黄昏色に染まった町は、フィルムの中に
「え、出資できなくなった? どういうことですか?」
映画研究会の部室に響き渡ったのは、私の虚しい呟きがひとつ。
研究会なら『部室』じゃないでしょ、というツッコミはノーサンキュー。来年の春になれば新入部員がわんさか入って、研究会から部活動に昇格させる予定なのだから。まあ、予定なのだけれど。そんな、希望的観測。
よって、今の会員は私一人。
「ごめんねえ」と数珠つなぎに事情を並べたてて頭を下げたのは、(一応)顧問の女教師。
「いや、いいですよ。こればかりはしょうがない」
かいつまんで事情を説明するとこうだ。
高校生映画コンクールに応募するための作品を作ろうと思い立った。(もっとも、会員は私一人だ。本当に作れるかは未知数だ)
カメラはある。逆に言うとカメラしかない。よって機材がまったく足りない。音声機材 (ショットガンマイクなど)とかパソコンとか(これは編集で必要になる)。
先生の実家が、小さいけれども町工場を経営しているということで、工場のPRビデオを作成することを交換条件に、撮影機材購入のための資金援助をお願いしていた。
ところがだ。昨今の燃料費高騰や物価高の煽りを受けて、援助の話が流れてしまったのだ。(怪しい一介の女子高生に資金援助なんて、まあ、普通に考えれば)
しょうがない。しょうがないのだが、これには落胆を禁じ得ない。
PRビデオの脚本はできていた。
出演してくれる人材のツテも、演劇部に相談して確保していた。それなのに……と祖父のお下がりであるビデオカメラを天に向けた。
ふぁいおーと掛け声を上げながら、どこかの運動部員が川沿いの土手を駆けていく。レンズ越しに覗いた空は夕焼けで、黄昏の色が疲弊した心に染みて痛い。
「あーあ」
吐いた溜め息が、吹いた風に攫われていった。何度溜め息を吐いたところで、どうにもならないのに。
学校を出てから、河川敷を大通りに繋がるまで歩き、そのまま商店街まで足を伸ばした。なんとなく、まだ家に帰る気にはなれない。
アーケード街に入ると、「待てよー」「ヤだよー」とはしゃぎながら駆けていく小学生の一団とすれ違う。あんなときが、自分にもあったなあ、なんて懐かしく思う。
駅前の商店街も、こうして見るとシャッターが下りている店が多くなった。私が子どもの頃はもっと活気があったのに、今では歩いている人の姿もまばらだ。郊外に大型ショッピングモールができてからというもの、客足が遠のきすっかり廃れてしまった。
廃れたのは、商店街だけじゃないけど。
アーケード街の屋根が不意に途切れて、足を止めると目の前に廃業した映画館があった。
車数台を停められる小さな駐車場があって、その奥に、外壁に雨染みの目立つ鉄筋の大きな建物がある。この映画館が閉館したのは、今から五年前のことだった。
「失礼しますよ」
誰に言うでもなく呟きながら、関係者しか知らない裏口から中に入る。
「また落書きが増えてる」
もっとも、ここの鍵がかかっていないのが今では多くの人にバレているようで、アートなのか罵詈雑言なのか判断の難しいスプレー缶による落書きが、受付ホール脇の壁に増えていた。
薄暗い廊下を抜け、劇場に入る。椅子が何列も並んでいる劇場全体をぐるりと見渡し、座面に積もった埃を手で払ってから最後列の椅子に腰掛けた。
「じっちゃん。映画、作れるかわかんなくなっちゃったよ」
誰にも届くことのない呟きが、虚空に紛れて消える。
――幼い頃から、映画が好きだった。
映画が好きになったのは、間違いなく祖父の影響だ。この町で唯一の、小さなこの映画館を経営していた祖父が亡くなったのは四年前。レンタルビデオ店の登場と、インターネットの普及にともない足を運ぶ人が減り、大型ショッピングモールの中により立派な映画館が出来ると、祖父の映画館はたちまち赤字になった。
時代の流れだ。しょうがないと思う。
たとえ赤字でも、数少ない常連客のために、あるいは、自分の趣味の一環としてか、それでも祖父はこの映画館の経営を続けた。
しかし、劇場の設備や機材が老朽化し、再投資するべきかどうか悩み始めたタイミングで、祖父は病を抱えるようになった。「これ以上無理はしないほうが」との家族の薦めもあり、やむなく五年前に廃業。映画館が数十年の歴史に幕を下ろした翌年に、まるで追いかけるみたいに祖父も他界した。
『大好きな映画館がなくなるのが悲しい』
『たくさんの素敵な思い出をありがとう』
SNSに多くのメッセージが寄せられたこの映画館も、来月から取り壊しが始まる。
この場所も、たとえば十年くらい前までは、人で溢れていたのかなあ――なんて思う。
蜘蛛の巣だらけの天井を見上げる。当時の光景を想像してみる。
小学生くらいの子どもが、ポップコーンを持った母親の手を引いてやってくる。足腰が弱くなったお爺さんを、お婆さんが支えながらやってくる。仲睦まじく、並んで座っている若いカップル。席は前がいいとか、近すぎると逆に見えないとか、くだらない議論を交わしながら座る場所の品定めをする男子学生たち。人、人、人、多くの人で劇場の中が満たされている。証明が落ちる。辺りが静まり返る。
スクリーンに映像が映り――。
瞬きをして、視界が一瞬ブラックアウトして、次に瞼を開いたそのとき、頭の中で妄想していた光景が、まるで現実みたいに眼前に広がっていた。
――ッ!?
