彼はそうして死を選ぶ
凝った肩をほぐそうと思い、俺は両腕を後ろに反らして伸びをした。
使い古したデスクチェアと腰がきりきりと音を立てて鳴る。腰の痛みに顔を歪め、身体の節々が悲鳴を上げた。
少し休憩をしようと思い、腕と顔を上に掲げたままじっとする。そのとき、今まで見ないようにしていた腕時計を横目に捉えてしまった。
現在の時刻、二二時三二分。
定時から四時間余りと経っており、その間一切の休憩を挟まずパソコンに向かい続けていた。
「あー、染谷君暇そうだね。明日の朝から会議あるから、それ用のパワポ資料作っておいてよ」
一七時五五分、上司は定時間際になってそれを押し付けてきた。しかし、四時間経った今も未だ、その無理難題は終わっていない。
今日で何ヶ月目だろうか。家に帰っても寝るだけで、家賃を寄付のように納める日々が続いているのは。
俺はふと周りを見廻してみた。が、どうやら見廻すまでもなかったようだ。あいにくオフィスの蛍光灯は消灯されており、俺以外のデスクライトも消灯済みだった。
「もう帰ろうかな」
そんな独り言も気兼ねなくできる状態だった。同じことを大声で叫んで憂さ晴らしすることだってできるはずだ。
ただし、泣き言を気兼ねなく言えたところで、現状が変わるわけでもない。仕事が未だ残っていることには変わりないのだ。
それはただの現実逃避であり、無駄に時間を消費するだけ。この時間を活用して作業を再開すれば、帰る時間も早くなるだろう。でも。
「帰りたい。耐えられない。もういやだ」
頭を抱えながら、また独り言ちる。早く再開しろ、というのは頭で理解している。この時間がもったいない、そんなこともわかっている。
でも、仕方ないじゃないか。
俺は疲れたんだ。誰にでも逃げ出したくなるときくらいあるだろう。それが今なんだ。
仕事を放り出し、家に帰り、明日の朝は寝坊をし、上司を怒らせ、大量の留守番メッセージを受ける。
そして、俺の社会的信用は地の底に堕ち、遂には会社を馘になる。社会人としての責任なんてものを入社時の研修で受けたが、逃げた場合の代償は恐らくその程度だろう。
俺にとって、このまま寝に帰るだけの日々を続け、仕事とともに人生を終えるよりは幾分かマシだろう。失うものなど、たかが信用だ。同僚に大きな迷惑を掛けるだろうが、彼奴らも俺の逃げた報せを訊いたとき、こう思うだろう。
しょうがない。
俺の命は俺のものだ。俺の命を尊重して何が悪い。だいたい、なぜあの上司は俺にだけ仕事を振るのだろう。普通、仕事が終わらないのであれば、複数人で作業分担をするものだろう。
それが道理であり、効率的なはずだ。
だから俺は数ヶ月前、同僚に手伝いを乞うたことがある。その光景を見た上司は何を血迷ったのか、信じられないことを言い出した。
「僕は君に作業を割り振ったのだよ。君も仕事を任せられたのだから、責任を持って一人でやりなさい。他の人を見てごらんよ、君みたいに泣き言など嘆いている人なんて、誰一人としておらんよ」
俺はその言葉を聞いて絶句し、それと同時に絶望した。どういうことなんだ。意味がわからない。あなたは社会人ではないのか。
何故、あえて効率を悪くするんだ。瞬時にそうした言葉が頭を過ぎった。それに、これは十中八九パワハラであり、普通の企業であれば、ここでロウキに通報すれば指導を受けるはずだろう。これが普通であれば。
しかし、普通ではないのが俺の職場だ。なぜなら、ここがロウキだから。
