片道分の恋
幼馴染というのはそれほどいいものではない。
家が近くで、幼いころから一緒に過ごしたせいで、知らなくていいことも知ってしまっている。
たとえば、彼の初恋の人とか。
高等部に進学してほどなくのことだった。彼は実直な人だったので、それまで浮いた噂はなかった。そんな彼が好きになったのが、平民から貴族の養女になったという令嬢。
この令嬢が問題ありな人物だった。
貴族のマナーを学ぼうとせずに、また男性との距離が近い。婚約者のいる相手にもお構いなしに腕を組んだりする。それはいかがなものか? となり親切な令嬢たちが助言したが、彼女はその令嬢たちを悪者にして平民だからいじめられたと被害者ぶって泣く。それを真に受けた男性生徒が彼女を庇う。実に馬鹿馬鹿しい茶番だが、風紀の乱れが巻き起こった。
彼は被害者ぶる彼女を擁護する男性の一人に加わっていた。
恋は盲目とはいうけれど、まともな者は、彼女の取り巻きをする男性を呆れて蔑んで見ていた。
私もそうなれたらよかったのだけれど……恋心というのは厄介で、そうなってしまった彼をそれでも私は好きだった。
彼女の取り巻き男性の中には婚約している子もいて、その子たちは苦言を呈したり怒ったりしていた。けれど、私にはそんな権利はない。単なる片思いでしかなく、昔から知っている相手でしかない。
「みっともないからやめなよ。白い目で見られているよ」
そんな心配という名の助言は余計なお世話だ。愚かであれ、彼は恋をしている。それをとめることなどできない。
けれど、学院をざわめかしていた異様な関係も、半年ほど経過するとあっけなく収まった。
令嬢は隣国の第三王子に見初められて、王子についていったのだ。
学園には秩序が戻った。
彼女に好意を持っていた男性たちは全員失恋した。彼も例外ではなく、その恋が実ることはなかった。
あのときの複雑な気持ちというのは、どう表現すればいいのだろう。
失恋した彼に胸が痛んだが、彼の恋が叶うことは私の恋がやぶれることでもあったのでほっとしてしまった自分というのもいた。すごくよいように解釈すれば彼に幸せになってもらいたいという気持ちと、自分も幸せになりたい気持ちが両方ともあふれた。悪く言えば偽善と自分本位。物は言いようの相反する感情に浸されて、私はどんよりとした。
私には気持ちの整理をする時間が必要だった。
「諦めたんだ」
友人は言った。
私が彼に近付かなくなったことをそのように解釈した。
「わからない」
私は返した。
諦めていない、時間が必要なだけ、とは言えなかった。たぶん諦めた方がよいと理性では思っていたから、堂々と好きでいるとは宣言できなかった。
やがて、時間が経過し、私たちは進級した。
春になる頃には、彼との関係は元に戻り再びアピールをしていた。彼の態度は曖昧だった。拒絶するわけでもないが、受け入れるわけでもない。
ただ、いつまでもそんな関係を続けることもできない。というのも二年生になれば本格的に婚約者を決める頃合いだからだ。
そろそろ私も現実を見なければ――と考え始めたところ、意外にも少しずつ彼の態度に変化が生じた。
おそらく、彼の中でも婚約者探しが現実味を持ち、候補として私を意識したのだろう。
こういってはなんだが、家柄は釣り合っているし、なんなら私たちの両親は私たちに婚約してほしいと思っている。彼に目当ての令嬢がいない以上は、私は無難な相手だった。
ひどい選ばれ方だが、私はそれでも彼を嫌になることはなかった。
惚れた弱み、彼と一緒になれることのほうがずっと嬉しかった。
私たちは休日に一緒に出掛けるようになった。私から誘ってのことだったけど、以前は興味ある絵画展とかなら付き合ってくれたが、興味ないものは断られていた。今では割と私の趣味にも付き合ってくれる。進歩だなと思った。
このまま、婚約するのかなぁ、と漠然と思い描いた。
だが、また、転機がやってきた。
昼下がり、最近できたばかりの人気のカフェテリアでデートをしていたら、彼に声をかけてきた令嬢がいた。カフェの制服を着ている。どうやらここで働いているらしい。
