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その夜、ヒマだし付き合うといってきかないサンシャインは紫苑を乗せて、ケツァルコアトル・ストリートへ車を走らせた。街では肌理の粗い過剰装飾なホログラム――単語、図形、恐竜、美女、戦闘機、サッカー選手――が密林の精霊みたいに飛び交っていた。幻想が二つ、車のボンネットに落ちてきた――二頭の牛が横たわっている。牛たちは立ち上がると紫色の丸っこいボンネットの上で頭突きを繰り返し、やがて脳震盪でメロメロになって共倒れになった。倒れた牛たちはノイズに左右を引っぱられながらパセリとガーリック・バターを添えたTボーン・ステーキに変身した。そして、ステーキから上がる湯気が標準日本語をつくりだす……。
ニードルス
本物のステーキは強いです
日本語文の不自然さからすると、ステーキハウスに雇われた幻想作家は粗悪な辞書ツールを使ったらしい。きらびやかに点滅する『本物』とはホログラムに対する実物、人造培養肉に対する育成牛肉のことだ。
周囲の建物は途方もなく高い。だが、地上四十階の窓の庇に錆びたトタン板を使うようなビルだ。空中ハイウェイはそんなビルのあいだを乱雑に縫っていた。へたくそな縫合がもたらした膿が地べたに落っこちて、ヤクザは凶悪なバクテリアのごとく勢力を強めている。エブロ・シティはマフィア、ヤクザ、トライアド、その他もろもろのギャングたちのせいで敗血症を起こし死にかけていたが、その頽廃は熟成と腐敗の境界をさまよう牛肉みたいに魅力的で人を惹きつけてやまなかった。そして、この荒んだ都市のどこかでセカンド・カンパニーが生み出されようとしている。謎はいろいろある。あのファースト・カンパニーの生き残りはなにが目的なのか? ロドフを狙ったということは目的は紫苑と同じなのかもしれない。あるいはただ人殺しが好きなだけの怪物。ちょうど、自分みたいな怪物なのかもしれない……。
通り沿いのビルの一階には個人経営の居酒屋、安ホテル、質屋、イタリア料理店、大手の安売りスーパー、公営の歓楽街案内所があり、そして、店と店の隙間には鉄格子や赤く錆びた扉がある。クラブ・オズマもそうした怪しげな扉のひとつだった。
「あなたがなかまで来ることはないわ。そのかわり、これを預かって」
紫苑は刀をサンシャインに預け、車を降りた。
「幻覚ちゃん。丸腰で戦えるの?」
紫苑は小首を少し傾けた。素手で戦ったことがないのだ。
「まあ、でも、いけるんじゃない? あたし、これまでサムライ映画は三百本、ニンジャ・アニメは五百本見たけどさ、主人公はみんな刀なしでビシバシ戦えたよ。そうそう、それで思い出したんだけどさ、このへんにはね、ティーン・ニンジャがネットワーク張っててさ。見たことない? 黒服に黒マスクで男なんだか女なんだか分かんないガキンチョども。ムの修行とかいっちゃってんの。しゃべんないの。笑っちゃうよねー。んでさ――」
開きっぱなしの扉の前にはテカテカしたリーゼントのスカジャンが一人、ひっくり返したビールケースに座布団を置いて座り、ワンダー・ボーイをやっている。その目には軍払い下げのコンピューター・ユニットが埋め込まれ、両目は細い楕円形ゴーグルでつながっていた。紫苑が横を通り過ぎるとき、リーゼントのなかからウィーン、カチカチと探るような音がした。細く長い廊下をしばらく歩くと、二人のヤクザ――若い衆と年寄り――が横穴みたいな狭いテーブル席で焼き肉をしている。テーブルには型式の古いマシン・ピストルが弾倉装填済みの状態でネギ塩牛タンの皿のそばに置いてあり、年寄りのヤクザの手の届く場所には先端に低周波カミソリを埋め込んだツーバイフォーの角材が立てかけてあった。
「探知機をくぐりな」年寄りのほうが肉をひっくり返しながら言った。
ゲートは黒い合金製でビニールが二枚、長いのれんのように床まで垂れ下がっていた。それぞれのビニールには二つの日本語『ドス× チャカ×』が黒と赤のビニールテープで描かれていた。重低音のハードベースでぴくぴく揺れるビニールをかき分けて通り過ぎると、娼婦や売人、ビーズと羽根飾りをじゃらじゃらつけたヴェロキラプトルが音に合わせて体をくねらせていた。部屋の中央ではアニメ風のバーチャル・アイドルがストリップ・ダンスの真っ最中でビジネスマンふうの男たちが読み取り機にブレスレットをつけると、チップの紙幣がホログラムのなかに現れ、それをバーチャル・グローブを使って、古式ゆかしく胸の谷間やパンティに挟んでいる。
