1章 可愛い弟を守ります
これならば万一アンジェロが口にしても命に関わることはなく、クラリッサも王妃を騙すことができる。
念のため、アンジェロには事前にこっそりと毒を仕込むと伝えておいた。
普段からクラリッサの嫌がらせに慣れているアンジェロは、当然のように毒を回避してくれるだろうと思っていた。
その程度の信頼を、クラリッサは自身の異母弟に対して抱いていた。
「お母様はどうしているかしら」
クラリッサが聞くと、カーラはちらりと時計を見た。食事会がお開きになってから、そろそろ三十分が経つ。
「調べてきますね」
「お願いね。もし大丈夫そうなら、アンジェロの顔も見たいわ」
「かしこまりました」
カーラが一礼して部屋を出て行く。
クラリッサは二本の小瓶を手に取り立ち上がった。そのまま、自室に備え付けられた浴室に移動する。排水口を前にして、両方の小瓶の蓋を開けた。
「……残っていたら、疑われてしまうから。ねえ」
それから、躊躇無く毒と硫黄の両方を水と共に排水口に流し、硫黄が入っていた方の小瓶だけ思いきり壁に向かって投げつけた。
その大きさに相応しい音と共に、繊細な意匠の小瓶は原型が分からないほど粉々になる。
残ったのは、毒物が入っていた方の小瓶だけだ。
クラリッサは床のタイルの上できらきらと光っている硝子の破片を満足げに見つめて、浴室を出た。寝台に戻り、毒物が入っていた方の小瓶を鍵付きの机の抽斗にそっとしまう。
しばらくして戻ってきたカーラは、王妃が自身のお抱えの騎士にスープを処分させたと報告した。
今は貴族の夫人を呼ぶの茶会の支度をしているらしい。
アンジェロの部屋は別棟にある。
クラリッサは赤い口紅を塗り直し、高価な毛皮のショールを肩に掛けて部屋を出た。背筋を伸ばし、不敵な表情を浮かべ、側には無表情のカーラを連れて。
誰かに見られても、クラリッサが部屋に戻ったアンジェロを追って虐めているのだと思われるように。
「──アンジェロ。ここにいるのよね?」
クラリッサはアンジェロがいる部屋の前で、高圧的に声をかける。
「は……はい。姉上……っ」
まだ声変わりをしていない子供らしい声が、不安げに揺れている。
クラリッサはそれに構わず、カーラに扉を開けさせた。
「いるのなら入って構わないわよね、カーラ、すぐに扉を閉めて」
「はい」
クラリッサが室内に入ると、すぐにカーラが扉を閉める。
廊下にいた使用人達は、悪女であるクラリッサがここまでアンジェロを苦しめに来たのだと噂していた。
しかし、室内の様子は彼等の想像とは少し──いや、大きく異なる。
「ああっ、姉上……!」
半泣きでクラリッサに抱き付くアンジェロ。
クラリッサの異母弟であるアンジェロはまだ十一歳と幼く、苦労も多いというのに見た目にはまだ子供らしいあどけなさがある。
クラリッサはアンジェロを両手でそっと抱き締めて、目尻をはっきりと下げた。
「アンジェロ。無茶をさせてごめんなさい……怖かったでしょう?」
「大丈夫です。姉上が守ってくれましたから」
アンジェロのクラリッサと同じ色の瞳に、涙が溜まり潤んでいる。
クラリッサは安心させるようにゆっくりと背中を擦ってやった。
「ほら、泣かないの。アンジェロは上手くやったわ。お芝居が上手すぎて姉様驚いちゃったくらいよ」
「本当ですか!?」
瞳に溜まっていた涙を手の甲でぐいと拭ったアンジェロが、顔を上げてクラリッサを見る。その表情が褒められて嬉しいというように輝いていて、クラリッサは思わず苦笑いをした。
どうやって、この可愛い弟を害そうと言うのか。
命令する王妃も放置する国王も、クラリッサは大嫌いだ。
それから数日後、王城内は急に騒がしくなった。
原因はクレオーメ帝国に留学していたクラリッサの同母兄、エヴェラルドが帰国してきたことである。
自由奔放、研究好きなエヴェラルドは、これまでにもふらりと姿をくらますことがあった。
王太子であるエヴェラルドがそんな調子でも周囲から何も言われずにいるのは、戻ってきたときに持ち帰る功績がいつも大きいからだ。
それでも今回は一年間。
しかも「留学をする」と言ってからたった一週間で王城を出て行ってしまったものだから、皆が驚いていた。
さて、一年かけて何を手にしてきたのか。
国王から呼び出されたクラリッサはどきどきしながら、謁見室の扉を開けた。
「──久し振りだね、クラリッサ」
玉座に座る国王の横に、エヴェラルドがいた。すっきりと上品に微笑む表情は以前までと変わらず、クラリッサは懐かしさに泣きそうになる。
「お兄様……!」
まっすぐな黒髪と赤い瞳は父親である国王譲り。
顔立ちはクラリッサと似ているが、クラリッサよりも優しげに見えるのは、エヴェラルドの表情のせいか、クラリッサの化粧のせいか。
ぐっと涙を堪えて、クラリッサは深いスリットが入った青いドレスの裾をふわりと持ち上げ膝を折った。
顔を上げると、もうそこには不敵な笑みを浮かべている。
「──お帰りなさいませ、お兄様。行くのも急でしたら、帰ってくるのも急ですのね。どのようなご用事ですか?」
つんと澄ましたように胸を張る。
クラリッサの態度にエヴェラルドは少し困ったように眉を下げたが、すぐに気を取り直したように微笑みの表情に戻した。
「エヴェラルドは、今回クレオーメ帝国との医療分野での技術交換協定を取り付けてきたのだ」
クラリッサの問いに答えたのは国王だった。
そしてその内容に、クラリッサも目を見張った。
「それは……っ!」
なんて素晴らしい提案だろう。
アベリア王国は小国ながら豊かな自然に恵まれ、自然と共に生きてきた。
そしてこの王城内に薬学研究所と薬草園があるほど、薬学については知識が深く、小さな村にも必ず薬師が一人はいるほど国民に薬というものが浸透している。
しかしその一方で、人体についての理解や最新の手術や医療機器についての技術が遅れており、それは国全体としての課題であった。
一方クレオーメ帝国は大国に相応しい最先端の医療技術を持ち、このアベリア王国では治療が不可能とされている病の治療法すら確立されているという。
「クレオーメ帝国側には、医師の診察を広く国民が受けられないという問題があるそうだ。特に自然への理解が遅れている国でもあり、薬学には我が国から見ても未成熟なところが多い。そこで、エヴェラルドが互いの技術を学び合おうと打診し、協定を結んできた」
国王の説明に、クラリッサはなるほどと頷いた。
一年間の留学は、このためだったのか。
今回もエヴェラルドは素晴らしい結果を持ち帰ってきた。
自分の兄ながら誇らしいと暢気に考えていたクラリッサは、エヴェラルドの次の言葉で驚かされることになる。
「そこでクラリッサには、この協定のためにクレオーメ帝国に嫁いでもらおうと思ってね」
クラリッサは悪女らしく表情を作ることも忘れ、ぽかんと口を開いた。
「──……はい?」