「どうしてここに?」
彼の声音には困惑と、それからたしかに喜色のようなものが含まれていた。
その人物は、彼の初恋の相手だった。
隣国で幸せに暮らしているはずの彼女が、どうしてここにいるのか。その疑問は彼女がぺらぺらを話をした。長い長い自己弁護の話し方は相変わらずだが、要約すると隣国の王子の婚約者として及第点をもらえなかったのだ。
「身の丈に合った相手との恋が一番幸せになれるって気づいたの」
上目遣いに彼を見る彼女の眼差しに私は乾いた笑みが漏れた。
伯爵家の彼ならば大丈夫だとほのめかしているそれは無礼なものだ。けれど、彼は怒ることはしなかった。
――私と一緒だ。
私がそうであるように、彼も、彼女のどのような面を見ても嫌いになったり呆れたりはしないのだ。
惚れた弱み。
「ねぇ、あと一時間で仕事が終わるのでよければ少し話さない? とても懐かしいんだもの」
彼女の申し出に、彼はうなずいた。
うなずいてから、はっと思い出したように私を見た。
「じゃあ、私は先に帰るね」
私は短く告げて席を立った。
彼が追いかけてくることはなかった。
「永遠に諦めないと思っていた」
友人の評価に、私はうなった。
あの日、カフェに行って彼の初恋相手に会った日から、彼を諦めたのだ。そのことが意外だと友人は言う。過去の、彼女にお熱を上げていたときの彼を嫌にはならなかったのに、どうして今回は違うのかというのは素朴な疑問だろう。私も永遠に諦めきれないのだろうと思っていた。振り向いてもらえずとも、生涯彼だけを好きでいるのだろうと信じて疑わなかった。おそろしいくらい好きだった。だが、諦めてしまった。
「些細な、ほんのちょっとのことだったんだよ」
私は言った。
たぶん、あのカフェで、彼が彼女に誘われたとき真っ先に私の顔を見て様子をうかがうようなそぶりを見せてくれていたら私は諦めなかっただろう。正確には諦めきれなかった。でも彼はうなずいた後で、私を思い出した。
その順番に対して、思い出してくれただけまだいい――とは思えなかった。
きっとこの先も、ふとした瞬間に、私はないがしろにされる。彼にとって私は一番に考える相手ではない。彼と一緒にいると何気ない一瞬にずっとずっとそれを味わっていくのだろうと思ったら、好きという気持ちよりも、無理だなという気持ちが勝ったのだ。
「なるほどね」
友人はそういうと、少しだけ考えてから
「いやでも、それは些細なことではないと思う。別に好きな人がいるのは仕方ないけれど、その人を優先するためにないがしろにされるのはまた別の話だよ。優先順位の低さというのはじわじわ心を削る。一番になりたいとかそういう話ではなくて、尊厳とか尊重とか、そういうものを損なわれるなら、それはもう離れたほうがいい。自分を粗末に扱う相手とは縁を切るって決断は当然だよ。恋心というのは厄介だけど、好きだからって許容してはいけない一線はあるからね。あなたはその線をちゃんと引けた」
「うん。もういいやって思っちゃったのだからどうしようもないんだよ」
人の気持ちというのはどうにもならないし、どうしようもない。不毛な恋でも好きになってしまうし、諦めようとしても諦められないし、諦めるつもりはなくても続けることができなくなってしまう。本当にままならないものだと私は笑った。
「あなたの気持ちはわかった。じゃあ、問題は彼だねぇ」
続いた質問に、私はテーブルの上のグラスの縁を触りながら考える。
彼女がそういったのは、彼の態度の変化によるものだ。
ぷつりと切れてしまった気持ちは、彼にも伝わったようだ。まぁ、一切傍に近づいていかなくなればわかるのだろう。そうなったきっかけもはっきりしている。で、彼は私の態度を拗ねているのだと解釈していたようで、最初は高圧的だった。そんなことで拗ねられても迷惑だ、というような、だから機嫌を直すべき、というような、自分も少しは悪かったがそこまで怒ることでもないだろうという考えだったのだと思う。
私のこれまでを振り返れば、彼がそのように解釈するのは自然なのかもしれない。
