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斬術士  作者: 実茂 譲
1.扇
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 パゴダ・ビルは雲を貫いていた。外から見れば、ミラー処理された外壁には暮れかけた空が燃え上がり、地獄の底から突き伸びた裁きの剣に見えただろう。ルクレツィアはその五十三階にオフィスを持っていた。同じフロアには高名な精神科医や法外な値段を吹っかける腕利きの弁護士事務所が入っていて、ルクレツィアのオフィスは南西の角にあった。秋から春にかけて、ブラッドオレンジのような落陽を汚染度の低い大気越しに眺めることができて、そんなとき部屋全体は暖炉のなかで燃えるように赤く眩しく光り出すのだ。

 ルクレツィアは氷河から削り出したみたいに白く美しいが冷たい女性で、理想的な暗殺仲介人だった。余計な会話はしなかった。少しも言葉や声の調子を変えずに同じことを何度も言うこともできた。だから、暗殺者たちは依頼の出元が政府なのかシンジケートなのか警察なのかが分からないのだ。

「先日の仕事は見事でした。報酬は指定の口座に振り込まれます」任務が無事に片づくと彼女は必ずそう言った。扇はふと家に新鮮なミルクを届けた配達人に「先日の仕事は見事でした。報酬は指定の口座に振り込まれます」と言っているルクレツィアの姿を思い浮かべた。

「なにか特別に報告することはありますか?」

「いや、ない」

 隣の弁護士事務所から歓声が沸いた。数億クレジットの手数料が転がり込む企業買収が成功したのだ。

「新しい任務があります」

「昨日、仕事したばかりだ」

 ルクレツィアは黙ってフォルダを渡した。扇は目を通して中身を暗記すると、スティック・ライターでフォルダに火をつけ、暖炉に投げた。本物の薪の上でフォルダはねじれ、真っ白な灰になって消えた。

「クライアントは迅速な任務遂行を求めています」それはつまり今夜じゅうに仕留めろということだった。ルクレツィアは暗殺者に三日連続で任務を課すときにきまり悪そうな顔をしたり、懐柔するような口調を駆使したりしなかった。必要であれば淡々と三百六十五日連続で任務を課すことができた。彼女が仲介している暗殺者は他にもいた。同じくらい過密スケジュールでこき使われていて、自分の報酬が一番少なくて損をしていると信じていた。実際は全員、一件の仕事につき五万クレジットを支払われていたのだが。

 扇はダメでもともととたずねてみた。

鶏牌香烟ロースター、持ってないか?」

「このビルは禁煙です。他に質問は?」

 第一地区のセントラル駅から出発した列車はしばらくのあいだ地下を走っていた。富裕層の人々はなぜか電車が地上を走ることを好ましいとは思わなかったのだ。彼らは騒音も電車で移動する下層階級の乗客も地面の下に隠した。すると、第一地区には直線や曲線、縁取りされた光など美しいものだけが残った。

 プラスチックの座席に腰を落ち着けて、刀を隣の席に立てかけると、イヤホンをつけて、目を閉じた。眠るつもりはなかった。眠ると必ず戦争の夢を見るからだ。だが、その戦争は二年前に終わったあの戦争ではなかった。テクノロジーのレベルはずっと低く、少なくともカセットテープが存在しなかった。飛行機は二枚の翼を重ねて飛んでいた。銃もずっと原始的なボルト・アクションで、サブマシンガンは皆無。紙細工のように弱い戦車。森と村、大きな川。白く熱く、喉の渇く戦争だった。その戦争にはなぜか寿コトブキが出てくる。幽霊ではなく兵士としてだ。七〇七号室では一度も見かけたことのない寿は夢のなかでは血肉を持つ人間として存在できた。寿に会えたら、きいてみたい。おれを恨んでいるか、と。だが、夢のなかではいつだってたずねるのを忘れてしまう。

 気配を感じて目を開けた。列車はもう高架線を走っていた。金持ちたちの居住区を通り抜けたのだ。見れば、六歳くらいの女の子が扇の刀に触ろうとしていた。一瞬、幽霊がついてきたのかと思ったが、その子は生きていた。赤いワンピースにボブヘアで小さなそばかすが鼻のあたりに散っていた(小さなそばかすを見て、扇はこの子が生きていると分かったのだ)。たいていの子どもがそうするように、その女の子も柄に巻かれた糸に触れた。子どもたちはみな刃よりも固い糸巻のあいだからひし形に覗く加工した鮫の皮に興味を持つ。あるいは触れるとひんやりする十字型の鉄の鍔。その女の子もまるで柄のこしらえに剣士の命がかかっていることを知っているように用心深く柄を触った。昨日人を斬り、今日もまた斬ることになる刃は深い池の底に眠る龍のように鞘のなかに息づいている。罪深い刃と少女はなにかの寓意的な意味を持つのかもしれない。扇にはそれが分からないが、分かる人間が見れば、そこに光り輝く命の泉を見出すこともできただろう。粗末な電車のなかの罪深い刃に映るその泉はきっと扇を赦すだろう。扇は自分でも知らないうちに赦されているのだ。そして、それを知るまでに扇は一通りの苦難を味わうことになるが、最後は泉にたどり着ける。そこでなにを見出すのかは誰にも分からなかった。

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