3章 なんて素敵な声なのかしら
夜会に招待されていたのはクレオーメ帝国の皇族を含む高位貴族達と、アベリア王国から来た外務職員達だった。
クラリッサが王妃からクレオーメ帝国やラウレンツについての情報があれば流すようにと言われていることを、ここにいるアベリア王国側の人間は知っているだろう。
クラリッサがクレオーメ帝国に嫁いでも、これまで通りに王妃とベラドンナ王国の傀儡として操りやすい悪女であることを示さなければならない。
アベリア王国に残してきたアンジェロのことが心配だった。
エヴェラルドが頑張るとは言っていたが、だからといって王妃が万一暴走してしまったら、簡単にアベリア王国内の権力バランスは崩れるだろう。
そう思って気合いを入れていたから、夜会はあっという間に終わった。
王国で用意された深紅の足に深くスリットが入ったドレスのことも、クラリッサと目を合わさず招待客と談笑を始めたラウレンツのことも、あまり気にならなかった。
そうしてあっという間の結婚披露の夜会を終えて、クラリッサは入浴し、今、初夜の新妻らしさに欠ける夜着を着て、夫婦の寝室にいる。
透け感どころの騒ぎではない生地の薄いワンピースは胸元に小さなリボンがいくつも付いており、リボンを引くだけで脱ぐことができるというものだ。
上着を羽織ることでどうにか危うい部分が隠れているが、その上着もやはりフリルがあしらわれた薄いものだった。
まだ少し湿っている髪も、何も守ってくれていない夜着も、クラリッサの鼓動を早くするばかり。
逃げ出そうにも逃げ場は無く、相手がラウレンツだと思うと心臓が変な音を立てる。
「大丈夫……大丈夫よ」
ラウレンツはきっと優しい人だから、クラリッサに乱暴をするなんてことはないだろう。久しぶりの再会だとはいえ、クラリッサは幼少期のラウレンツに対してその程度の信頼を持っている。
「でも、これは……どこで待っていたら良いのかしら」
いくら手持ち無沙汰だとはいえ、机に向かうのは違う。
先に酒を飲むことも多いと聞くから、やはりソファだろうか。
それとも、寝台の上だろうか。寝台の上ならば、座って待つのか、横になって待つのか。
男性を誘惑してみせることもあったクラリッサだが、実はこれまで男性経験は全く無い。
正真正銘、これが初夜である。
しかも、通常貴族令嬢の婚姻のときには母親や既婚の使用人が初夜への心構えを教えるものなのだが、クラリッサは経験豊富な悪女だと思われるように仕向けてきたため、誰も何も教えてくれなかった。
まさか経験が無いなんて考える者はいなかったのである。
良かったような、悪かったような。
教えてもらっていたとしても落ち着いて待つことなどできなかったに違いないから、結果は同じだったかもしれないけれど。
そうしてそわそわと過ごしていると、しばらくしてようやく当主の部屋と繋がる扉が軽く叩かれ、ラウレンツが入ってきた。
どこで待っているかの答えが出ないままだったクラリッサは、ソファと寝台と椅子をぐるぐる移動しており、ちょうど寝台の中心にぺたりと座っているところだった。
顔を上げたクラリッサは、ラウレンツのシンプルな夜着姿に目が留まり、咄嗟に頬を赤くした。しかし王族らしい気品を失うわけにはいかない。
恥じらいを隠して優雅に微笑み、ラウレンツを室内に迎える。
「ラウレンツ様。お待ちしておりました」
その振る舞いを見て、ゆっくりと入ってきていたラウレンツは一瞬足を止めた。
「やはり、噂は本当だったか……」
ラウレンツが小さく呟いた。
その声を聞いた瞬間、クラリッサは身体を震わせた。同時に僅かに首を傾げたのは、言葉の意味が分からなかったからだ。
今、自分の姿がラウレンツからどう見えているのかにも気付かずに。
「──エヴェラルドに言われて王女と結婚することを了承しましたが、まさかこんな人間だったとは思いませんでしたよ。まったく、エヴェラルドは一体何を考えているのやら……ともあれ、私は貴女のような悪女を嫁に迎えるためにこの邸を支度していたわけではありません。正直に言って、最悪な気分です。……まあ、貴女と結婚するのはこの国とエヴェラルドのためです。ですので仕方がありませんからね、公爵夫人として充分な予算だけは用意してあげます。それ以上に浪費をしたら、私は容赦なく貴女の持ち物を売りに出しますよ。精々覚悟しておいてください。ああそれと、この邸の使用人は私が皇城にいたときから仕えてもらっている者達ばかりです。貴女が彼等に何かしたら、私は迷わず貴女を追い出しますから、そのつもりで過ごしてくださいね」
あっけにとられて何も言えずにいるクラリッサの前で、ラウレンツが左手で眼鏡を上げた。
「話は以上です。この部屋も勝手に使ってください。それでは、おやすみなさいませ」
ラウレンツが踵を返して夫婦の寝室を出て行った。
当主の部屋へと繋がる扉が音を立てて閉まり、クラリッサははっと意識を取り戻す。
頬が熱い。身体もなんだか火照っている気がする。
「──…………なんて、素敵な声なの」
こんなに長くあの声を聞いていたのは今が初めてだった。
クラリッサにだけ向けられる声は冷たい音でもやはり柔らかな音で、直接クラリッサの脳に働きかけられているかのようだ。
正直に言おう。
ラウレンツの話の内容を、クラリッサは全くと言っていいほど理解していなかった。
つまり、聞いていなかったのだ。
「あのまま聞いていたら、おかしくなってしまったでしょうね。出て行ってくれて良かったわ。そんな醜態見せられないもの。──……って、出ていった……?」
ラウレンツは先程この部屋に来て、一方的に話をして出て行った。
どうしても声に意識が引っ張られてしまったため、話の内容を完璧に思い出すことはできないが、『悪女』『最悪な気分』『勝手に』……という言葉は覚えている。
「え? つまり私、悪女だからってラウレンツ様に嫌われたの?」
状況を整理するように独り言を口にして、クラリッサははたと自分がどんな格好でラウレンツを待っていたのかに気が付いた。
露出の激しい夜着は簡単に脱げる変態仕様。あちこち移動したせいで隠すはずの上着も微妙に隠し切れておらず、湿った髪は下ろしたままだ。
照れ隠しをしたせいで、頬を染めて挑発的に微笑んでいるように思われたかもしれない。
しかもクラリッサは、寝台の中心にしどけなく座ってラウレンツを待っていたのだ。
「ああああああああああ! もう、完全にやらかしたわ……っ!」
クラリッサは一人きりの夫婦の寝室でそう叫ぶと、ぽすんと頭を枕に落とした。
二人で使うはずの寝室で、一人きり。
クラリッサは必死でラウレンツが何と言ったのかを思い出そうとする。
ぐるぐると思考が渦を巻き、少しでも思い出す度にクラリッサは頭を抱えてもだえることになった。
全てを思い出したのは、もう空が白み始めた頃。
夜の間一睡もできなかったクラリッサは、朝日が昇り始めてから疲労の限界を迎えて気を失うように眠りに落ちた。
朝起きられずにラウレンツからの印象が更に悪化してしまうとは、クラリッサはこのとき、全く思っていなかった。