好きな相手が他の人と親しくしていたら嫉妬する――それはごく自然な感情だ。そして、そう私を解釈する彼は、過去最大級に私に興味がある。鬱陶しそうにしながらも、それを止めて元に戻ってほしいと告げてくる彼は、言い方はどうであれ機嫌をとるようにも思えなくはない振る舞いは、私が彼を好きでいることへのアクションなのだから。
それは初めての反応だった。
以前なら私が拗ねたり怒ったりしても無視しただろう。興味がなかった。私も、私が拗ねようが怒ろうが彼は痛くもかゆくもないし、そんなことをしても気は引けないと知っていたから、ただ黙ってそばに居続けてきた。彼を好きでいるためにはそれしかなかった。拗ねたり怒ったりもできない相手、興味を持ってくれない相手、それでも好きだったから真っ黒な感情を自分の中だけで処理してきたのだ。
でも、彼は、そんなこと知らない。考えることもない。好きな人に対して、焼きもちを焼いたり、私を見てよ、と言えない恋を長い間してきた私のこれまでは一切考慮はされない。それは仕方ないことだが、だからといって私が納得できるかは別の話だ。
「たぶんだけれど」
そんな前置きとともに、私は頭に浮かんだまだうまくまとまりきらない気持ちを話した。
「この恋は、片道通行だったんだと思う。私が彼に恋をして、彼にアピールをして、彼から反応がなかったとき、諦めるべきだった。でも、私は、思い続けていればどこかで繋がるんじゃないかって、彼からも私に向けられる道があるんじゃないかって思っていたんだよね。……けれど、そうじゃなかったみたい。彼から向けられる道があっても、私の道とは繋がっていなかった。私の恋の先には何もなかった。行き止まりしかなかった。たぶん、最初のアピールで好意が返ってこないとき、この恋の結末は覆りようがなく決まっていたんだと思う。それなのに続けてしまって、そうして、なんか彼がちょっとこっちを見始めて、でもそれで改めて、ああ、繋がってなかったなぁって実感しちゃった。……だから、少し申し訳ない気持ちがある」
言いながら、結構無茶なことを言っているなとは思った。私が好んで彼を追いかけていたのに、そして、そのことに彼は何の責任もないのに、私を見るならば、過去の報われなかった日々のすべてを考慮してほしいだなんて。返ってこなかった分の年月の思いまで引っ括めてほしいだなんて。けれど、そこをないがしろにされても、彼のそばにいられるならいいとは、もう思えなくなった。それが私の偽らざる本音なのだ。
だから、この恋の先は、彼とは繋がらない。
彼が私にようやく向けてくれた視線の先に、私はいない。
私はグラスの縁を撫でるのをやめて、ストローで氷をかき混ぜた。すると氷がぶつかりあい、ほんの少し縁を伝ってあふれた。
友人はそれを見て、紙ナプキンで、グラスの側面を拭ってくれながら言った。
「うーん、まぁ申し訳ないと思う気持ちはわからなくはないよ。彼が振り向いてくれても、それを喜べない自分というのをもっと早くに自覚できていたら、追いかけなかったし、そしたら彼が振り向くこともなく、こんなややこしい事態にはなってなかった。その気にさせて、そうじゃなかったみたいな状況だもんね。でもそれは結果論でしかないじゃない。たとえば、あの令嬢と再会する前は、少なくとも彼が意識してくれていたことを嬉しいと思っていたよね。あのときなら、あなたは過去の報われなかった日々よりも、彼との未来を選べていたんじゃない? でも、そうじゃなくなってしまった。そのきっかけをつくったのは他でもない彼なんだから、だからあなたは自分の気持ちに正直であればいい。それを責められることはないんだよ。仮に、勝手だとかキレられても、そうです、勝手な女なの、っていってやればいいよ」
最後の言葉に、私は思わず笑ってしまった。
ああ、そうだ。私が勝手に好きでい続けてきたことなのだから、勝手にやめにしたっていい。私が何をしようがこれまで彼から何か関係性の明瞭な言動をもらったわけでもないのだから、どこまでも勝手なままで、終わらせてしまおうと思った。