社会的に模範でなければならないだろう職務が公務員であり、その最たる例であるべきロウキが、法律を遵守していない状態であった。
通報したところで、自分が処理するだけなのだ。自分で書いたメールを、自分で確認し、無理難題を押し付けてきた上司に報告する。これを無謀なもの以外に何と言えるのだろうか。そんなこともあって、俺はそのとき何も言うことができなかった。
ここから導き出せる結論、俺が現状から解放される方法は一つしかない。
逃げること。
一度逃げ出す考えを頭に浮かべてしまったら、もうそれ以外には何も考えられなくなった。思い立ったからには今すぐ行動に移そう。俺は長時間座り続けていたあまり椅子と同化していた腰を、力を振り絞って上げる。
椅子をデスクに仕舞うと、パソコンのモニターを眺める。パワポの左上にあるフロッピーディスクのマークを見て、考えを巡らす。
できるだけ、上司に迷惑を掛けたい。だから保存をせず、タスクを終了させようか。しかし、迷惑を被るのは同期も同じだろう。彼奴等に恨みはない。無駄な手間を抱えさせ、陰で呪詛を唱えられるのを耐えようか。
いや、さすがに俺にも慈悲はある。上司への恨みを晴らしたいとも思うが、悪人になるつもりはない。あくまで、悪人は上司だと一貫したい。
渋々フロッピーディスクのマークをクリックし、パソコンをシャットダウンさせた。そして鞄を提げ、デスクライトを消すとオフィスを離れた。
俺はビルから出ると後ろに振り返り、オフィスの入った階を眺めた。何の悔いもない。何の思い入れもない。何の後腐れもない。
それに気付くと、静かに踵を返して立ち去ることに決めた。
電車に向かう道を、ふらふらと体を揺らしながら歩いていた。視線を定められず、疲労が表立って出ているのが自分にもわかる。すると、そばにある車道を挟んだ反対側の歩道で、かしましく騒ぐ声が聞こえた。
どうやら、仕事帰りに飲み会をしていたらしい女性らの騒ぎだったようだ。騒いでいるといっても、何かひと悶着おきているわけではなく、ただ大声を出している。
「ちくしょー! あのバカ斎藤がー! 口だけ達者で何もできない無能がー!」
「ちょ、ちょっとやめてよミナちゃん」
「うるせー、汐里。あんたも怒りなよ、セクハラ受けてんのはあんたでしょうに」
「そうだけどぉ」
あぁ、騒がしい。俺の疲れ切った様相など露ほども知らず、呑気に生きているんだろうな。人生を謳歌して、楽に生きているんだろうな。羨ましい。俺に代わってお前らが働いてくれよ。
などと自分でも卑しいと思えるほどの考えをしていて、先ほどの慈悲はある、というものはなんとやらという状態であった。
もうやめよう、無駄な考えをするべきじゃない。ますます暗い気持ちになってくるではないか。俺は頭を振ると、ふたたび足を進め始めた。
何も考えず、ただひたすらにぼうっとしながら歩いていると、どこで道を間違えたのか見知らぬ場所へと来てしまっていた。
飲食店ののぼりや妖しい看板が立ち並び、眩しさに眉を顰めた。そのそばではキャッチをしていると思われる若い男女が、未だ帰りたくないサラリーマンに次々と声を掛けている。
すると、一人の若い男が俺に視線を合わせ、狙いを定めたのか「ちょっとそこのお兄さ~ん」と近寄ってきた。そして、まるで従者のように後ろに控えていた、メイドの恰好をした若い女も寄ってくる。
「お兄ちゃん、寄っていきませんか? 一回一本で良いですよ~」
