4章 聞いてはいるけれど
クラリッサが食堂へ行くと、ラウレンツは書類を読みながら紅茶を飲んでいた。ラウレンツが書類から顔を上げ、クラリッサを見る。
クラリッサは顔を上げ、ドレスの裾を軽く持ち微笑む。
「──おはようございます。お待たせいたしました、ラウレンツ様」
「おはようございます。……昼食はこちらで食べるというので待っていましたが、まったく……悪女は朝寝坊なばかりでなく、支度にも無駄に時間がかかるのですね」
「ええ……」
クラリッサは曖昧に返事をして、使用人が引いてくれた椅子に腰掛ける。
「昨日からずっと思っていましたが、そのドレスのデザインもどうなっているのですか。女性が背中を腰より下まで露出したり、足を見せるような……そんなものがアベリア王国では流行しているのですか?」
「そうですわね……」
話の内容はほとんど耳に入っていない。
食事が運ばれてきた。クラリッサは無言のまま祈りを捧げて、カトラリーに手を伸ばす。最初に食べたサラダは野菜が新鮮で口の中でしゃきっと音を立てる。
クラリッサは先にスープを飲もうと決めて、スプーンに持ち替えた。
本当に、なんて良い声なのだろう。
まるで天上の音楽に心が洗われるような、それでいて甘く蕩けてしまいそうな、そんな声だ。せっかく今話してくれているのだから、この声をサラダの音で邪魔したくない。
静かにスプーンを口に運びながらそっと目を閉じる。ラウレンツの顔も好きだが、声の前には顔など無力。初恋の相手だったからというのも勿論あるが、この声を特等席で聞けるだけでも結婚して良かった。
クラリッサはすっかりラウレンツの声に酔いしれていた。
「……私の話を聞いているのですか?」
ラウレンツの声が止まる。
はっとして目を開けて、ラウレンツの綺麗な顔に皺が寄っていることに気が付いた。
「き、聞いておりますわ!」
聞いていなかっただなんて、とてもではないが言い出せない。いや、ラウレンツの『声』ならば聞いていたから、決して嘘をついてはいない。
しかしこれ以上この話を掘り返されるのも面倒だ。
クラリッサは自分から話題を変えることにした。
「ラウレンツ様は、今日はお休みでしたか」
「……ええ。流石に、結婚式の翌日は休日にしました」
「そうですよね! 私ったら失礼いたしました。あの。ところで、私、商人を呼びたいのですけれど」
「商人?」
無理があると思ってはいたが、ラウレンツはあまり気にならなかったようだ。
クラリッサはこれ幸いと頷いて、話を続けることにした。あまり多くラウレンツに話をさせたら、またクラリッサは話を聞けなくなってしまう。どうにか集中して、話の内容を耳に入れようと、クラリッサはこっそり机の陰で手の甲を抓った。
「ええ。家具と、ドレスなどを揃えたいと思いまして」
「──…………悪女が浪費か」
ラウレンツがぽつりと呟く。
クラリッサははっきりと聞き取れなかった言葉に小さく首を傾げた。
「なにか仰いました?」
「いいえ、なんでもありません。そうですね、身元が確かなものならばこの邸へ招いて構いません。ただ、直接でなくても構いませんので、来客がある際には事前にエルマーに伝えてください」
「分かりましたわ」
「ああ、それと、お金は公爵夫人の予算として用意した分がありますので、後で確認してください。予算内でしたら好きにして構いません」
「ありがとうございます、ラウレンツ様」
後でカーラに頼んで確認してもらおう。
クラリッサはそれきり口を噤んでしまったラウレンツに安心し、同時に残念にも思った。あの声をもっと聞いていたかった。
無言の食事には慣れていて、今更クラリッサが何かを思うことはない。
クラリッサは新鮮な食材が使われた料理に感心しながら、美味しい食事を楽しんだ。
「──クラリッサ様、エルマーから書類を預かってきました」
「ありがとう。確認するわ」
自室に戻ったクラリッサは、早速カーラに頼んでエルマーからクラリッサの分の予算を聞いてきてもらうことにした。
書類には、月毎と年間合計の金額がずらっと並んでいる。
クラリッサはそれを見て、目を丸くした。
「これ、本当に私個人の予算? この家のじゃなくて?」
「はい。そうエルマーが言っていました」
「こんなに……どういうつもりかしら。アベリア王国の方が立場が低いのは国力を考えても当然のことなのだから、悪女である私を冷遇しても誰も文句を言わないでしょうに」
その金額は、アベリア王国ならば伯爵家一つ分の予算とほとんど変わらなかった。
とんでもない好待遇である。
こんな金額を自分にぽんと預けてどうするつもりかと不思議に思うクラリッサに、カーラが笑う。
「どういうつもりって、お金があるってことですよ。臣籍降下するときにも貰っているでしょうし、クラリッサ様もご存じの通り、領地も良い場所なので固定収入があります。この邸だってわざわざ今回のために建てたって話です。それに、公爵夫人ともなれば社交への招待も多いでしょうし、この邸で開催することもあるでしょう。そういったものに使うお金でもあるようです」
「それはすごいわね」
「……まああの人でしたら、悪女をお金で大人しくさせておこうとか、そういう意味もあるかもしれませんが」
「う……そ、それはもう仕方がないわ!」
侍女達に頼んだとはいえ素材が変わるものではない。当然無茶は無茶、不可能は不可能である。
胸元が開いた裾が開いた紺色のドレスに、ペチコートを重ねて縫い合わせて足の露出を抑えた。胸元にはレースの布をギャザーを入れて縫い付けることで、谷間が見えないようにした。
しかしそれでも派手な美人顔のクラリッサがそれを着ると、かえって禁欲的な色気が溢れてしまったのだ。そもそも持ち込んだ化粧品を変えていないので、口紅は鮮やかな赤。
どう考えても、その時点で公爵夫人らしい清楚さやたおやかさとは無縁だ。
クラリッサがどれだけ悪女らしくない見た目になりたいと思っても、ここにあるドレスと宝飾品ではとても無理なことだった。
クラリッサは溜息を一つ吐き、すぐに指示を出す。
「とにかく、カーラ。信頼できる商人とデザイナーを呼んでくれる? できれば、ラウレンツ様との付き合いのない者が良いから、エルマーに確認してね」
「付き合いのある者にした方が、クラリッサ様が変わろうとしていることを分かってもらえるのではありませんか?」
カーラが不思議そうに問い返す。
クラリッサは熱くなる頬を扇で隠した。扇に付いた鳥の羽が、ふぁさぁと揺れる。
「だって……私がこんなことをしているってばれたら、恥ずかしいじゃない……」
クラリッサの言葉に、カーラは何事かを言うのを呑み込んで、一礼して部屋を出て行った。




