み込んだハーフアップに纏めた。髪飾りは、事前に用意したものだけを使い、余計な装飾は付けなかった。
アイラインは控えめに、唇には柔らかな桃色の口紅を塗り、全体的に控えめにした。
クラリッサは元々顔立ちが華やかで整っているのだ。
そこに太いアイラインを引き、赤の強い口紅を塗っていれば、それだけできつい印象になるのは当然だろう。
化粧を変えただけで、きつい美人の悪女から、現実離れした美しさを感じさせる社交界の華のように印象ががらっと変わった。
「私も、このようなお仕事ができて心から嬉しいです……!」
「こんなに美しい方、初めて見ました!」
「旦那様はお幸せですね……」
カーラ以外の侍女達も、口々にクラリッサを褒める。
クラリッサは侍女達との距離が縮んでいることに嬉しくなって、また涙が零れてしまいそうになるのをぐっと堪えなければならなかった。
公爵家に嫁いだばかりの頃とは全く違うほのぼのとした雰囲気に包まれていると、不意に部屋の扉が叩かれた。
「支度は終わりましたか」
ラウレンツの声だ。
時計を見ると、もう邸を出る予定時間の五分前だった。穏やかな空気が嬉しくて、ついゆっくりしすぎてしまったらしい。
クラリッサは慌ててショールを羽織った。
「──終わってます! 今行きますわ」
扉を開けて、待っていたラウレンツに控えめに微笑みかける。
「お待たせしてしまいましたわ。ごめんなさい」
「支度に時間をかけすぎ……いや。なんでもありません」
ラウレンツは文句を言いかけたが、すぐに言葉を引っ込める。
どうしたのだろうと首を傾げると、ラウレンツが左手で眼鏡を直して視線を斜め下に逃がした。
頬が少し赤くなっているのは、気のせいでないと良い。
「いいえ。女性のドレスには時間がかかるのですよね。それだけ綺麗に飾っているのですから、当然のことでした」
「ありがとうございます……?」
「もっと素直に喜んでいただいて構いませんよ。大体、そんな顔があるのに何故けばけばしくする必要があったのか……服装の好みだけでも変わってくださって助かりました」
ラウレンツが服装の好みだけでもと言ったのは、クラリッサの中身が悪女だと思っているからだろう。
貴族令嬢をいじめ、性に奔放で、贅沢三昧の悪女。
今思えば、本当にとんでもない悪女にされてしまった。
しかしこればかりは、これまでのクラリッサ自身の言動が原因のことなので、仕方がないと思うしかない。
まずは今日の夜会で、少しでも挽回できるように頑張ろう。
クラリッサはそう決めて、覚悟と共にぎゅっと拳を握り締めた。
「それでは、参りましょう」
クラリッサはこれから戦場にでも行くかのような気持ちで一歩踏み出す。
しかし、その手がくっと軽く後ろに引かれた。
大きな手だ。クラリッサの手よりも固くて、少し乾いている。
それが何かを理解した瞬間、クラリッサは直前までの張り詰めた気持ちが一気に霧散してしまった。
どきどきと、心臓の音が煩い。
振り返って、ラウレンツの顔を見上げた。
「……夜会に行く前に一つだけ。今から私は貴女のことをクラリッサと名前で呼びます。貴女も、私のことはラウレンツと呼び捨てて構いません。良いですね?」
繋がれた手。
名前で呼び合うという親密な要求。
これでは、まるで本物の夫婦のようだ。
「な、何故です?」
クラリッサはうわずる声で問いかける。
「何故って、夫婦ですから」
ラウレンツが僅かに気まずげに、しかし当然のことのように言った
ラウレンツの中の夫婦像とは、そういうものなのだろう。
確かに、敬称をつけたままの夫婦はいるが、これまでのラウレンツのように『王女様』と呼ぶような夫婦は滅多にいない──というより、いたら不仲を疑うだろう。
しかしどんな理由であれ、クラリッサとしてはラウレンツとの距離が縮まる提案はなんでも大歓迎だ。むしろ、こちらからも提案したい。
「それでしたら、敬語もなくしてしまいませんか? 私達、王族と皇族の結婚ですもの」
「……それもそうですね。いや、そうだね、か」
「ええ、そうよ」
クラリッサはラウレンツが自分の提案をすんなりと受け入れてくれたことに喜んだ。これなら、表向きには仲の良い夫婦に見えるはずだ。
クラリッサは思いきって、ラウレンツの腕に手を掛けてみる。エスコートの基本姿勢だが、ここまでの接近は初めてだ。がっしりとした腕に、頬が染まる。
「夫婦なら、こうしてエスコートしてくれるわよね?」
「……そうだね。それが普通だろう」
少しぎこちないラウレンツは、クラリッサの手をそのままに少しゆっくりと歩き出した。
「あと、もう一つだけ。くれぐれも……くれぐれも、夜会で面倒は起こさないで」
「善処する、としか言えないわ」
クラリッサの返事に、ラウレンツが溜息を吐いた。