とりあえず紫苑はカウンターに座ると、ストロベリー・ソーダを注文した。バーテンダーのポロシャツの袖から雷とブッダの入れ墨が見えた。ソーダのかわりにグラスが置かれ、ストレート・バーボンが注がれた。まわりの大人たちのにやにやした笑いは見なくても分かった。どうして、バーテンダーというのは異質な客に対して、こうも狭量なことをするのか、以前から不思議には思っていた。ストロベリー・ソーダが出されれば、たとえストロベリーの存在が飲料会社のファンタジーに過ぎない化学調味料ソーダだとしても、紫苑は大人しく対応するつもりだった。だが、意地の悪いバーボンに対する礼儀はあいにく持ち合わせていない。
紫苑はポケットから取り出した親指をグラスのなかに入れた。周囲のへらへらした笑いがさあっと引いた。バーテンダーももう笑っていなかった。指入りバーボンのグラスを手に取ると、紫苑のほうを新種の雪男かなにかのようにじっと見つめ、カウンターを出ると、反対側にあるドアのほうへと消えた。紫苑はひらりとカウンターを飛び越えると、勝手に物色した。カウンターの裏のショットガンが置いてあるすぐそばに、真っ赤な壜に入ったストロベリー・ソーダがあった。あるなら素直に出せばいいのに、とあきれた。ラベルを見ると、本物のストロベリーが入っているソーダだ。紫苑はまたカウンターをひらりと飛び越え、ブレスレットの電子チップで料金を払うと、スツールに腰かけ、ストロベリー・ソーダを味わった。
音と光は崖に寄せられる波のようにぶつかってきて、過敏な紫苑の神経に障った。紫苑は自分を閉じた。音のない世界で、ストロベリー・ソーダのなかで螺旋状に浮かび上がる気泡を見つめると、そのうちに巨大な穴が現れて、するりとバー・カウンターを呑み込んだ。紫苑はスツールを蹴って、光が吸いこまれるその穴へと身を投じた。しばらくは酒瓶や分解したスポットライトが一緒に落ちていたが、やがて落下は紫苑ひとりのものとなった。ついに闇のなかで浮遊感すら感じるようになったとき、紫苑は閉じていた自分を開けた。
バーテンダーは戻ってきていて、紫苑と目を合わせないようにしている。紫苑の後ろには角刈り頭の若いヤクザが二人いた。二人ともトラックスーツのジッパーを首元まで上げた姿はどこかの大学の陸上選手のようだった。
「ちょっと奥に来てくれねえか?」
話しかけながら、ヤクザは上着の裾を少しめくって、ズボンに差した九ミリ銃を見せた。ヤクザが通したのは寿司バー風のプライベート・ルームだった。真ん中に畳が敷かれていて、そこでヤクザの大物たちが座布団に座って、寿司やまだ鰓を動かしている真鯛の姿造りから刺身をつまんでいる。左側のカウンターには鯉の入れ墨を入れた板前が諸肌を脱いでいて、その後ろには海水魚が泳ぐ大きな水槽があった。彼が握る寿司のネタはほんの三十分前まで生きていたのだ。寿司ルームに一歩足を踏み入れると、紫苑は建物解体用の鉄球をぶつけられたみたいによろめいた。ブーストを使おうとした瞬間、頭のなかで百万個のウミガメが孵化したみたいな頭痛に襲われ、その場に倒れて、体を丸めた。手負いの獣のように呻いていると、誰かが紫苑の背中を踏み、腕を後ろにまわして手錠をかけた。
「このソフトウェア、それなりにきくんやな」
「きいてくれないと困る。十万も払ったんだからな」
「でも、何度もつかってると耐性がつくんとちゃうか?」
「そのころにはくたばってるさ。それにしても、このシャブ入りのワサビはきくなあ、え?」
頭痛は最悪の余韻を残していた。紫苑は両手を後ろにまわされて手錠をかけられ、床に寝転がされていた。そのうちぼやけていた像が線を結び始めて、紫苑はなんとか顔を上げて、畳の上のヤクザたちを睨みつけた。畳の上のテーブルでは四人の大物ヤクザが寿司と刺身をつまんでいる。〈相撲取り〉〈パンチパーマ〉〈トカゲ〉〈組長〉――それにどこのファミリーか分からないが、マフィアの幹部も一人いた。生魚には目もくれず、ビールばかりをあおっている。その五人のまわりを双子の角刈りヤクザがビールを注いだり、灰皿を空にしたりと、甲斐甲斐しく世話を焼いていた。仕事はつねに転がっていて、二人は同じところに五秒ととどまることなかった。そのうちチョップスティックで刺身をつまみ、あーんと口に入れてやるのではないかと思っていたが、突然の電撃で考えていた言葉はバラバラに飛び散った。リモコンが〈トカゲ〉の手に握られていた。〈トカゲ〉の顔は軽金属鱗で覆われていて、舌は二股に分かれていて、それをチラチラと薄い鉄の唇のあいだから覗かせた。
「組長、こいつ、どうするんです?」〈トカゲ〉がたずねた。
「そら、誰がメスチビを寄こしたのか、教えてもらわへんとな。それにコウジの親指以外の体はどうしたのかもきかんと」
「こいつはカンパニーですぜ。そう簡単に口を割りますかね?」