若い女はそう言って、ほほ笑んだ顔を向けてくる。おそらく一本というのは一万円ということだろうか。ということは、メイド喫茶ではない水商売の類であろうか。あいにく俺はそれらの種に金を払う気はなかった。
俺はなるべく目線を合わせないよう顔を下へ向け、無視を決めることにした。
すると、その姿を見た若い男は舌打ちを鳴らして「シカト決めてんじゃねえぞ」と言い、あろうことか俺の視線を追うようにして顔を寄せてくる。
「い、いえ、そんなことは」
「あぁ? お前、俺の声聞こえてたよな。俺が話しかけた時、明らかに聞こえてる素振り見せたもんな。目が泳いでたのが傍からみてもわかったもんな。あのさ、シカトの意味わかってんの? シカトってのはな、花札から来てんだよ。十月の十点札に描かれてる鹿が、月に背中向けてそっぽを向いてるみたいだから、そこからシカトって言葉が生まれたんだよ。俺はな、おめえみてぇな月にすらなれねぇボサボサ頭のくたびれたおっさんに背中向けられるのだけは許せねえ」
突如としてまくし立て始めた若い男に気圧され、思わず怯えた俺は「す、すいません」と声を震わせながら言った。
「お前は、そんなんで許してもらえると思っているんだね」
嫌な予感を感じる。このままでは身に危険が及びそうだ。そう思った途端、勝手に足が動いた。まさに、脱兎のごとく。
「おい! 逃げるな!」
どんどん離れていく背後からそう聞こえたものの、追ってくる様子はなかった。
息せき切ってようやく駅に辿り着き、改札を通ると下りのホームに向かった。整列位置に立つと、疲れた体を少しでも休ませようと思い、右足に体重を乗せた。
疲れた。ただただ疲れた。俺はなんて不運な人間なんだろう。もう、たくさんだ。
今から家に帰ったところで、いったい何をすればいいんだろう。思い返せば未だ余裕を持て余していた数か月前の俺は、家に帰ったあと何をしていただろうか。
テレビを観ていた? あいにくテレビは持っていない。ゲームをしていた?
ゲームなど十年以上はやっていない。
動画サイトでも観ていただろうか?
確か、何か映画を観るのにハマっていたような気がする。しかし、タイトルを思い出せない。
はたまた本でも読んでいただろうか。
そうだ、本は読んでいた。もっぱら小説ではあったが、毎週末になると、会社帰りに中古本ショップへと寄って好きな作家の入荷を追っていた。
当時は働き始めたばかりであったため、持ち金に余裕がなかった。作家に還元するために新冊を買うべきだとも思っていたが、申し訳なく思いながらも中古本を漁っていたのである。
小説を買って読むのにハマり過ぎたあまり、読むペースが追いつかず、どんどん読みたい作品が増えていく嬉しい悲鳴に嘆いていた記憶がある。
しかし、社会人となって時が経つにつれ、段々と与えられる仕事が増えていき、忙しい悲鳴に嘆き始めた。身体の不調が続き、頭を動かす余裕がなくなっていった。
そのせいで、読みたい小説は積んでいく一方となり、全く消化できなくなってしまった。家には今、何冊溜まっているだろうか。
それを、今の今まですっかり忘れていた。この数か月間で、自分の趣味の記憶すら忘れてしまうような、健忘症のような症状に侵されていたのだ。
俺はもう駄目だ。前までは、映画を観たり小説を読んだりと楽しい生活をしていたが、今は何の感慨も浮かんでこない。何も思わない。待ち遠しいとも感じない。
人生に楽しみを感じない。
それなら、何のために生きればいい?