驚きで悲鳴が漏れそうになる。
「映画は、いいもんだよなあ」
隣で声がする。耳に馴染んだ、懐かしい祖父の声が。
「じっちゃん……」
「夏子。元気にしとったか」
何度瞬きしても、目の前にある光景が消えない。隣に座っている、死んだはずの祖父の姿が消えない。瞬きのシャッターが押下されて、祖父の姿が脳裏に焼き付く。辺りは人の気配で満ちていて、目の前で映画が始まった。
「どうなってんの」
夢なら覚めろとばかりに頬をつねってみたがやっぱり痛い。夢じゃない……?
私は、十年前の世界にタイムスリップしている?
☆
「ねえ、じっちゃん。私、じっちゃんのために自主制作映画作ろうと思ってたんだけどさ、無理になったかもいしれない。ごめんね」
「そうか。それは残念じゃの。だが、なぜ謝る?」
「え? だって、じっちゃんの跡をついでさ、映画の道に進もうと思ったのに、そうそうに躓いちゃうなんて情けなくて」
「できることがあれば、できないこともある。やりたいと思っても、続けられないこともある。それはの、往々にしてどうしようもないことなんじゃ。それでもな、たとえダメだったとしてもな、大事なのはやろうとして立ち上がることじゃ。そうしてくれたお前が、謝る道理なんてねえ」
「そう、なのかな」
「夏子は映画を作ろうとしたんじゃろ?」
「うん」
「今でも作りたいんじゃろ?」
「うん」
「なら、謝らんでええ。ゆっくりでいい。自分の道を進めばよい」
「そっか。ゆっくりと、か」
でも、ゆっくりと、ですらできなくなったんだよな。じっちゃんは。
「ねえ」
「なんじゃ」
「じっちゃんはさ、映画館の経営を、ほんとはもっと続けたかったんだよね?」
「そうじゃなあ。健康と、わずかばかりの金があれば、まだまだやるつもりだった。だが、よる年波には勝てんでのう。とはいえ、これでいいんじゃ。人はやがて、年老いて死んでゆくもの。たとえわしが倒れても、運が良ければ誰かがわしの意志を継いでくれるじゃろうて。そう思っておったからの。悔いはないわ」
がはは、と声を上げて笑い、何かを期待する目がこっちに向いた。優しげなしわに囲まれたその瞳は眩しすぎて、思わず目を逸らしてしまう。できるの? 私に。
「なに。気が変わってもええ。大事なのは、自分がやりたいことをやることじゃ。映画にこだわる必要もねえしな。夏子。お前にやりたいことはあるか?」
やりたいこと。頭の中で反芻して考えてみる。
何度考えても、答えはひとつしか見つからなかった。
「うん、あるよ」
「なら、ええ。やりたいことが見つかったから、でもないが、お前にプレゼントをやろう」
「プレゼント?」
「ああ。わしの部屋に、大きな書棚があるじゃろう? そこの左下あたりに黄色のファイルがある。それをお前にやろう」
「ファイル? どういうこと?」
「見ればわかる。それから、十六歳の誕生日おめでとう」
「あ……覚えていてくれたんだ」
「当たり前じゃ。まだ三日早いがのう。……ふむ。そろそろ時間か。わしもそろそろ行かなくちゃならんようだ」
「え、じっちゃん、どこに行くの?」
と言った瞬間、祖父の体が薄れ始めた。
「待ってよ! じっちゃん!」
祖父の姿が見えなくなって、辺りが次第に明るくなって。
「達者での、夏子」と祖父の声がした。
☆
「わっ」
私は目覚めた。
「あれ? ここは?」
気が付くと、劇場の中の椅子に私は横たわっていて、周りには誰もいない。もちろん映画もやっていない。
夢だったのかな、と思ったとき、祖父の声がふわっと頭に蘇る。
――書棚の左下にファイルがある。
ファイル、と呟きが文字通り口から零れ落ちてから三秒後、私の足が動いた。
☆
自宅に着き、慌しく家の中に駆け込むと、「なんなの騒々しい!」という母の小言を無視して祖父の部屋に飛び込んだ。
祖父がいなくなってから殆どの人の出入りがなかったその部屋は、どこか寂しげで、けれど、どこか懐かしい空気に満ちていた。
「あった。ほんとに」
本棚を探すと、すぐそれらしき黄色のファイルが見つかった。
何が収められているんだろう、とめくった一ページ目に、『黄昏色に染まった町は、フィルムの中に』とタイトルらしきものが書いてある。
続けてめくっていくと、どうやら映画の脚本のようだった。
登場人物の設定。時代背景や舞台の設定。あらすじと続いて、そこから台本形式で本文が始まっていた。
「凄い。なにこれ……」
あらすじだけでも、よくできた脚本だと分かる。とはいえ、書き方は良い意味で簡潔であり、ここから自分なりにアレンジを加えていくのも容易そうだな、と思う。
あれは夢だったのか。それとも現実だったのか。私が、映画の道を志すと知っていてこれを残したのかな、と首を捻る。それとも、祖父が自分のために? でも、それらすべてがきっとどちらでもいいこと。
大事なのは、私の気持ちなのだから。
今、自分がやりたいことは何だ? と自問してみる。
『映画を作ること』と答えが内から返ってくる。
ならば、私がやるべきことは――。
転げ落ちるように階段を下りて、リビングに入って私は叫んだ。
「母さん! 私、アルバイトがしたいんだけど!」と。
人生、焦ることなかれ。ゆっくりと、されど確実に、自分の道を進むんだ。
じっちゃんの、声が聞こえた。