〈組長〉は〈トカゲ〉を横目に見た。ボタンが押され、紫苑は悲鳴を上げないよう歯を食いしばりながら弓反りになった。悲鳴を上げれば、ますます電撃が強くなることは分かっていた。
「まあ、最初は強情張るかも知れへんけど、最後は結局ゲロするわ。ましてや、こいつ、刀もなけりゃ、時間も操れへん。こないなやり方で叩きつぶされるのは初めてやろ。だからな、ヤクザの怖さ、たーっぷり教えたる」
「ポッド……」
「うん?」
「ポッドの中身を奪ったのは分かっている。なにが入っていたのか、誰に渡したのかいいなさい」
〈トカゲ〉がへらへら笑いながらリモコンのボタンを押そうとした。紫苑の体がコマみたいにぐるっとまわり、テーブルが蹴飛ばされた。テーブルは寿司や刺身を飛び散らせながら、〈組長〉を下敷きにし、リモコンはどこかに飛んでいった。〈パンチパーマ〉のヤクザが立ち上がり、ボクシングの姿勢を取ったが、紫苑は足を払い、倒れた腹の上に踵落としをぶち込んだ。マフィアが立ち上がって、二発撃った。一発は紫苑の手錠の鎖をちぎり、もう一発は包丁を投げつけようとしていた板前の心臓を貫通してから水槽を割った。水槽と魚たちはピクセル単位に分割して塩人形のごとく崩れ去ると、壁にはめ込まれた特殊な端末がシリコン被膜を九ミリ弾に切り裂かれ、キューンという音とともに停止した。その瞬間、紫苑の頭痛が消えた。〈トカゲ〉が慌ててリモコンのボタンを押してもちくりともしなくなった。紫苑の反撃はオスマントルコ帝国の親衛隊みたいに情け容赦がなかった。素手で戦った経験はなかったが、まるで最初から戦い方を知り尽くしているように体が動き、ひねった手首の一撃で二人の角刈りを仕留め、腰を落としてから手のひらで〈相撲取り〉の胸を打った。〈相撲取り〉はうめきながら仰向けに倒れた。掌打はそれほど強くは見えなかったが、あとでERのインターンが見たところ、肋骨が七本折れて、肺に突き刺さっていた。マフィアと〈組長〉はすでに寿司ルームから逃げ出していた。
ホールはパニック状態だった。客たちは我先にと出口へ殺到し、銃弾が飛び交って、あちこちでプラスチックがパキパキと割れた。マシン・ピストルの性急な連射音が鳴り出すたびに、運のない数人の男女が血を吐いて倒れた。紫苑の刀がカウンターから遠くない位置に浮いていた。ダクトのカバーが外れていて、そこからサンシャインが刀を釣り糸で吊るしていたのだ。それを受け取ろうとしたとき、左腕に鋭い痛みが走った。〈トカゲ〉の鱗顔が笑みで奇妙に歪んでいた。その手には切っ先に血をかぶった短刀。繰り出された突きを上身を傾けてかわし、首筋に手刀を打ち込んだ。バキッという音とともに〈トカゲ〉は震え出し、鱗がカチカチと金属質な音を立てた。紫苑は親指を立てた拳を〈トカゲ〉のこめかみに見舞い、完全に倒してしまうと、宙づりになっている自分の刀を手に取った。
のちに紫苑はジュセッペがあの混乱のなかでどうやってあんなに絶好の位置にいたのか考えることになる。考えれば考えるほど分からなくなるし、お互い仕事のことを根掘り葉掘りするのもよくないと思い、やめてしまった。ただ、あのとき、出口のすぐそばで大勢の子分に囲まれて、絶対に安全に思われた〈組長〉とマフィアの幹部の後ろには赤いカーディガンにウールのネクタイをつけたジュセッペがいた。まず〈組長〉の頭を撃ち、次にマフィアの首の付け根を撃った(マフィアのほうが少し背が高かった)。ジュセッペは現れたときと同じくらい静かに消えた。なぜ、殺したのか。あのヤクザはセカンド・カンパニーについてなにか知っているのかもしれない。もちろんなにも知らない駒の可能性もあるし、その気配が濃厚だった。なら、その上の人間を吐かせればいいのだが、ふらりと現れたジュセッペがその糸を断ち切ってしまった。
すぐにマシン・ピストルの乱射とパトカーのサイレンが鳴り響き、バーチャル・アイドルは徹底したプロ意識でストリップ・ショーを続けた。紫苑はヤクザと警察、そして自分の三つ巴の血で血を洗う戦いに身を投じなければならないことを自分に納得させたが、そのとき、フロアの床がずるっとずれて、その小さな穴から黒いマスクをつけた少年だか少女だか分からない子どもが顔を出した。そして、手招きをすると、そのまま穴のなかに消えてしまった。紫苑が穴を除くと、赤錆びたハシゴが下に伸びていている。紫苑が穴に飛び込んで蓋をすると、床で暴徒鎮圧弾が跳ね上がり、カミソリ角材をふりまわす年寄りヤクザの腰骨をバラバラにした。銃撃戦は続いていたが、それなりに深いところまでいくと、地上世界は乾いた音をひとつ鳴らして引き上げた。紫苑は頭のなかに耳鳴りをきいた。