人間は種を残す宿命がある。それは、人間のみならず生命ならば当然に為すべきであり、できるのが普通だと思っていた。しかし、俺にそんな縁はない。世の中にはパートナーに恵まれない人間も数々いるだろう。特に現代は豊かになったこともあって、より一人を好む人が増えていると聞く。
そんな一人を好む人間が人生に望むこと。それは、楽しさだろう。でも俺は孤独であり、かつ生きることに楽しさを見出せない。そんな人生に果たして意味はあるのだろうか。
確信を持って言える。つまらない人生など、何の価値もない。少なくとも俺はそう思う。上司から無理難題を押し付けられる日々に自我を擦り潰され、喜怒哀楽なんて感情はとうに消え失せてしまった。
いや、怒りだけはあるかもしれない。この場合、喜哀楽がないという状態か。なんと虚しく惨めな人生であろう。
俺はこれから、何を希望にして生きていけばいいのだろうか。今から趣味を見つけるか? それも億劫だ。もう、面倒くさい。
やめてしまえ。
俺は右足に乗せていた体重を両足に戻し、左足を前に運び、右足をさらに前に運び、ホームの端にしゃがみ込み、足を掛け、線路に降りた。
俺は今、線路の真ん中に立っている。目の先およそ二百メートルには電車が迫ってきており、危険を知らせる警笛を鳴らしているのが聞こえる。それと同時に、駅のホームで電車を待っていた人たちが、徐々に騒ぎ始めた。
「お、おい」「これまずいんじゃないか?」「じ、自殺!?」「助けたほうがいいんじゃないか」
人々は、今起きていること、そしてこれから起きるであろうことを理解し始め、焦りの声を上げている。ただし彼らは口々に声を上げるのみで、何の行動も起こそうとはしなかった。
現状を理解できても、現実を理解していないのだ。自分の身の回りには死という出来事が起ころうはずもなく、ましてや自殺など絡んでくるはずがない。そう思っているのかもしれない。
仕方もないことだろう。俺もそんな状況に遭遇したところで、何の手出しもできないはずだ。
周囲の騒々しさは頂点に達し、電車の警笛が聞こえないほどまで大きくなっていく。耳鳴りがするほどの声音に嫌気が差した俺は、耳を手で力いっぱいに押さえた。しかし、完全には遮断しきれなかった。
「だ、誰か! 駅員さん呼んでください!」「助けてー!」「やめろよ!」
電車は徐々に距離を近づけており、既に百メートルを切っているように見える。運転士はおそらく俺の姿を視認できているだろうが、このスピードから距離を落としたところで止まり切れないだろう。
この駅に停車する電車であれば間に合ったかもしれないが、あいにく通過列車であったようだ。
周りの人間は現実を受け止められていない、などと思っていた俺だったが、それは自分も同じだったようだ。今になって、本当に良いのだろうか。という思考が流れ込んでくる。
このままでは、俺のこの二十余年におよぶ人生は、電車に轢かれることで一瞬にして儚く散るだろう。両親に愛を注がれ、友人たちと謳歌していた学生時代。
学業や色恋沙汰に悩み、これからどうしようかと将来を考え、人生を懸命に生き抜いていた。その貴重だった時間は、たった数刻経てば一瞬にして消え去ってしまう。
俺の人生は一体、何のためにあったのだろうか。何の爪痕も残せず、誰かのためになることもせず、誰の心象にも残せなかった人生。価値も生み出せなかった俺の生きざま。
一度でもいいから、誰かに俺という存在を求めてほしかった。しかし、今となっては夢のまた夢だろう。そんなことは決して起きやしない
そう考えていると、俺が今死んだところで誰も何も感じないのではないか、と思い始めた。ならば、このままで良いのではないか?
俺はそうして、人生に未練を残しながらも諦めることに決めた。
電車は既に数十メートルの距離に迫っている。急ブレーキをしているとわかる金属の不快な音が鳴り響く。周りからは悲鳴と金切声が轟き続けている。
そのときふと、視界の端に手が見えた。俺は驚き、顔を向けた。サラリーマン風の男が俺を助けようとしたのか、手を差し出していたのだ。
「掴まってください!」
そう叫び、鬼気迫った表情を向けてくる。俺は彼の全身をなめまわすように見た。
彼は俺と同じかもしれない。
顔には数々の疲労とストレスが浮き出ており、皴の取れていないスーツを着ている。足元を見ると、まるで洗われていない靴があった。全身の疲れが足元にまで及んでいる。
しかし一箇所、決定的に違う部分があった。衝撃のあまり、絶望するほどまでに。
彼は鬼気迫った顔をしているにもかかわらず、その目には少しの希望をも窺わせているのだ。
少しの違いではあるが、それは決定的なまでの差であった。
俺が失ってしまった感情を彼は持っている。表情一つでここまで人は変わるものなのだろうか。一体、俺と彼は何が違うんだろうか。しかし、その違いを知ることは叶わない。
俺は絶望に打ちひしがれ、彼から目を反らして電車へと顔を向けた。どんどん迫ってくる電車に足がすくむが、何もできなかった。が、数刻も保たないだろう。
そして、目を閉じた。これから周りに漂うすべての音が消え、遂に俺の命は尽きるのだ。